見出し画像

神町と戦争の記憶――「東北の春」に向けて(28)

日本の夏というのは「戦争」をめぐる記憶――といっても筆者に直接の「戦争」体験があるわけではもちろんない――が賦活化される季節であるが、この夏はいつになくそれが強く感じられた。今回は「戦争」について書く。



6月14日、アメリカ軍輸送機オスプレイが山形県東根市の山形空港に緊急着陸し、そのまま一週間ほど駐機した。なぜそうなったか、詳細は明かされぬままで、結局、私たちには何がおこったかを「知る権利」すらないことが明らかとなった。

筆者の周辺では、このできごとを受け、〈沖縄〉を想起したとの声がきかれた。空港周辺の見物客がニュースにもなっていたが、それは(基地やオスプレイを押しつけられている)沖縄の人びとにとってどう映るだろう、という憤りとともに漏れ出た声であった。

たしかに〈沖縄〉だ、と筆者も感じた。沖縄には、2014年にはじめて足を踏み入れた。学会の全国大会がそこであり、せっかくなので仲間とレンタカーで各地を回ったのだった。行く先々で目にしたのは、そこが現在もなおアメリカの植民地であるというむきだしの事実であった。

例えば、移動手段が電車でなく高速道路なのは、基地の存在ゆえに鉄道が敷設されていないこと、路上でアメリカ軍車両を見つけたら速やかに車線変更か車間距離をとれと言われたこと(治外法権ゆえにぶつけられても泣き寝入するしかない)等々。

しかし、よくよく考えれば、植民地としての経験は山形空港に隣接する神町もまた共有している。そこは、戦後アメリカ軍が進駐し、しばらく駐留していた「キャンプ地の町」だったからだ(その跡地がいまは自衛隊駐屯地となっている)。

とはいえ、当時の「遺構」は、近年急速に神町から失われつつある。アメリカ軍がデザインした神町駅舎も、青線の名残りをとどめる窓のない家屋群も、キャンプ地返還記念で植樹された銀杏の樹も、次々と姿を消してしまった。記憶の契機がなければ、それを思い出すのは難しい。騒動に際し、私たちが〈神町〉を想起できなかったのだとすれば、それはそうした「遺構」の喪失とも関係していよう。



だが、そうした中にあって、当時の記憶を「歴史」として後世に残していこうと努力する人びともまた、神町には存在する。同町に鎮座する若木山[おさなぎやま]の南麓、さくらんぼ園に囲まれた集落・若木郷に、「若木歴史開拓資料館」という小さな歴史博物館がある。管理者の朽木新一さんにお話を伺う機会があった。

若木郷は、東北各地が恐慌と凶作とに苦しめられた1930年代、政府の農村救済策として創設された開拓集落である。いわば、満蒙開拓の国内版だ。それが、東北六県にそれぞれ100戸ずつ割り振られ、山形県内では塩野原(新庄市)に45戸、若木原(東根市)に55戸が入植した。1937年のことである。朽木さんはその開拓二世にあたる。

若木郷の歴史は、昭和の戦争に翻弄されたそれであった。総力戦下では入植者もまた兵隊にとられ、残された母子が周囲の助け合いで営農を継続した。しかし、そうやってようやく実を実らせた果樹も「不急作物」の指定を受け、転作を強要された。

戦争が終わっても、若木郷の労苦は続く。GHQ占領下の時代には、アメリカ軍が神町に駐留。そのキャンプ地として開拓地の少なからぬ部分が接収され、1956年にアメリカ軍が去って戻ってきたときにはそれらは荒れ果て、しかも細切れになっていた。

若木郷はしかし、そうした苦難の時代にあってなお、「隣保共助」の精神で以て助け合い、「果樹王国」とも呼ばれる単作専業地帯を発達させていった。資料館には、そうした開拓集落の「歴史」を証しだてるさまざまな資料や史料がところせましと収蔵され、展示されている。

「あの戦争」の終わりから76年。当時を生身で知る人びともそのうちこの世からいなくなる。そうなってしまえば、何が「遺構」であるのかさえわからなってしまう。すべてを残すことはもちろん不可能だ。だが、少なくとも、私たちが自身の現在地を知るのに不可欠な「遺構」への手がかりくらいは残しておかねばなるまい。時間はもう、さほど残されてはいない。

(『みちのく春秋』2021年秋号 所収)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?