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「ボランティア」というフリーライダー

■先日、自分の通っている大学を会場に「日本ボランティア学会」が開催され、そこで一般演題の発題者として、「ぷらっとほーむ」での実践を通して見えてきたことを報告してきた。発題タイトルは「「ボランティアする側」と「される側」~「居場所」運営者から見た「ボランティア」~」。私たち「ぷらっとほーむ」が「ボランティア」というものをどう捉え、どう扱っているのか、その背景にある考えかたとは何か、等について理論的な整理を行ったものである。

■最初に確認しておくと、「ぷらっとほーむ」には、「ボランティア・スタッフ」という位置づけで活動に関与している者はいない。「運営者」=「スタッフ」2人以外は、すべて一律に「利用者」ということになる。両者の間の線引きは、「居場所を準備する側」と、「居場所を求める側」との間に引かれる。この線引きのもとでは、「ボランティア」希望者は、「居場所での「ボランティア」行為を求める人」と位置づけられる。当然彼(女)は「居場所」の「利用者」である。

■このような前提で活動してきて、もう4年目になる。だが、未だに「ぷらっとほーむ」には、「ボランティア(支援する側)として関わりたい」といった問い合わせが後を絶たない。確かに、苦しんでいる誰かのために、自分の時間や能力を役立てたいという、その気持ちはとてもすばらしいと思う。しかしながら、何の「専門性」ももたず、善意のみを根拠とする「ボランティア」には、「支援する側」に立ち得るような正当性が、いったいどこにあると言えるだろうか。

■私たちが最も気になるのはこの点だ。「居場所がほしい」という動機については他の「利用者」と同じであるはずの人びとが、なぜか自分は「利用者」=「支援される側」ではないと自らを位置づけ、本来同じ「課題」に取り組む「仲間」でありうるはずの人びとを「支援される側」とし、その間に序列を設ける。そうした序列、つまり自分たちより「下」のカテゴリーを設定することで、相対的に「上」に自分たちを位置づけようという操作がそこにはあるのではないか。

■こうした「ボランティア」の作法を、私は「「ボランティア」というフリーライド(ただ乗り)」と呼んだ。誰かを踏み台にすることで相対的に自分を上げる。誰かの犠牲のうえで初めて成り立つような方法は、たとえそれがどんなに優れて自己肯定を促すものであったとしても、到底受け入れられるものではない。誰をも踏み台にすることなく、ひとりひとりが自信や動機を獲得していけるような場。私たちが目指すのは、そうした場所なのである。 

※『ぷらっとほーむ通信』039号(2006年07月号) 所収 

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