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「わかりやすさ」ということの陥穽。

前回のテーマとも関連するが、私は、フリースペース(あるいは不登校)について語るための言葉が、「こころ」をめぐる語彙やロジック(心の病や歪みを治しましょう)のみに覆い尽くされてしまうことに危惧を覚えている。そうした画一的な語りは、私たちが自身の属する社会システムについて思考するための、貴重な機会や動機を損ねてしまうのではないかと思うためだ。不登校「問題」を、個人の内面=「こころ」の問題としてのみ枠づけるのではなく、私たち自身が幸福に生きるための学校づくり/社会づくりへのヒントとして捉えることが必要なのではないかと。

とはいえ確かに、流動性を増した(=前提の異なる他者との遭遇可能性が増した)現代の社会は、共通前提をあてにできないことから他者との関係により意図せざるダメージを被りやすい、そしてそれ故に「癒し」や「こころ」に関心が集中しやすい社会だ。そうしたなか、「傷ついたこころ」を専門的に治療/支援する「こころの専門家」が必要であることも十分に弁えているつもりだ。それらを否定する気はまるでない。しかし、だからといって、「こころの専門家」だけがそうしたことに関わるべきだとも思わない。

そもそも「こころの専門家」といったところで、それぞれが採用している方法論は多様であるし、そのうちのどの治療/支援がその人を最もよく救い得るか、等ということは一概には言えない。お互いに生身の人間なのだから、その日の気分だとか、相性だって当然ある。結局、それらを利用する側が、自分でリスクを負って試行錯誤しながら、自らに適した医療/支援機関を選択する必要があるわけだ。要は、「こころの専門家」といっても、万能ではないのだということだ。

したがって、自分自身の思考や実践(そしてその責任)を放棄して「こころの専門家」に丸投げするような、専門家依存は極めてリスクが高いと言わざるを得ない。確かに、専門的に「こころ」について学んだわけでもない私たちが、不登校やひきこもりのような「訳のわからないもの」に遭遇したとき、「それは実は○○○なんですよ。だから○○○すればOKですよ」と簡単に教えてくれる「こころの専門家」がいてくれるなら安心だし効率的だ。余計に悩まなくてすむ。しかし、と私は思うのだ。その「わかりやすさ」(=速度!)こそが問題ではないのかと。

人と人との関係やコミュニケーションのありように関して、安易な答えなどないことくらい誰もが知っていよう。じっくり時間をかけ試行錯誤を繰り返しながら、ゆっくり少しずつ関係を積み重ねていくこと。そのなかでこそ、人は他者を、そして自分自身を受け容れ、尊重していくことができるようになるのではないか。だとすれば、あえて「わかりやすさ」への依存を回避し、そうしたスローな学びの空間を設計することこそが重要であるとSORAは考える。何らかのコスト負担(ここでは、自分で考え悩むこと)がなければ、何かを本当に学ぶことなど不可能だ。短期的な「問題解決」よりも、長期的な学習機会の確保を。心の問題についても、社会の問題についても、そうやって私たち自身が少しずつ賢明になっていくことが必要なのだと思う。

(『SORA模様』2002年12月 第20号 所収)

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