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フリースペースは「こころの専門機関」であるか?

フリースペースを運営していると、さまざまな場面で、不登校「問題」に取り組んでおられる学校の先生方やカウンリングなど「こころの問題」にたずさわっておられる方々と話す機会がある。他者とコミュニケートしたり対話したりすると、図らずもお互いがそれぞれ無意識の内に前提にしてしまっているような価値規範なんかに気付けたりするものだから、私自身はそういう場面が大好き(萌えー)である。そこで一つ、私が気付いたフリースペースSORAの前提について、今回は記述してみたいと思う。

SORAは、「不登校の子どもたちの居場所づくり」をその主な活動としている。活動の目的は、不登校の子どもたちの育ちと学びの支援だ。だがそのように言うと、一般的には、学校教員やカウンセラーや精神科医といった、「子ども」や「こころ」の問題の専門家たちの活動と受けとめられがちである。だが、これははっきり明言しておきたいのだが、SORAというフリースペースの取り組みは、そういう点では何ら「専門家」的なものではない。さらに言うなら、我々は不登校「問題」の「専門家」などでは決してない。これはどういうことか。

SORAが実践しているのは、運悪くたまたま学校や家庭の中に居場所を見出せなかった子どもたちに対する別種の選択肢=居場所の提供である(物理的な、そして社会的な意味において)。もちろんそこが何らかのオルタナティヴになり得るためには、学校のような敷居の高い(=自由度の低い、選択肢の乏しい)空間のようであってはダメで、居心地の良い居場所であるためのさまざまな工夫が当然必要になってくる。私たちが行っているのはつまり、そうした「居心地の良さ」を確保するための空間設計ということになるわけだ。

違う角度から語り直してみよう。つまり、SORAでは「こころ」に照準するような方法はとっていないということだ。不登校というと、「こころ」の問題に直結されがちだ。確かにそういう側面もあろう。しかし、それが全てだろうか。彼らに居場所を準備できなかった学校や社会の枠組をそのままにしておいて、それに不適応な子どもの「こころ」を「治療」し、学校や社会の鋳型に再びはめなおして「問題」解決、という考え方は果たして正しいといえるのか。むしろ問題は、多様な選択肢の創出を怠ってきた学校や社会にこそあるのではないか。

そういうスタンスであればこそ、私たちは不登校を、子どもたちの心性(の歪み)にのみ帰属させたりはしない。空模様が多様なように、こころも多様であっていいはず。そんな「正しいこころ」への違和感が私たちのスタートラインにある(フリースペースSORAの命名の根拠はそこにある)。むしろ、さまざまな心性や個性を受けとめ、それぞれが抑圧されることなく伸びやかに成長していけるようなリベラルな居場所や空間=社会的選択肢を具体的に準備していくこと。私たちの実践は、そういう社会づくりのためのささやかな第一歩に過ぎない。

(『SORA模様』2002年11月 第19号 所収)

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