アクティヴ・シティズンシップを育むには?――「東北の春」に向けて(25)
結局、博士論文の提出は見送ることにした。前回こちらで書いた問い――「ぷらほ」の調査を「研究」たらしめるにたる学術的な問いとは何か?――に明確な答えが示せなかったためである。とりあえずはもう一年、上記の問いに自分なりに答えられるよう、研究を続けてみようと考えている。もうしばらくおつきあい願いたい。
考えているのは以下のようなことだ。すなわち、私たちの社会はいま、さまざまな問題を抱えている。それらを解決してもらうべく、私たちは政府に税を納め、専門性を有する人びとを公務員として養っている。しかし、社会が成熟し、人びとの求めが多様化した現在、行政のみでそれらに対処することは不可能となった。
「政府の失敗」とよばれる事態である。これを受け、多様化し細分化されたニーズに寄り添い、それらに応えることができる社会的な主体が求められるようになった。かくして誕生していったのが、市民活動やNPOである。これらは、別名・市民社会組織(CSO)とも呼ばれる〈市民社会〉のアクターである。
〈市民社会〉とは、政府とも市場とも親密圏とも異なる、それらの残余にあたる領域をさす。そこでは、家族だけでは担いきれない、しかし行政も企業もなかなか手を出せないようなニッチなニーズに応える多彩な活動が生成し、そうした活動どうしの間で競争や抗争、対立、対話などが日々繰り広げられている。
多様なニーズや資源が相互にぶつかり、ときにまじりあうこのアリーナからは、それらの新しいカップリングが生成することも多い。それが政府や市場や親密圏へと媒介されることで、各領域の変革につながることさえある。〈市民社会〉とは、そうやって硬直化しがちな私たちの社会に柔らかさをもたらしてくれるものである。
営利をミッションとする企業が避けられない「市場の失敗」をカバーするべく要請されているのが政府だが、その政府もまた「失敗」する。そこで動員されてきたのが〈市民社会〉であり、その担い手となる市民社会組織である。だが、〈市民社会〉もまたニーズのすべてを適えられるわけではない。そこにも「失敗」がありうる。
具体的にはこういうことだ。すなわち、阪神淡路大震災を契機とした「NPO法」(一九九八年)、民主党政権による「新しい公共」(二〇〇九年)、安部政権下での「地域共生社会」(二〇一八年)に共通するように、政府は自らの「失敗」をカバーしてもらうべく、〈市民社会〉にその穴埋めのカウンターパートを求めてきた。
「NPO法」においてはボランティア(その主な担い手は主婦と高齢者)、「新しい公共」では社会起業家、そして「地域共生社会」では当事者性を有するNPOや地域団体などがそれぞれ求められ、さまざまな役割を背負うことを期待されてきた。しかし、政府の期待とは裏腹に、その充当は容易ではない。
期待されているのは、自発的に集い、同じ問題意識をもって社会課題にとりくむような人びとの集まりであるが、そんなに都合よくそうしたものが生まれ、育っていくわけはない。当然、活動的な〈市民社会〉が成立する場所とそうでない場所とがそれぞれに生成していくことになる。これが「市民社会の失敗」である。
よって、上記の協働――「新しい公共」や「地域共生社会」――が実際に達成されるようになるには、市民側のカウンターパートを意識的に生み出し、育んでいく必要がある。これは、活動的な市民性(アクティヴ・シティズンシップ)と呼ばれるもので、これを養成していくことができれば、「失敗」の回避が可能となる。
では、そうしたシティズンシップを人びとの間で育んでいくためには何が必要だろうか。一般にそうした試みは「シティズンシップ教育」と呼ばれるが、その実践の多くは学齢期の子どもたちを対象に学校で行われているものである。ここで問題にしたいのは、大人たち相手のそれである。
「ぷらほ」の〈居場所づくり〉実践についてあれこれ考えてきて、その意義をつかまえようとするなら、ひとつにはそうした市民性の揺籃としての側面が明らかであったと思われる。それはたくさんの人びとを市民活動へとゆるやかに媒介し、その解散後も彼(女)らは〈市民社会〉において活動を続けているためである。
それが可能となるために、「ぷらほ」はどのような場をつくりだし、育てていたか。そこで過ごした人びとにいかなる態度や行為が生まれていたか。同時に、周囲の環境にいかなる変容がもたらされたか。そしてそれは〈居場所づくり〉のいかなる機序において可能となったか。そんなことを明らかにできたらと思っている。
(『みちのく春秋』2020年冬号 所収)
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