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24.恐い人



「うっせえよ!ボケ!」


 教室がしんとなった。


 その声の方を向いた。斜め後ろの席だった。こっちを睨んでいる。

 僕を始め、周りの皆が固まった。


 終わった。


 まずそう思った。

 睨んでいたのは正樹だった。

 正樹は怒らせたらいけないヤバい奴だった。デカくてガタイが良くて喧嘩は無敵。中学から悪名を轟かせていた。

 正樹は中二の途中から僕と同じ中学に転校してきた。帰宅部なのに、体育の授業は何をやってもずば抜けていた。多分、何かのスポーツをやったら絶対にエースになれる逸材だった。でも、彼は運動部に入らず、よく喧嘩をして騒ぎを起こしていた。先生にも反抗して騒ぎを起こしていた。


 喧嘩は負け知らず。
 先輩にも一目置かれている。
 ヤバいチームを率いている。
 恐喝も脅迫もする。
 家族も巻き込む。
 警察からマークされている。


 色んな人達からそんな噂を聞いていた。そんな危ない奴はこの高校に来ないだろうと思っていた。ガラの悪い奴らが集まる学校に行くと思っていた。

 それが、同じ高校で、しかも同じクラス。

 教室で正樹の姿を見た時、物凄く絶望したのを覚えている。

 正樹はよく学校を休んでいた。来たとしても、寝てるかスマホをいじっている。誰とも口を聞かなかった。いつ見ても正樹はつまらなさそうだった。

「お前らのせいでさっきから眠れないだろ」

 苛立った口調だった。しかも僕を見ている。やばい展開だった。皆がオロオロしている。

「お前、駅伝部なんだろ?」

 恐る恐る見ると、正樹とバッチリ目が合う。

やっぱり僕に言っていた。周りの皆が僕から少し離れた。正樹の視界からフレームアウトするぐらいの絶妙な距離で。

 身体の奥が震えていた。同級生なのに、彼のこの威圧感は何なんだ。

 フッと正樹が息を吐いた。肩の力を抜いたのが分かった。

「しょうもない事してるよな。何が楽しくてそんなのやってるんだよ?」

 最初は何を言われたのかよく分からなかった。僕はただ呆然としていた。

「俺には理解できないんだよ。お前がやってる事って。ただ我慢して走って、それの何が楽しいんだよ?そんなの苦痛でしかないだろ・・・」

 見下したその目つきでやっと気づいた。僕を馬鹿にしているんだと。

「まあ、100mは分かるよ。速く走るってカッコいいもんな。真の速さなら絶対に短距離だろ。なのに、何でそっちの速さを求めたわけ?恐ろしく地味だし、無駄に長いし、楽しい要素なんて一つもないだろ」

 正樹の口の端が意地汚く吊り上がっている。僕は正樹に向かって言った。

「それは、走った人にしか分からないよ」

 自分の声じゃないみたいだった。

 低くて重い。変な緊張と不快な気持ちと怒りが腹の奥で掻き混ぜられている。混ざったそれはどす黒くてドロドロしている。それが声に混ざって出てきていた。

「いやいや、やらなくても分かる。見てるだけでも、ぜんっぜん、分かる。いつ見ても駅伝はつまらん。見ててつまらないもんが、やってみて面白いわけないだろ」

 腹の奥でどす黒いものがグツグツ煮立っている。

「それに、駅伝ってサラリーマンになって働きながらじゃないと続けていけないんだろ?しかも、それは日本のトップレベルになってやっとなれるんだろ?トップになれてもサラリーマンと同じってアホらしくね?そんな夢のない競技に何で憧れるのかね?普通なら野球とかサッカーとかよ、億を稼げる競技を目指すだろ。だから、お前の頭を見てみたいんだよな。何でそんなものをやって楽しんでるのかが」

 何があってここまで馬鹿にされないといけないんだろう。そもそも何でこいつはこんなにも駅伝を馬鹿にするのだろう。

「なんか県で一位になれるとか期待されてるみたいだけどよ・・・」

 正樹が澄ました顔を向けてくる。まだ続けるつもりみたいだ。いい加減にして欲しかった。腹の奥で煮立ったものを、こいつに思いっきりぶちまけたかった。

「それが何なの?一位になれたとしても全国では下の方だろ。あれを見てるとさ、あまりにも情けなくて恥ずかしくなるよ。あれなら出ない方がマシ。お前らはな、恥さらしになる為に、毎日、毎日、無意味な努力で汗を流して無駄な時間を送って──────」

 何かが切れた。

 その瞬間、音がなくなった。この空間の一切の何もかもが止まった。視界には正樹がいる。そいつが歪んで見えた。

「だから俺は忠告してるの。お前らはもったいない事をしてる。そんな事をしている暇があるんなら──────」

 勝手に身体が動いた。思いのほか椅子が勢いよく倒れた。

 その時、僕の横を何かが通り過ぎた。

 一瞬だった。

 正樹に突っ込む人影、怒声、悲鳴、衝撃音、倒れる人影。

 それが目の前で閃光のように瞬いた。

 ハッとして見た。

 倒れていたのは賢人だった。賢人の傍には、今も震えて倒れた机がある。

 正樹は賢人を脚で抑えつけていた。賢人はもがきながらも正樹にめがけて空いた拳を振った。でもそれは簡単に正樹の腕でガードされる。

 正樹は落ち着いていた。冷めた目つきで見下ろして賢人の動向を窺っている。賢人は成す術なかった。それでも賢人は正樹の下で必死にもがく。


 動けなかった。


 正樹の動きですぐに悟った。絶対に勝てないと。

「おい!やめろ!」

 友利先生だった。先生が近寄ると、正樹はすぐに賢人から離れた。両手を広げて、暴れる意志はないアピールをしている。解放された賢人はすぐに正樹に向かった。すぐに先生が賢人に抱き付く。

「だめだ!賢人!」

 先生の力では賢人を抑えられなかった。先生に抱き付かれても、尚も賢人は正樹に向かっていく。

「哲哉!お前ら走れなくなるぞ!」

 先生の声で僕は目が覚めた。

 咄嗟に身体が動いた。向かった先は正樹じゃなくて賢人の方だった。賢人の前に立って肩を掴んだ。

「どけよ!何で俺なんだよ!」

 賢人の形相は凄まじかった。こんな表情は見た事が無かった。

「落ち着けって。騒ぎを起こしたらやばいって」

 廊下にまで野次馬ができていた。

「賢人!大会に出られなくなる!頼むから落ち着けって!」

 それを言った後、突然、賢人の力がフッと抜けた。それでも僕と先生は賢人を力強く掴んでいた。

「・・・もうしないから。離せよ」

 賢人の声はトーンダウンしていた。僕と先生は賢人を放した。賢人がグシャグシャになったシャツを正した。静かだった。誰も動こうとしなかった。

「何があった?」

 息を切らした先生が訊いた。

「こいつが喧嘩を吹っかけてきたんだよ」

 賢人が投げ遣りに言い放った。

「正樹、そうなのか?」

 先生が正樹を向くと、正樹は大きく息を吐いてから僕を見た。

「あいつがうるさかったから文句を言ったんだよ。そしたらこいつがキレて向かってきた」

 呆れ顔の正樹は僕と賢人を顎で指した。先生が賢人を見て、次に僕を見ると、咳払いをしてから言った。

「事情を聞くから三人は職員室に来なさい」

 言われた通りに教室を出ると、僕らは先生の後ろを歩いた。

 三人とも距離が空いていた。

 後ろを向いた。賢人はまだ怒っている。

「大丈夫?」

 キッと賢人が僕を睨みつけた。

「大丈夫に決まってるだろ。あんなアホにやられるわけねえよ」

 賢人はわざとらしく大きな声で言った。視線は正樹に向いている。でもその正樹から反応はなかった。

「おい、お前らやめろよ」

 反応したのは先生だった。賢人から舌打ちが聞こえた。

 その後、僕らは授業を受けずに職員室で事情聴取を受けた。


 正樹の席の近くで僕らが騒いでいたので、正樹が文句を言った。その言動がどんどんエスカレートしたので、腹を立てた賢人が正樹と喧嘩をしそうになった。


 僕ら三人の話を聞いた先生はそう解釈した。殴り合いには発展していないし、お互い怪我もしていない。今回は厳重注意という事にしてもらって僕らは解放された。

「あいつむかつくなあ」

 職員棟から出た賢人は開口一番そう言った。正樹は職員室に残されていた。

「いくらなんでもあんな言い方はないだろ。皆に聞こえるように言ってよ」

 賢人の愚痴はいつまで経っても治まらなかった。教室に戻った僕らは、皆の興味津々な眼差しを受けた。でも誰も僕らには近寄ってこようとしない。物凄く機嫌の悪い賢人の手前もあって近づけずにいるみたいだった。その内に正樹も戻ってきて教室は嫌な雰囲気になった。皆がそわそわしていた。色んな所からたくさんの視線を感じた。居心地が悪かった。

 そんな中で僕は職員室での正樹を思い返していた。職員室に入ると、正樹は手のひらを返して素直に自分の非を認めた。

「言い過ぎた。ついカッとなった。寝不足でイライラしてました」

 それを聞いた先生も肩透かしを食らったみたいだった。三人で互いに謝って僕らはすぐに解放された。

 引っ掛かるものがあった。

 どうも正樹が不自然に思えた。

 最初はボロクソに言ってきて挑発的だったのに、賢人を抑えつけた後は、手を出さずに防御するのに徹していた。

 あれは賢人が暴れないように押さえ付けているようにも見えた。

 騒ぎが大事にならないように・・・もしかして、県大会を控える僕らを思って?いや、それなら僕にあんな言動はしなかったはず。

 でも、職員室で素直に非を詫びた正樹の姿は、最初に見せた姿とはかけ離れていた・・・・ううん、解せない。一体、正樹の心にどんな変化があったんだろう。

 訊きたかった。でも訊けなかったし、正樹を見る事さえできない。またさっきみたいな事はもうごめんだ。

 このモヤモヤはいつまでも吹っ切れなかった。学校が終わっても、練習中でも。

「哲哉、お前ら何をしたの?」

 その声の方を向くと賢人以外の駅伝部の皆がいた。

〈二人とも大丈夫?何かあった?〉

 騒ぎの後、省吾からのメッセージが僕らに届いていた。省吾は僕らの隣のクラスだ。きっと騒ぎを聞いていたんだろう。でも返事はしていなかった。賢人も返事してない。それが省吾の不安を煽ったみたいだ。

「賢人はあの通りだしさ」

 新藤が指さした方向には、広場の端っこで黙々とストレッチをしている賢人がいた。ここからでも不機嫌そうに見えた。

 僕は事の顛末を皆に話した。大事になっていない事を強調した。友利先生も特に問題はないと言っていた。

「その正樹ってさ、途中まで下里中にいただろ?」

 そう訊いてきたのは亮先輩だった。亮先輩は正樹が転校してくる前に通っていた下里中の出身だった。

「そいつ知ってるんですか?」と新藤が訊くと「小さい頃から知ってるよ」と亮先輩は言って正樹の話を始めた。

 正樹は小学生の頃から飛び抜けて運動能力が高かったそうだ。短距離も速かったし、よく飛んだし、投げたボールは誰よりも遠くへ飛んだ。何をやらせても凄かった。陸上部で、短距離走の代表だった。努力家で居残って練習する姿をよく見かけたそうだ。人懐っこくて、明るくて、いつも輪の中心になって騒いでいた。時には喧嘩もしたりして学校ではかなり目立った存在だったみたいだ。

「でも、俺が三年になった頃かな?あいつ、転校したんだよな。親が別れたみたいでさ。俺は詳しい事は知らないけど、結構、苦労してたとは聞いたよ。中学の時はよく喋ってたけど、高校であいつを久々に見かけたら、雰囲気がありえないぐらい変わっててさ、恐いからつい目を逸らしちゃったよ」

 情けない先輩だな、と呆れる大志先輩に、てへへ、と亮先輩は恥ずかしそうに笑った。その横でしばらく唸っていたキャプテンが口を開いた。

「陸上ができない今の自分にムカついてて、それで大会の近い駅伝部を見て嫉妬したのかもな」

 それはあるかもね、と亮先輩が言った。

「駅伝部はターゲットにされてるかもしれないな。キレやすくなったと中学の後輩は言ってたよ」

 ひええ、とキャプテンが白々しいリアクションをした。

「何かあったら亮を呼べよ。亮は地元の先輩なんだから、きっとその暴れん坊も大人しくなるよ」

 あまりにも他人事のように言うので呆れてしまった。もし騒ぎになったら駅伝部に影響が出るのをこの人は分かっているんだろうか。

「でもあいつがあんな事すると思えないんだよな。気持ちのいい奴なはずなんだけどな・・・」

 亮先輩は納得できない様子だったけど、「思春期は多感な時期だからね」とのキャプテンの他人事のような一言で納得していた。

 結局、賢人は帰るまで不機嫌だった。

 そんな賢人を見て、キャプテンは「みんな思春期なんだねえ」と他人事のようにしみじみ言った。


            つづき

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https://note.com/takigawasei/n/n042e82ea03b2

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