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「居場所」に「社会学」の花束を。

■先日、山形県からの委託を受けた「若年無業者のための社会参加体験プログラム開発」事業の一環として、東北公益文科大学(酒田市)の渡辺暁雄准教授(社会学)のゼミに、ぷらほメンバー4名とともに参加・体験してきた。ゼミとは、大学に特有の学びの形式だが、あまり身近ではないそれを一日体験してみようというのが企画の趣旨だ。実を言うと、このゼミ(通称「あけおゼミ」)は、わたしが現在、大学院生として所属して学んでいるゼミである。

■自分の基盤をつくってくれた場所、自分が言葉を獲得する手がかりをくれた場所、そして現在もなお、NPOの現場でのあれこれを整理するために活用している場所、それが、わたしにとってのゼミである。そういう価値ある場所を、メンバーにも体感してほしかった(そして願わくば、潜在的な選択肢として脳内に登録してほしかった)というのが動機のひとつ。動機のふたつ目は、とりわけ「社会学」という知の存在をメンバーに知らせたかったということにある。なぜか。

■以前、研究者としてのわたしのテーマは「居場所の社会学的分析」だと書いた。「社会学的」ということの含意は、ふだんわたしたちがものを見たり感じたり考えたりする際に無意識に採用している世間の常識のようなものから少し離れて、いつもとは違う角度や視点でそれを見てみる、ということにある。同じ対象を見ても、そこに多様な意味や価値を読み込むことができるということ。文脈の読み替え能力といってもよい。それは「自由である」ために不可欠なものである。

■「社会学」がそういうものだとすると、「社会学的でない」とは、世間の常識を疑えない、いまの自分(=世間)の視線や価値観を絶対視している、そんな不自由なありかたをさす。これは、どこか見覚えのある光景ではないだろうか。知らぬ間に負のラベルを貼られ、「みんな」の中からあぶりだされ、孤立の中でいつのまにかそのラベルを内面化し、最終的には自分で自分をいたぶる。被差別の当事者がしばしば強いられるあの「不自由」に、これは似ていないだろうか。

■差別的な扱いや言葉を浴び続けるなかで硬直化させられてしまった当事者の人びとの自己/社会認識やそれに関する語彙を、リベラルでコミュニカティヴな儀礼空間の提供を通じてゆっくり解きほぐしていく。それが、居場所の支援の基本となる方法である。とすると、「社会学」が志向するありかたは、居場所のそれに重なり合うものだということになる。社会学と居場所。このふたつをより丁寧に接合すること。それが自分の、これからの課題になるだろう。

※『ぷらっとほーむ通信』056号(2007年12月号) 所収

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