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38.伝えた人


 真っ暗な中で感じたのは、瞬間に吹き上がった突風だった。

 バイクのエンジン音が一瞬の内に身体を切り裂いていく・・・・。


 目を開けた。


 バイクはいなくなっていた。

 エンジン音は遠ざかっていた。音のする方へ目を向けると小さくなっていくバイクが見えた。


 危ない運転をするなあ。


 過ぎ去ったバイクを睨んでいると、そのバイクのテールランプが赤く光った。

 どんどんスピードが緩んでいく。

 お、お、お、と思っている内にバイクは道のど真ん中で止まった。

 バイクの人がここを振り返った。ドキリ、と心臓が鳴ったのも束の間、バイクはゆっくりとUターンしてここに向かってきた。やばい。睨んだのがばれたかも。

 僕は身構えた。近づいたバイクは僕の前で停まると、フルフェイスのヘルメットを脱いだ。

 現れた顔は知っている顔だった。

 クラスメイトの正樹だった。


 最悪だ。


 まずそう思った。よりによって何でこいつを睨んでしまったんだろう。僕は一瞬の内に殴られる覚悟をした。

「これから練習か?」

 正樹の声は意外にも落ち着いていた。顔も怒っているようには見えなかった。僕は頷いて「この森の中を走ろうと思って」とすぐそこの学習の森を指さす。

「へえ。ここで走ってるんだ」

 正樹は学習の森を何となしに眺めていた。


 何のつもりだろう・・・・。


 僕はこの男を怪訝に思った。こいつの事だ。もしかしたら皮肉を言って馬鹿にしてくるかもしれない。そう思っていると、正樹はバイクを降りてシートを開けた。中から取り出したのはヘルメットだった。

「練習前に悪いけどさ、ちょっと付き合ってよ」

 なになになに?どこに行くの?どこに連れていこうっての?

「ほら、早く乗れよ。あんまり時間がないから」

 正樹がバイクに乗ってエンジンを吹かしてくる。半ば強制的な感じで、僕は後ろに乗った。僕が後ろに乗ったのを確認すると正樹はバイクを走らせた。

 前から強風が吹いてくる。寒かった。何でこんな日に限って寒いんだよ、と思いながら正樹の広い背中に隠れるようにして寒風を耐え忍んだ。

 バイクはどんどん進んだ。辺りは人気のない畑と森しかない。

 一体どこに連れて行くつもりなんだろう。もしかすると誰もいない所でシメられるかも。

 そんな事を思っていると、バイクは東屋がある駐車場に入って停まった。そこは確か施設の入口だ。先は森が広がっている。この森を抜けた所に宿泊施設とかキャンプ場があったはず。

 駐車場に車は一台もない。周りは畑だけ。通る車は一台もない。

 絶好の場所だ。

 急に心臓が大きく動き始めた。

 正樹はバイクから降りると、駐車場の隅にある自販機の前に立った。

「何が飲みたい?」

 正樹が振り返ってきた。

「え?いいの?」と言うと「別にいいよ。これぐらい」と言って正樹は笑った。怒っているようには見えない。多分ここでシメるような事はしないみたいだ。心の中でホッとした僕は「じゃあ、りんご紅茶で」と言った。

 正樹は注文通りに、りんご紅茶を買ってくれた。それを投げつけてくるような事もしなかった。りんご紅茶を手渡した正樹は、缶コーヒーを一口飲むと口を開いた。

「駅伝、観た?」

 返事をしないでいると「二人とも凄かったな」と正樹は続けた。俯いたまま缶を弄んでいると正樹がコーヒーをまた一口飲んだ。

「・・・お前さ、もう駅伝やらないの?」

 僕は首を傾げて曖昧な反応をした。

 心の中もそうだった。

 今の率直な気持ちは走りたい。皆と目指したい。

 でもまだ邪魔するものがある。

 恐い。

 また皆に迷惑をかけたらと考えると恐かった。それにこいつみたいな人達にまた嗤われるかもしれない。

「俺は部外者だからさ、お前が考えている事に口出しはしないけどよ。でも、それでいいのか?勿体ないけどな・・・」

 何を言ってくるかと思ったら、正樹は意外な事を言ってきた。

 ただ、あんだけ馬鹿にしてきた人間がこんな事を言うのは何か裏がある気がする。もしかしたら棄権をした自分の無様な姿がまた見たいとか思っているのかも。そう考えると腹の奥が沸々と煮立ってくる。

「いや、遅い人は必要ないよ。足を引っ張るだけだし」

 尖った声が出てきた。煮立ったものがどんどん上がってきていた。

「じゃあこのままグジグジ暗い顔して過ごしていくのか?」

 なんだこいつ。あんだけ馬鹿にしてきたくせに今度は上から目線で説教するつもりかよ。

「今のお前を見てるとさ、イライラするんだよな。誰とも関わらないで辛気臭い顔してよ」

 無言を続けていると正樹は偉そうに口を衝いてきた。本当にこいつは何がしたいんだろ。自分だっていつも辛気臭い顔しているくせに。

 こういう奴ってよくいる。自分の事は棚に上げて、人には偉そうに言ってくる奴。自己中な人ほど周りを見てないから自分の事は棚に上げてくる。本当にやめてほしい。ああ、もう。イライラしてくる。もう、このまま走って帰ろうかな。

「別に怪我をしてるわけじゃないんだろ?さっきも走ろうとしてたもんな。走りたいんだったら駅伝部に戻ればいいじゃん。一人で走っても楽しくないだろ」

 本当に何だよこいつは。ほっといてほしいんだけど。関係のない奴ほど余計な老婆心を見せて突っ込んでくるんだよな。

「もういいんだよ駅伝は。皆に迷惑がかかるし」

 投げ遣りな口調になっているのが自分でも分かる。本当にムカつく。偉そうにして。自分が説教できる立場かよ。そろそろいい加減にしろよ。

「迷惑とか思うんならよ、まずその辛気臭いの何とかしろよ。お前みたいなのがいると周りが気を遣って空気が悪くなるんだよ。そっちの方が迷惑だろ」

 もう我慢の限界だった。抑え込んでいた衝動が喉元で爆発した──────。

「お前が言うな!クズのくせに」

 とうとう言ってしまった。

 もうどうでもいい。どうにでもなれ。砕け散ってやる。

 僕は正樹を睨みつけながら出てくるものを吐き出した。

「人の気も知らないで偉そうにすんなよ!お前だって言ってただろ!駅伝なんて恥かくから辞めた方がいいって。ほら、恥かいたよ!お前の言う通りにしなかったから皆の笑い者になったよ。だから辞めたんだよ!それを、なに今さら説得しようとしてんだよ。ていうか、何でお前に説得されなきゃいけないんだよ。お前は何様だよ。関係ないだろ。どっか行けよ。部外者はどっか行けよ!」

 言い終わって、とんでもない事を言ってしまったとすぐに後悔した。殴られる覚悟をした。でも、ただではやられない。絶対に応戦してやる。

 身構えて正樹を見た。

 すると、意外にも正樹は怒っていなかった。何故か悲しそうな顔をしている。

「あれは嘘だよ。本心で言ってない。お前らに嫉妬してたんだ。お前らが楽しそうだったから・・・悔しかったんだ。それであんな事を言ったんだ・・・」

 正樹の様子がおかしい。あいつが、こんな顔をするとは思えない。いつも苛ついていて、すぐにキレる危険な奴なはずだ。関わらない方がいいと皆が思うほど野蛮な奴だった。そんな奴がこんなになるわけがない。

「俺は、お前が俺みたいな人間になって欲しくないから言ってるんだ。今のお前は、あの時の俺にそっくりだよ。ずっと塞ぎ込んで誰も寄せ付けようとしない・・・このままだとお前はあの時の俺と同じ人間になるぞ。いいのか?あんな人間になったらお終いだぞ」

 正樹の目に涙が浮かんでいるように見えた。

「ごめん。あんな事を言って・・・取り返しのつかない事をしたと思ってる。許せないとは思うけど、本当にすみませんでした」

 正樹は頭を下げた。一向に頭を上げようとしない。

 あの正樹が謝った。

 予想外の事に、僕はどうしていいか分からなかった。さっきまであんなに怒りを向けていたはずなのに、今は正樹を心配している自分がいる。

 少しだけ頭を上げた正樹の顔は悔しそうに唇を噛み締めていた。

「あんな事を言ったのを後悔してる。お前らが羨ましかった。あんなに生き生きしてるからさ、俺の境遇と比べちゃったんだよ。そしたらムシャクシャして・・・でも、言ってからすぐに気づいた。自分のした事が恐ろしく惨めな事だと」

 正樹の目から涙が落ちた。驚きの連続だった。あの正樹にこんな心があったんだと。

「あの賢人が血相を変えて殴りかかってきたからさ、それで自分がしでかした事の大きさに気づいた。あれからずっと後悔している。許してもらえないとは思ってる。それぐらい俺はひどい事を言ったし・・・」

 あの時の光景が蘇った。

 やっと分かった。殴りかかった賢人を抑えつけていた正樹の行動が。あの時は賢人を抑えるだけに徹していた。やっぱりそうだった。正樹は僕らを思ってあんな行動をしていた。

「だから俺の事はいい。ずっと恨んでていい。でも、これだけはしないで欲しい・・・」

 正樹は大きく息を吐いた。鼻水を手で拭った。

「周りだけは巻き込むな。これで傷つけたらもう後戻りできなくなる・・・」

 正樹の涙は止まらなかった。号泣だった。まだ信じられない。あの正樹が泣くなんて。一体、正樹に何があったんだろう。

「もういいから。正樹の言いたい事は分かった。だからもう泣かないでよ」

 僕はオロオロするばかりだった。とりあえず落ち着かせようと、僕は正樹を東屋へと促した。座ったら少しは落ち着くかもしれない。

 正樹は座っても泣き続けた。僕はどうする事もできずにただ座って正樹が落ち着くのを待ち続けた。

 しばらくして落ち着いた正樹は僕に話してくれた。


 一緒に暮らす母親に毎日当たっていた事や、苛立っていた日々の事。

 それがどれだけ周りに迷惑を掛けて、どれだけ惨めな事だったのかやっと気づけた事。

 心を入れ替えようと決意した時、思い切って挑戦しようと心に決めたものがあった。

 それは漠然としか考えていなかった将来の目標だ。

 決心すると、やらないといけない事が山ほどある事に気づいた。

 まず勉強。

 進学したい大学も見つけた。でも母親に苦労は掛けさせられない。小さな弟もいる。だから奨学金制度を使って進学する事に決めた。その為には成績を上げて学校に認められないといけない。

 ただ奨学金があったとしても他にも色々と資金が必要だ。

 そこでアルバイトも始めた。まだ始めたばかりで仕事は全然できない。でも周りの人達が親切に教えてくれている。親切にされた事で、また自分を改められたみたいだ。弟が自分の歳になるまでには自立して援助ができるようにしたい。

 正樹はそこまで考えていた。

「建築家になりたいんだ。この島をもっと引き立たせるような立派な建物をデザインできるぐらいの建築家になりたい」

 正樹は照れ臭そうに話していたけど、その顔は生き生きとしてて輝いて見えた。

 胸がほんわかしていた。

 嬉しかった。僕にそんな話をしてくれて。

 夢の話しか聞いていないのに正樹の事をよく知ったような気がした。話が終わると正樹は「笑わないで聞いてくれてありがとうな」と僕に言った。

 これからアルバイトがあると言うので、正樹と僕は東屋から出た。乗せてくと正樹は言ってきたけど断った。折角だから走る事にした。

 正樹はバイクに跨ると、僕を見て「辞めるなよ」と言ってきた。

「実は駅伝は小さい頃から観ててさ、県代表のチームをいつも応援してたんだ。だから昨日の二人の活躍は本当にしびれたし物凄く感動した。これでお前と賢人も出てたらな、とかそんな事も思ったよ・・・県大会は残念だったけど、また次まで楽しみにしてるからさ。だから辞めるなよ。お前らを応援したいからさ」

 なんか不思議だった。ついさっきまでは、恐ろしくて危なくて嫌な奴だと思っていたのに、それが今では、優しくて良い人でもっと仲良くなりたいと思っている自分がいる。

 正樹はバイクのギアを入れると「ちゃんと練習しろよ」と言ってすぐに「俺が言うなよな」と自分で突っ込んだ。思わず笑ってしまった。「じゃあ、明日な」と恥ずかしそうに笑った正樹はバイクを走らせていった。

 バイクが見えなくなると、まず両腕を思いっきり上に突き上げて上半身を伸ばした。

 次に首と手首と足首を同時に回して、最後に肩を回してから走り出した。道路に出ると路肩に寄った。空気を深く吸い込んで大きく吐いた。

 身体が軽かった。

 スピードを上げる。少し関節が硬いような気がした。だんだんと身体の内側から熱くなってくる。そうなると硬かった関節はもう頭にない。早くなっていく呼吸に合わせて脚を上げる。スピードがどんどん上がってきた。

 走れる。

 もっと速く走れる。

 どんどん足が前に進んでいった。こめかみに汗が流れてきた。息切れはかなり荒くなっている。でも身体はもっと動きたがっていた。

 僕は身体の赴くままに走った。

 全身に汗が噴き出している。顔中に汗が流れていた。全身の筋肉や細胞が喜んでいる。


 もっと上げろ。もっと速く。もっと走れ。


 そんな命令が届いてくる。

 楽しかった。

 めちゃくちゃ楽しかった。

 悔しくなるぐらい楽しかった。

 視界が涙で溢れていた。汗も交じって頬に流れ落ちていく。

 また僕は思う。

 何でこの走りが本番にできなかったんだろうと。何で楽しく走る事ができなかったんだろう。どうして自分で自分を追い込んだんだろう。

 どんどん涙が溢れてきて鼻水も止まらなくなって、いよいよ苦しくなったので立ち止まった。夕焼けの空が涙でじんわりと溶けていった。


 僕は駅伝部に戻っていいんだろうか。こんな遅い自分がいてもいいんだろうか。


 でも新藤は僕に言ってきた。俺達の走りを見ろと。あの走りが僕に見せる為の走りだったらこんなに嬉しい事はない。

 戻りたい。また皆と走りたい。

 この二ヶ月間は本当につまらなかった。

 もう分かった。今の自分は走りたがっている。また皆と都大路を目指して練習をしたい。

 でも、もし迎えられたとしても、今度の大会で走れるのか考えると今の時点で不安になってくる。

 また棄権をするかもしれない。また皆に迷惑をかけるかもしれない。

 それを思うと、このまま僕は部にいない方がいい。僕のようなレベルの選手はすぐに見つかる。きっと新入生には僕より素質の良い選手が絶対にいる。自分がいなくても部は絶対に速くなる。走るだけなら今みたいにいつでもできる。僕みたいな小心者はこうやって気楽に走った方がいい──────。

 正樹の顔が浮かんだ。

 正樹は僕を応援していると言った。

 これで僕が辞めたままだったら正樹はどんな顔をするんだろう。

 正樹の言葉を思い出した。

「周りだけは巻き込むな。傷つけたら後戻りできなくなる」

 これまでの僕の行動が思い返される。

 家族三人の顔が浮かんだ。

 今の僕は家族に当たっている。いつも苛ついていて、黙り込んで、笑い掛けてくる三人の心遣いを跳ね返している。

 一体、僕は何がしたいんだろう。悲劇の主人公気取り?

 こんな事をしてどうしたいのか自分でも分からなかった。でもそうしないと気が済まなかった。そんな僕がいると家族はいつもギクシャクしている。

 駅伝部の皆にもひどい事をした。

 メッセージだけで一方的な気持ちを送りつけて逃げるなんて・・・。

 そんな根性のない最低な事をやっておいて、まだ逃げたままにしている。

 賢人には幻滅されてるし、省吾にも気を遣わせてるし、一部の例外はいるけど・・・先輩達も賢人みたいにきっと怒っている。盛男さんも心配して来てくれたのに、一方的な感情だけ見せつけて逃げた。盛男さんの、あの時の困った顔は今でも覚えている。

 クラスの友達だってそうだ。ずっと塞ぎ込んで賢人とギクシャクする僕に皆は気を遣っている。

 僕は皆を困らせてどうするつもりなんだろう。何でこんな事をしているんだろう。

 ハッとした。今の自分は・・・あの時の正樹にそっくりだった。

 不機嫌な顔をして黙り込んだまま誰も寄せ付けようとしない。それで人を傷つけて困らせる。

 同じ空間にいるだけで、居心地が悪くて関わりたくなくて避けていた。皆が恐がっていた。そんな正樹を、あの時の僕はこう思っていた。

 いなくなったらいいのにと。

 でもそんな正樹が変わっていた。

 あの時の正樹と、今の正樹。違いはさっきまで一緒にいた自分が分かる。正樹はそんな自分に気づいて、変わって、そして僕に教えてくれた。こんな事をしても何も良い事はないと。正樹だからこそ、あの言葉には説得力がある。

 僕は馬鹿だった。こんな事をする為に生きているわけじゃない──────。

 僕は走り出した。また思いっきり走った。

 楽しかった。こんな気分で走るのは久々だった。

 僕は心の赴くままに走り続けた。

 家に着いた頃には外は暗くなっていた。暗い中でも、家にいつもと違うものがあるのに気づいた。

 白い軽トラックがあった。

 ナンバーを見てそれが盛男さんのだと分かった。盛男さんが家に来ている。

 家の中は煌々と明かりが点いている。盛男さんと中で何をしてるんだろう。

 僕は息を潜めながら静かに門を開けた──────。

「はっはっはっはっはっ」

 庭先から聞こえてくるその息切れには嫌な予感しかない。

 口を開けたシバが僕を見ていた。目を輝かせて尻尾を振っている。僕が練習着だから散歩に行けると思い込んでいるみたいだ。

 シバに向かって人差し指を口に当てて「しーしー」言いながら近づいていくと、少しだけ開いたサッシ戸の向こうから声が聞こえてきた。どうやら盛男さんはすぐ向こうにいるみたいだ。中から見られないように腰を沈めて息を潜めた。

「・・・こうなったのは自分に責任があります」

 盛男さんの声だった。

「哲哉君を二区に配置しておいて、想定した展開で走る練習をしなかった。一位でタスキが繋がると自分は確信してました。それなのに、自分は哲哉君に追われる展開の走りを経験させていませんでした。自分の抜けた指導が悪かったんです」
「でもそれはしょうがないんじゃないんですか?この島には高校生に対抗できるチームはいないし、本番さながらの経験をさせるのはこの島では難しいですよ」

 父の声もする。二人で話しているみたいだ。

「いえ、部内でシミュレーションはできたはずです。自分は哲哉君に駅伝の恐さを伝えていませんでした。どこかで楽観視してたんです。県内のトップ選手が二人もいて、皆も順調に成長してくれていたので、すっかり自分は勝った気でいました。県内に敵はいないだろうと。その驕りがいけなかったんです──────」

「あう」

 静かな鳴き声だった。

 ギクッ、として見ると、こっちをガン見するシバと目が合う。繋いだリードがピンと張っている。歯痒そうに何度も足踏みしている。

「本人の意思を尊重しようと思いました。あんな辛い思いをして、まだ一年生で、初めての高校駅伝だったのに、とんでもないトラウマを植え付けさせて・・・それで、本人がやりたくないものを無理にやらせたくないと思って、しばらく様子を見ていました。そこでも驕りがありました。いつか戻ってくるだろうと。でも、それは学校での哲哉君を見て間違っていたと気づきました。哲哉君の気持ちをちゃんと聞くべきだったんです。今頃になってそれに気づくんですから、自分は指導者失格です」
「それは言い過ぎですよ。哲哉も悪いです。あんな一方的な態度をされたら──────」
「いえ、せめて哲哉君と正面で話し合わなければいけなかったんです・・・自分は練習を考えて、見て、アドバイスして、メンバー構成をして、試合に送り出す。高みの見物のようなものです。何も苦労はしません。苦労を背負うのは全て選手達です。その選手達の苦悩を少しでも自分が分かってあげないといけません。庇わないといけません。それなのに、自分は哲哉君を全く見ていませんでした。恥ずかしい限りです──────」

「ぐるるるるる」

 横からビシビシと殺気が伝わってきた。

 静かにシバに寄って頭を撫でた。でもシバは鬱陶しそうに頭を振って撥ね退ける。

「SNS拝見しました。あんなコメントがあるとは思いもしませんでした・・・」

 声がよく聞こえなかったので元の場所に戻った。

 途端にシバの息が荒くなった。がふがふ言ってくる。注意を引く為に腕を伸ばして相手をする。ますます荒くなった息が指先に触れる。

「自分も父親失格ですよ。こんな時に何もできなくてただオロオロするばかりです。駅伝部を盛り上げようと思って始めたSNSも、まさかあんな事になるとは思っていませんでした。それに、哲哉に言われたんです。自分の事じゃないからって適当な事を言うなと・・・あれは効きましたね。励まそうとしてもそう言われるし、良かれと思って始めたSNSもあの始末だし・・・もう自分の言動は哲哉には何もかも逆効果になりそうな気がして・・・情けないです。何をしていいのか分かりません。少しでも力になりたいのに、何も思いつかない自分の不甲斐なさに呆れていくばかりです。息子がこんなに辛い思いをしているのに、何もできないなんて・・・」

 胸が痛かった。こんなに父が弱っていたなんて・・・・・。

 正樹の言葉がまた浮かんできた。周りは巻き込むな、というその言葉が。

 今更だけど、自分がしてきた事が、本当にどれだけ周りに迷惑を掛けてきたのか身に沁みて分かった。こんな乱す奴がいたら周りの皆が沈んでいくだけだ。こんな奴はもういない方がいい──────。

「ばおう!」

 とんでもない怒鳴り声だった。

 びっくりして見ると、舌を出したシバが僕を睨んでいた。ピンと張り詰めたリードは、少しでも動こうとするシバの動きを食い止めている。首にかかる力にどうすることもできないシバは、ただもどかしそうに仰いだ顔を振っている。

 そしてまた僕を睨みつけて吠えたてる。

「ばうわう!」

 僕はシバに向かって人差し指を口に持ってって「し!し!し!」と静かに伝えたけど、逆効果だった。

「あおあうあお」

 今度は高い声で狂ったように叫びながらジタバタしている。もうちょっと待って欲しかった。いつもこいつは際立って間が悪い。

 サッシ戸が開いた。

「あ」

 千紗と目が合った。千紗の向こうで盛男さんの姿が見える。「あ」と盛男さんからも声が出た。

 静かな時間が流れたけど「ヴぁん!」とまたシバが吠える。

 このままこうしてるわけにもいかないので、僕は庭から客間に入った。父と母の驚いた顔が見えた。

「さっきの話は聞いてたのか?」

 僕は盛男さんに頷いた。「それなら話は早いな」と盛男さんは言うと、僕に身体を向けて頭を下げた。

「本当に申し訳なかった」

 躊躇した。けど、もうここで恥ずかしさとか気にしたらいけないと思った。もうどうにでもなれと思った。僕は跪いて盛男さんに頭を下げた。

「僕の方こそ失礼な事をしてすみませんでした」

 盛男さんの声が上からしたけど、声を出し続けた。

「盛男さんは悪くありません。全部、僕が悪いんです。完全に僕の力不足でした。皆に迷惑ばっかり掛けて、こんな自分が悔しいです・・・」

 皆を困らせる奴はいなくなった方がいい。そんな奴、為にならない──────。

 意を決して顔を上げた。

「だから盛男さんお願いです」

 盛男さんはジッと僕を見ていた。力のある目だった。その強い目を見て僕は言った。

「もっと僕に走りを教えてください。走るのが好きなんです。もっと強くなりたいです」

 また頭を下げた。

「どうか部に戻らせてください。お願いします」

 自分の気持ちを正直に打ち明けようと思った。ここで隠してもどうにもならない。自分に正直に、そして素直に気持ちを人に伝える。正樹から教えてもらった事だ。

「もちろんさ・・・いいに決まってるだろ!」

 肩を掴んだ盛男さんの力は凄かった。顔を上げると、どアップの盛男さんの顔があった。

「よく言ってくれたな。ありがとう!」

 涙ぐんだ盛男さんは僕を抱きしめてきた。苦しいぐらい力が強かった。

 父が見えた。父が手で目を擦っている。母はティッシュを目に持っていっている。千紗がシバを撫でながら微笑んでいた。舌を垂らすシバも笑っているように見えた。

 なんか心地よかった。

 息苦しいし、暑苦しいし、恥ずかしくて顔が熱く感じたけど、胸の中がじんわりと温かくて気持ち良かった。

 素直に言って良かった、と本当に思った。


        つづき

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