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村山をめぐる――「東北の春」に向けて(12)

あいかわらず地方都市のスタディ・ツアーを楽しんでいる。それが、おもしろいもので、よその街をあちこちめぐりその土地その土地の歴史・文化に触れると、「あれ、そういえば自分の地元はどうなんだろう?」と改めて自分(たち)の足もとが気になり始める。ということで、昨年の秋から冬にかけ、筆者が暮らし活動の舞台としている山形県村山地方の各地を「まちあるき」してみた。

このとりくみには、「公益信託荘内銀行ふるさと創造基金」より助成をいただき、各地のその場所に詳しい研究者や活動者の方がたにガイドをお願いし、全部で四つのコースをデザインした上で、参加者を公募し実施した。その成果はもうすぐ『ヤマガタの巡りかた!(仮)』という冊子(ぷらっとほーむ[編])にまとめる予定だ。今回はこの四つの「まちあるき」コースについてご紹介したい。

■コース(1) 山形のまちは「川」がつくった?

[霞城公園・本丸 → 東大手門 → 最上義光歴史館 → 水野屋敷跡 → 御殿堰 → 済世館・親水広場 → 水の町屋・七日町御殿堰 → 羽州街道 → 笹谷街道入口石碑]

山形は、蔵王から流れてくる馬見ヶ崎川がつくった扇状地である。扇状地においては、扇央の部分で河川が地下を伏流するため、水に乏しい。よって水を確保する必要がある。近世初めに山形を統治した最上氏は、馬見ヶ崎川の上流から堰をひくことで、まちのすみずみまで水をいきわたらせた。また、最上氏はその居城を、伏流した水がわきだす扇端にあたる現在の霞城公園においた。このように、山形のまちのなりたちには、「川」の存在が深く関わっている。

■コース(2) なぜ天童は「将棋のまち」になった?

[舞鶴山・健勲神社 → 妙法寺・観月庵 → 佛向寺 → 吉田大八屋鋪跡 → 天童織田藩陣屋跡 → JR天童駅・将棋資料館]

天童はなぜ「将棋のまち」となったのだろうか。江戸時代の天童には、織田藩(天童織田藩)があった。この天童織田藩は、下級武士の内職として将棋の駒の生産を奨励した。とりわけ家老の吉田大八がそれに力を入れた。天童織田藩は、幕末の動乱期に維新側についたことで佐幕派の庄内藩から攻撃され、吉田大八も自刃に追い込まれるが、維新政府が成立すると、その功績がたたえられ、健勲神社が建立されるにいたった。このように、織田藩の置き土産が天童のまちなかには豊富に存在している。

■コース(3) 山形のまちは「軍隊」がそだてた?

[山形大学・小白川キャンパス → 小姓町 → 旧駆梅院 → 千歳館 → 花小路 → シネマ通り → 霞城公園・三二連隊]

明治期に入ると、山形の街の人口は急増していく。それとともに近代の都市計画が導入されていく。そうした流れのなかで、まちの東のはずれに近代遊郭としての小姓町がうまれていく。小姓町の発展には、当時城跡に設置された第32連隊(山形聯隊)も関与している。兵士たちの消費需要を満たすべく、小姓町のほかに花小路やシネマ通りが発展し、消費都市としての性格を強めていく。このように、近代の山形のまちの発達には「軍隊」の存在が深く関わっている。

■コース(4) 神町のまちは「アメリカ」がそだてた?

[あすなろ書店 → 空港ターミナルボウル・山形空港 → JR神町駅 → 羽州街道 → 若木神社 → 若木山・自衛隊神町駐屯地 → 赤門・親不孝通り]

東根市神町は、芥川賞作家・阿部和重の古里であり、作品の舞台となっている土地である。阿部の想像力は神町のどこに感応したのか。神町はもともと羽州街道沿いの小集落。戦時期に海軍飛行場ができたのと、食料増産のための若木開拓が始まったことで、急速に開けていく。戦後は米軍が駐屯し、米兵相手の消費空間が発達する。米軍が去った後は、自衛隊がやってきてその消費空間が引き継がれた。このように、神町のまちの発達には「アメリカ」が深く関わっている。

いまさらの感想だが、実際に歩いてみると、何もないと思っていた自分(たち)の地元にも、興味深いモチーフがいろいろと存在することがわかってきた。街路の一本一本に、それがそのようにあることの理由や意味があるのを知ることで、ただの通り道だった場所にも改めて愛着がわいてきた。まちの当事者になった感覚、とでも言おうか。たいへんに面白い。さらにあちこち歩いてみようと思う。

(『みちのく春秋』2017年春号 所収)

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