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10年目の3.11――「東北の春」に向けて(27)

やや時期がずれてしまった気もするが、今回は「10年目の3.11」について書いてみたい。前回記事の脱稿後にあったこと、したことの記録である。



東日本大震災から10年。3月に入り、このフレーズがにわかに各種メディアにあふれるようになった。そこには「復興も一区切り」というニュアンスが伴っているが、果たして被災地の実態はどうか。それを知りたくて、三月上旬、福島県浜通り地方を巡ってきた。

ツアーは、現地の友人たちからのアドバイスも参照しながら、福島県の浜通りを六号線沿いに南下しつつ、いわきを折り返し地点に再び北上、その道中でそれぞれの街の震災遺構や伝承施設を辿り歩くというかたちにした。

回ってきたのは、浪江町の請戸小学校(津波浸水した地区の震災遺構)、富岡町にあるふたばいんふぉ(民設民営の震災情報センター)、いわき市の久之浜・大久ふれあい館(同市で最も高い津波に襲われた地区の震災伝承資料室が併設されている)など。

なかでもいちばんの目玉にしたのが、昨秋オープンしたばかりの東日本大震災・原子力災害伝承館(双葉町)。避難指示が一部解除されたとはいえ、まだ誰も住んでいない街の、広大な更地の一角に突然現れる巨大な施設に、まずは強烈な違和感を覚える。

施設内は、さながら3.11を題材にしたテーマパークのようで、順路に沿ってとてもわかりやすく福島の原子力災害とその後を追体験できるデジタル・ミュージアムになっていた。入館料は大人600円、小中高生300円。

館内ガイドの方からの一言が象徴的だったかもしれない。原発事故に関する展示パネル、その細かい文字を追っているときだった。いわく、「ちゃんと覚えて、帰ったらテレビで『フクシマフィフティ』みてくださいね」。

数日後に『フクシマフィフティ』のテレビ初放送があったそうだ。あの震災、そしてあの事故を「伝承」するとは、果たしてそういうことなのだろうか。一方で、もしそうでないのだとしたら、どんなかたちが適切なのだろうか。もやもやしたものが残った。



山形に戻ってすぐの3月11日、郡山市に暮らす友人といっしょに、あるオンラインイベントを企画した。「10年目の3.11 ~いま語りたいこと・私が思うこと~」と題し、参加者それぞれの思いを自由に語れる場を設けるというものである。

オンラインだったことで、山形のみならず、福島の方やもと福島(県外移住者)の方、東京や大阪、千葉、熊本など、全国各地から15人ほどに参加いただいた。おかげで、震災をめぐる多彩な経験や思いを知り、共有することができた。小ぢんまりとではあったが、やってよかったと思っている。

さらっと書いたが、「それぞれが自由に思いを語れる場」はそう簡単につくれるものではない。社会学に「犠牲の累進性」という概念がある。被災した土地があったとして、被害の程度は内部でもさまざまだ。そこで何かを語ろうとすると、どうしても傷の大きな人や場の方が通りやすく、そうでない者の声は響きにくくなる。

今般の原子力災害についていえば、原発のある福島の人びとを前にしたとき、そうでない私たちは思いを口にしづらい。山形も原発由来の放射線を浴びはしたけれど軽微だったし、彼(女)らの苦しみや大変さに比べたら語る資格などない、という感じだ。

同じ力学は福島県内においてもより微細に働いている。そこでは強制避難となった市町村の人びとでなければ「語ってはいけない」という空気があるという。筆者の郡山の友人も、そうした抑圧の力学によって語ることをずっと封印してきたと話していた。

最後にその友人が「自分の思いを語れて、そして周りの語りも聴けてよかった。またこれの続きがしたい」と言った。直接被災もせず、まともに復興に関わることもせずにきた自分に、これからできること、やるべきことのヒントをもらえた気がした。

(『みちのく春秋』2021年夏号 所収)

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