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【漫画】進撃の巨人と自由

自由を求めることは無条件で肯定されるべきか?

「進撃の巨人」という作品を読むと、そんな風に思わされます。

「人は生まれたときから自由だ」は本当か?

主人公エレンは何度も語ります。

「人は生まれたときから自由だ」と。

しかし、これはある種エレンの願望であり、物語内では「壁の外に巨人がいるので外に自由に出られない」という問題があります。

人々はその「不自由」を受け入れ、自由の獲得よりも、平凡な毎日を選びます。その姿はエレンから見ると「家畜」であり「奴隷」

10代を田舎で生まれ育った私も、同じような感覚を覚えました。

代わり映えのしない毎日。それ自体をエレンほど強く否定する気はないです。

しかし「ここではないどこか、外の世界を見てみたい」という強い気持ちはありました。

作中の人物ケニー・アッカーマンのセリフがまさに私の心を代弁してくれました。


自由を邪魔する「不自由」たち

巨人と戦う力を得た壁内人類。

しかし、人のエゴが集積したような「腐敗した王政」が彼らの邪魔をする。

ようやく壁の外に出られたと思ったら、今度は「囚われ、記憶が奪われていた」という事実を知ります。

作中で語られるように「自由」の反対である「無知」な状態です。


巨人、王政、無知と、

まさに、不自由の連続。

それでもなお、自由を求めるのは正しいと信じて、エレンたちは外の世界を目指していきます。

多くの代償・犠牲を伴いながらも、壁の外にたどり着いたエレン達。

しかし、外の世界には「エレンたちの"種"を憎む人々」がいることを知ります。

今までは、自分たちの目に見える「不自由」をなんとか克服してきました。

しかし最後に「過去の消えない罪」「使命と責任」が自由を妨げます。

※これとどう戦うのか?というのが物語の顛末になるはず


自由には「代償」があることを知らなかった

僕たちは生まれながらにして自由を求めてしまいます。

しかし、自由にはいつも「代償」がついてくるのです。


「自由」と表裏一体の「責任」

「祝いであるはずの自由」に対する「呪い」


幼き日、エレンやグリシャはそういった「自由の代償」を知らずに、純粋に自由を求めていました。

グリシャはただ、飛空艇を見るために、妹と外の世界に行きました。その代償として待っていたのは、妹の死。


エレンはパラディ島の巨人を駆逐する過程で「自由を得るための代償」と「これから必要な犠牲」を知ります。

アルミンと語った幼少期からの夢、そして「自由の象徴」であった海にたどり着く。

しかしエレンの脳裏に「自由」と共に浮かぶのは「グリシャの妹の死(自由の代償)」でした。

自由に代償があることを知らずに、ここまで来たエレン。

多くの人命を犠牲にし、

人々の願いを無碍にし、

手に入れた自由。

はたして、それほどの価値があったのでしょうか?


それでも私は自由を追い求めるべきか?

「自由の代償」を知らずに、自由を追い求めたエレンの人生

一度「自由を求めて進撃」してしまった物語は、もう止まりませんし、止まれません。


生まれながらにして存在する多くの「不自由」を乗り越えられるのか?

敵も味方もなく、人々は「自由」を手に入れられるのか?

物語の今後の肝はここになりそうです。


そんな進撃の巨人を読んで私が思ったのは

「それでも私は、自由を追い求めるべきなのか?」

という疑問。


自由は常に

「権利と責任」

「祝いと呪い」

が表裏一体である。

喜びの反面、痛みや苦しみが常についてくる。


しかし、そんな現実を踏まえたうえで、

なおも「自由を追い求めたい」と願えるか?

「進撃の巨人」という物語を読み終えた時、その答えが出る気がします。


最後に

進撃の巨人がどんなラストになろうとも、しっかりと最後まで読み続けたいと思います(続きを見たい反面、終わってほしくない)。

作品の良さを語る言葉、作者・出版社への感謝はいくつもありますが、

エレンの母カルラの、この気持ちです。

作品に対して「この世界に生まれてきてくれてありがとう」と伝えたい。

リアルタイムに、進撃の巨人と出会えて良かったです。

最後まで、楽しみにしています。

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