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芸術の秋、遅刻してきたな。

 僕は美術館を巡るのが好きだ。
 
 絵を見ていても、どんな素晴らしい陶芸作品を見ていても、正直にいうと詳しいことなど全く知らないし、それでいて「印象派の巨匠が描いた絵画」などと見せられても、それが誰の絵なのかさっぱり見当もつかないほどには知識がない。
 
 ただ、僕が最近気がついたのは、その芸術家がどういった時代背景で、どういう心情の中この作品を作り上げたのかを考えるのが好きだから、僕は美術館に行くのが好きなのだ。
 先日、僕は二日続けて「国吉康雄展」と「藤田嗣治展」を見てきた。どちらも1880年代に産まれ、若かりし頃にアメリカとフランスに渡り、国籍という垣根を超え、偉大な功績を作り上げた2人だ。
 ちょうど世間は第二次世界大戦で、アメリカに単身渡った国吉康雄は、一体母国と今いる国が戦争をしているという中、いったいどんな心境で作品作りに取り組んでいたのだろう。戦前は「アメリカを代表する画家」と取り上げられ、「クニヨシ風」などという作画方法まで流行っていた状況から一点、周囲の人からはきっと白い目で見られたことだろう。
 
 藤田嗣治も偉大な画家であった。
 アートの最先端であるパリに渡り、自分のルーツが日本にあることを忘れずに、様々な作品に漢字で自分の名前を刻み込んでいる。フランス駅構内にあった広告絵にもだ。
 今の時代、アプリを使えばかざしただけで翻訳がスマホ一台でできるが、当時のフランス含めヨーロッパ各国では、日本語という言語があること自体知らない人間がほとんどであったであろう。
 そんな中でも自分のルーツを確固たる意思で示し続け、没後55年経つ今でも、世界各国で日本人を代表する芸術家として名を残し続けている。

 先日まじまじと絵を眺めていて気がついたことがある。僕はまだ28歳の若輩者であるため、古き時代のヨーロッパ、アメリカ、日本の姿を全く思い描くことができない。藤田嗣治の絵の中に、ヨーロッパの街中を描いている場面があったのだが、見ているとまるでフィクションの世界を見ているかのごとく、全員がジャケット姿に顎髭を生やし、それでいてハットを被っているのだ。ちょうど先日、原田マハ先生の小説を読んでいても、その描写がリアルに想像しにくかった過去のヨーロッパの姿形が、その時生きていた有象無象全てが、絵画を通して空気感や質感を想像できるほど鮮明に伝わってきたのだ。
 絵画はすごい。先人たちはなぜその画を描いたのか僕にはわからない。どういう心情で書こうと思ったのか、それが思い付きなのか、本人たちにはもう聞くこともできないし、聞けたとしても、瞬間の閃きは長期的には覚えていないだろう。
 だけれど、メモ書きがなくても、作者本人がいなくても、僕たちはその画を通じて感じ取り考えることができるのだ。こんなに魅力的な世界があったのかと、僕は改めて思った。

 しかしこれだけは言っておきたい。
 これから美術館に作品を見に行こうと思う人がいるのならば、美術館は真剣に見れば見るほど疲れるし、何より水分をとる場所も限られ、その上トイレも少ない。もし、恋人を美術館デートに誘おうとしているのであれば、行く前のカフェや食事は控えてから行くといいだろう。
 独身無職男からの忠告でした。楽しんで。

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