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【読む焚火その4】”火のない”いろり

こんにちは。
仙台たき火ティーの大石です。
TOPになんのこっちゃ分からないような落書きを貼りました(笑)が、これ実は、今から遡ること4年前の2018年2月の初旬、自分の誕生日を含む数日を過ごした河口湖畔の森での「森のリトリート(※)」参加時に自分が、自分用に書きなぐったメモです。

2018年2月、山梨、冬の森。

※…「森リト」についてはリンクを御覧くださいませ。。

森のリトリートでは、三日間、携帯やPCも持たずに森に入って、ほとんどの時間を、自分が気に入った場所で、ひたすら一人でただそこにいて、ゆっくり、静かに、感じる、時間を過ごすのですが、私は、2018年のこの冬の森で、誰に言われるまでもなく、今名前をつけるなら「エアたき火」とでも呼べそうなことをどうやら、していたようなのです。

僕は、あの時、前夜までに降り積もったフカフカの新雪の森を、ワシワシ、と踏みしめながらなんとなく惹かれた窪地のような場所を選んで座りました。手の平の上に雪の載せてじっと眺めてみたり、寒さを感じてみたり、静寂を感じてみたりしながら、しばらくする内に、衝動的に、自分の「家」を作りたくなって、新雪を踏み固めながら、ちょうど竪穴式住居の基礎みたいな(笑)空間と壁を作ったのですが、なんとはなしに、真ん中のスペースに枯れ木をポイポイ投げ始めて出来たのがこの「いろり」でした。

この落書きはその時の情景を書きなぐったものです。そして、その時に自分は自分に起きた感情も思いつくまま書きなぐっています。
こんな感じで。

「ホーム」を見つけた興奮を現した図(笑)
火のない「いろり」と、今思うと種火っぽい言葉

伝わり辛いかもしれないですが、
「ここにあったー!(何もないけど笑)」
「かなりなんでもある!(何もない雪の野っぱらだけど笑)」
とか
「最強!(何が笑?)」
とか
「ユリイカ!」とでも叫びそうな勢いで(笑)相当に興奮して書き留めていったのを、今でも身体の感覚で覚えています。

そして最後の落書きには、今、たき火ティーに、自分がなんとなく感じているような思念が、既に種火のように育ち始めているのに気付きます。なにしろ、全くもって他者の判読を拒絶するようなフォントにて書き貫かれています故(笑)判読出来る範囲で抜き出してみますと、、、

「自分を隠さない」

「場所をつくること。」
Comfortable my(our) place
解放 Release
分有 share
身近な場所に
≠co-working
ただいる、ただ話す
TalkingStick
意識高くなく

共有できる書斎(?)
話したい人と話す
サードプレイスを作る
部活動

「ああ、オレは自分でいれる、いられる」
自分は大きい
ふざけ倒せる場
言葉や音楽を味わう
それについてなら、いつまでも話せる
社会の片すみ

ゴールデン街を作る!
好きなことを話している
「わかるわー」とか言って
仕事や生き方の事ではない
気の合う人が集まっている
音楽がかかっている

「落書き3」より(笑)

とか、なんとか。
「ゴールデン街」の記載があるのは、前夜、歌舞伎町からゴールデン街に流れ着き放埓な時間を過ごしていたからなのですが(笑)、それはさておき(いや、それにも意味があるのですが)、なんというか、今自分が焚火を囲みながら感じていることの中心に近そうな事がここに既にほぼ形になっている、ような気がします。

それと、より自分にとってインパクトが高いのは、自分はその後、昨年の夏頃までおよそ3年以上にわたって、このメモのことをほぼ忘れて生きていたという事、そして、にも関わらず、転がりに転がって、4年後の今、このメモにまた出会っているということ、無自覚的にこの落書きに導かれるように生きている自分がいる、ということ、そしてそして4年後に「焚火のコミュニティー」などということを言い始めることを知らずに、この2018年の誕生日に、自分が、一人、火のついていないたき火にあたりながら明らかに燃えさかる火と、それを共に囲む誰かを、その中に見ている事、そしてそして、最も感動的なのは、2022年の今、その「誰か」と自分が出会っている、ということ。

今の自分にはこれらのことを論理的整合性をもって語る術がないのですが、でも、でも、そうなるべくしてそうなっており、そこにはそうなる流れがあることを、なんというか心地よい脱力感、最近の僕の感覚では「虚ろさ」とでも呼べそうな状態とともに、強く、それもとても強く、知るのです。

自分が焚火に向かいながら(結果的に焚火していない時間も)感じているのは、こうして、こうなるようにしかなっていないような類の物事の摂理です。師匠の山田博さんが植物の種子の在り様を引きながらどこかで書いていた「積極的諦め」というもののような気がするし、以前の「読む焚火」でも共有した全体性(ホールネス)に触れる経験、のような気もします。僕は一応キャリアコンサルタントの端くれでもあるのですが、クランボルツのプランドハップンスタンスセオリーなんかも同時に響いくる感じもあります。

私たちは普段、特にビジネスの場などではそうだと思いますが、ゴールをめがけて必死の形相でギチギチと力を使いながら物事を成就させるために「それはもう一生懸命頑張る」わけです。

実は、僕はこの2018年に、上の写真に写っている仲間の一人を事故で亡くす事になるのですが、事実、僕はその日から昨年位まで、クソミソに仕事を頑張りました。それはもう短期記憶の欠損があるほどに。彼亡き後を埋めるために、本当に必死で、全てを投げ打ってギチギチに仕事を頑張っていたのです。成果は出ました。それもおそらくそこそこ高いレベルで。ただ、その頑張りは、実のところ僕自身にはほとんど何も残しませんでした。そしてそれは、僕を消耗させました。

実際のところ、僕は一体何を頑張っていたんだろう、と思っています。そして、そうじゃないやり方や、あり方、があるんじゃないか、ということを割とはっきりと感じ始めています。

以前のnoteのエントリーで書いた「直感」や「サイン」の話はまさにこの辺のところの事を書き留めたかったのですが、なんとなく僕は、今「脱力」「虚ろさ」「移ろい」の”力”のようなものがあるような感じがしていて、そのことをもっと、より深く理解したい、と思っています。

そういう智慧の存在や、そういう智慧をもたらす力のあり方を、自分たちの祖先は、きっと自分たちよりはっきりと知っていて、色々な言葉を当てはめてきたように思います。

それを、今、僕が何と呼ぶべきか、それはもう少し自分の中で熟成させたい、と思っているのですが、上述の「虚ろさ」や「移ろい」の中で、「頑張る」とはやや違う形でたどり着いた場所/仲間/時間、Fatboyslim風(笑)に言えば「right here,right now」、無理してニーチェ風に言えば「永劫回帰」、それが自分にとって「仙台たき火ティー」であるなあ、とそんな風に思っていまして、何か、そういった意味で、良いものや、良い種火が、一緒に火を囲むみなさんに移っていって、やがて大きな「火」になるといいな、と思ったりもしています。

おそらく、それは、これまで的でない、新しいこれから的な何かになるんじゃないか、と思ったりしたり、しなかったり。。

とかなんとか書きながら感じたのですが、多分僕は、このメモを書いた時、とても寂しかったんだなー、と思います。きっと仲間が欲しかったんだと思います。2018年の自分に「数年後の自分の周りにはそんな仲間が沢山いるんだぜ、安心してそのまま行けよ」と教えてあげたら、すごく嬉しいだろうな、と思いもします。

一人で火と共にいると、そんな風に、すべての仲間とすべての物事に「虚ろ」に感謝が湧きあがります。出会ったものにも出会ってないものにも感謝だし、別れてしまったものにも感謝だし、背後の森から僕を眺めているキツネやタヌキ、森の樹々や地を這う根、そして、いつも静寂のオーケストラを奏でてくれる星空に感謝しかないのです。マジで。

そういった訳で、また。

是非、一緒に、火を囲みましょう。

(仙台たき火ティー:FBグループ)
https://www.facebook.com/groups/418620709996125/media

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