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あなたはすでにアナキスト――松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社、2021年)評

アナキズムとは、国家や政府による支配を否定し、それらのない世界をめざす思想・運動のこと。そのアナキズムが、近年、(ちょっとだけ)流行している。東北芸術工科大学(山形市)で非常勤講師をしている栗原康が火付け役となり、関連図書の刊行が続いている。評者は1990年代後半の大学院生のころ、日本近現代史の教員の専門が「近代日本のアナキズム」だったこともあり、大杉栄やギロチン社などのテクストを通じてアナキズムに触れたことがあったが、大変にマニアックな極論の世界を覗き見したくらいの感覚で、それがひろく社会的な意味をもち、人びとの関心を呼びうるものになるとは当時まるで思えなかった。

この懸隔は、しかし、四半世紀の時間をかけて埋められていくこととなる。時代が追いついたのである。先に、アナキズムとは国家や政府の支配を否定する思想・運動と書いた。2021年の現在――3.11から10年後の現在――、国家や政府は「新自由主義」のもとで自らその統治(=公助)を縮小させ、人びとの自己努力(=自助)や助け合い(=共助)に生存や生活の支えを委ねようとし、しかもそれが人びとに支持されている。生活保護が抑制される一方、子ども食堂が推奨される社会のありようにそれは端的に現れている。事実上の無政府状態が出現してしまっているということだ。この現状を説明するものとしてアナキズムが要請されているのだろう。

とはいえ、従来のアナキズム案内書は、近代日本のアナキストやヨーロッパ圏のアナキストなど、歴史上の巨人たちの思想や運動を追いかけることに終始するものが多く、読み物としてはおもしろく読めるものの、それを自分たちの現在や現状にどう活かせばよいか、なかなかわかりづらいというのが正直なところであった。それは、国家や政府の否定に力点があったからだと思われる。だが、アナキズムのもうひとつのポイントは、国家や政府の不在において、強制や支配を経ずにどのように生存や生活を自分たちで編み上げていくかという点にある。後者に力点をおいてアナキズムを私たちの日常に接続することはできないだろうか。

この後者のテーマを追求しているのが本書だ。支配されずに自由に生きていくにはどんなやりかたがあるか。参照されるのは、世界中に存在する「国家なき社会」――それは紛争続きのアフリカであったり中世の地中海世界であったり、震災下の熊本やコロナ禍の日本だったりする――を生きる人びとが編み出してきた/いる、さまざまな「いきる技法」。エチオピアが主なフィールドの文化人類学者である著者は、それらの技法を「くらしのアナキズム」と名づけ、私たち一人ひとりがすでに/つねにアナキズムの実践者なのだと告げる。つまりは、国家や市場が未発達な場所こそがアナキズムの先進地たりうるということだ。〈地方〉もまたしかり。本書の視点は、従来の価値観から外れ、周辺や周縁に位置づけられてきた人びとに勇気と希望とを与えてくれるだろう。(了)

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