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NPO・市民活動をどう捉えるか――「東北の春」に向けて(01)

■災後ディストピア?

あの震災から丸三年。直後は「災害ユートピア」のゆえか、「これで日本の社会は変わる」とか「戦後が終わり災後が始まる」とか、希望や期待に満ちた言葉たちがあちこちで語られていたような気もするが、それももう今は昔。災後の厳しい現実が、少しずつ、各所であらわになってきている。

3.11以降、東北各地では、復興支援のボランティアやNPOが求められ、それに応えようと多様な人びとが活動を開始した。しかし、それらすべてが善意の主体だったとは限らない。岩手県山田町の事例が有名だが、「支援者」を騙って現地の自治体からカネを詐取すること、被災者支援にかこつけた自己喧伝が目的の人びともまた、その中に混ざりこんでいたようだ。「玉石混交」から「玉」だけを選りわける術(すべ)が必要だ。

「まともなNPO(玉)とそうでないNPO(石)とを見わける基準とは何か」と問われたら、あなたは何と答えるだろう。一般的な回答としては、その団体の人員/予算の規模やその団体の取り組みを支持/活用する人びとの数、活動期間の長さ、関与している専門家の有無、といったことがあげられよう。

だが、そうした外形的で計量的な基準に依ってしまったがために、先に述べたような残念な事態が生じたのではなかっただろうか。要するに、量的なよさは質的なよさを保障しない。ということで、ここでは、そうした量的なアプローチの代わりに、質的なアプローチというものを考えてみたい。

■NPO・市民活動の見わけかた

そもそもNPO・市民活動とは何だろうか。NPOとは「Non Profit Organization」の略である。教科書では「非営利組織」と訳される。「非営利」とはつまり、「お金もうけを目的としない」ということだ。しかし「お金もうけをしない」という否定形の定義では、その団体が何をミッション(使命)とする集団なのかを決めたことにはならない。つまりは、「~ではない」ではなく「~である」という定義が必要だ。このためNPOは、そのミッションを、自分たち自身で決めなければならない。

たいがいのNPOは、何らかの困りごとを抱えることになってしまった人たちが、その解決をどこかの専門家にお任せするのではなく、自分たちで何とかしようと動き出す、という形で始まる。そのとき彼(女)らは、「自分たちは、自身が取り組んでいるその問題をどのようなものととらえ、どんな方向へと解決していこうとしているのか、そして実際に、いかなる方法や資源をつかってそれを実現しようとしているのか」を、自ら〈ことば〉で定義し、表現せねばならない。そのようにして紡がれた〈ことば〉が、NPOのミッションである。

そうした自己定義の枠組(フレーム)は、いかなる分野――「まちづくり」とか「福祉」とか「環境」とか――のNPOにおいても該当する。つまり、あらゆるNPOは、①解決したい課題(ニーズ)、②上記課題を解決することで何を達成したいか(ゴール)、③そのためにどんな資源を用いているか(リソース)、をもとに定義可能ということだ。

これは、言いかえると、「あらゆるNPOはそれに固有の物語をもつ」ということでもある。先の三つの基準――①解決したいニーズ、②目指すゴール、③用いる資源(リソース)――を文章化すると「私たちは○○というニーズを解決し、△△という社会を実現するために、□□を用いて活動する」となる。物語とはこの組み合わせのことだ。

実際にこの基準を用いて市民の諸活動を記述してみよう。例えば、本誌『みちのく春秋』。彼(女)らの物語は、①3.11以前の日本社会のありかたを反省し、そこからの脱却を模索するために、③東北各地で生活し活動する人びとの現場発の実践や言説を用いることで、②東北の、東北による、東北のための公論の空間をつくる、と記述可能だ。

あるいは筆者の主宰する「ぷらっとほーむ」。彼(女)らの物語は、①若い世代が陥りがちな社会的孤立とそれゆえの生きづらさを解消するために、③彼(女)らがつながれる居場所――フリースペースとその周辺にひろがる緩やかな親密圏のネットワーク――を用いて、②地域や社会の中に、若者たちの包摂と参加の場をつくる、と記述できる。

このように、三つの基準――①ニーズ、②ゴール、③リソース――を用いることで、NPOは自身の質的な側面を記述することが可能となる。「質的な側面」とは、そのNPOの擁する文化のことである。文化のありように着目することで、私たちはそのNPOの真贋をわりと容易に見わけることができる。

もちろんこの場合、NPOの真贋は何らかの数値の高/低ではかられるわけではない。そのNPOの文化を記述する〈ことば〉のぶ厚さ/薄っぺらさであったり、深さ/浅さであったり、豊かさ/貧しさであったりするものが、そこでは判断基準となるだろう。その意味で質的アプローチは相対的であり、誰でも採用可能というわけではない。

では、質的アプローチには何が必要か。端的にそれは、〈ことば〉の力――些細な差異や違和を〈ことば〉で分節し捕捉できる力、それぞれの〈ことば〉の背景や文脈、磁場に敏感でいられる力、それぞれの〈ことば〉と距離をもって対峙できる力、等々――だということができる。「教養」とも言い換え可能だ。

■NPO・市民活動と〈ことば〉

以上をふまえると、NPO・市民活動と〈ことば〉とが深いつながりをもっていることも見えてくる。先に述べたように、NPOはそのミッションを〈ことば〉で自己定義すること、そしてその定義を〈ことば〉で更新し続けることを求められている、いわば再帰的存在である。NPOの運営においては、この再帰性をうまく馴致していかねばならない。

再帰性とは決定不能性のことである。NPOは「非営利」ということ以外に何の制度的枠づけももたないことは先に確認した。ゆえにNPOはその空洞を、何らかの〈ことば〉で埋めなければならない。この〈ことば〉が貧困であれば、そのNPOは、自身の存在意義でもあるところのニーズを捉え損ね、現実から遊離していかざるをえない。「石」への転落である。

とすれば、「玉」であるための条件、「玉」を見わけるための条件はその逆、ということになろう。〈ことば〉を自在に操れるようになること。それによって、変動する社会のニーズをその都度〈ことば〉で丁寧にすくいあげ、居場所を与えてやれるということ。あるいはまた、活動者たちのそうした行為をきちんと捕捉し、正しく評価してやれるということ。

「玉石混交」の現状はまだ当分は続く。その中で、まだまだたくさんの人びとがNPO詐欺に騙されたり、自分探し系NPOに振り回されたりするのだろう。「なんて無責任な!」などと言うなかれ。こんな状況に陥ってしまったのは、これまで「玉」の地味で地道な努力をスルーする一方で、「石」を安易にもてはやし増長させてきた私たち自身の責任でもあるのだ。

私たちはまだ、NPOというしくみ――それは、参加型民主主義の手法でもある――をうまく使いこなせていない。そしてまた、〈ことば〉というものをうまく使いこなせていない。とすれば、私たちには〈学校〉が必要だ。私たちが〈ことば〉とそれに基礎づけられた社会運営を学べる場が。必要なのにないとなれば、自分たちでつくりだすまで。次号では、私たちの〈学校〉づくりのもようをお伝えできたらと思う。

(『みちのく春秋』2014年夏号 所収)

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