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【短編小説】 鯉

 横瀬はもう小一時間も松本の話を聞いている。金色のヘリの畳の敷かれた、料亭のごとき日本家屋で、掛け軸を背にした松本の話を聞いている。座敷のローテーブルの上には、長野が出身であるという松本の好きな鯉料理が並ぶ。鯉の姿焼きや刺身、鯉の洗いや汁物の鯉こくなど、テーブルの上は鯉尽くしだ。

「千曲川で獲れた鯉は臭みがないでしょう」

 松本はそう言った。確かにほのかに甘い白身魚という感じで、思っていたより食べやすいが、横瀬はそれとは別に、なんというでもない不愉快な感覚に襲われていた。先達てから聞かされている松本の話のせいなのか。それとも、障子の向こうの日本庭園から聞こえる、夜の闇にときおり跳ねる錦鯉たちの立てる水音のせいか。

 松本の話というのは、要約すれば「現代人は生物としての礼節を欠いてしまった」ということであった。食べるために動植物を産み出し、飼育し、殺し、解体し、綺麗にパッケージングして店頭に並べる。すべてが分業であり、末端で消費する者はそれが命であったという認識すらない。命を頂いて我が身の命に替えるのだから、奪われる命の苦しみを請け負わなくては道理に合わない。

 横瀬は、松本の言うことは正しいと思う。だからなぜ自分がこんなにも不快な気分になってしまうのか、測りかねていた。松本は言う。自分は「奪われる命の苦しみを請け負うことを忘れない」ために、狩猟をしているのだと。松本は猟銃を携えて山を歩き、度々狩りを行っているのだ。

「映画やドラマなんかじゃね、あっけなくひとが死にますがね。実際は、あんなに簡単に死ねるもんじゃないですよ。狩りをしていても、うさぎより大きいくらいの動物となれば、一発では仕留められません。打たれた獲物は、この世のものとも思えないような鳴き声をあげて、必死で逃げまどいます。それを追いかけてとどめを刺すのは、長く苦しませないための礼儀なのです」

 庭園の池で、また鯉の跳ねる音がした。松本は美味しそうに鯉の洗いを口にして、日本酒を味わった。

「池で鯉を飼っていらっしゃるのも、そういうわけなのですか?」

 横瀬は勇気を出して訊いてみた。松本の飼っている錦鯉は百匹を超えるほどだと知っていた。松本は笑った。

「横瀬さん。私の錦鯉はコレクションですよ。観賞用です。一匹いくらすると思っているんですか。それに泥臭くって食べられやしませんよ」

 松本は立ち上がり、障子を開けた。欄干の下はすぐ池が広がっている。
「御覧なさい。美しいでしょう」

 部屋の灯りが池に差し込み、餌をもらえると思って集まってきた錦鯉たちを不気味に照らす。錦鯉たちのきらめく鱗と、影になっている松本の顔の恍惚として満足気な笑みと、暗いなかで光るまなこと。ほろ酔いのせいか、やけに現実味のない光景に見える。気味が悪くて、不快な景色。口のなかに残る鯉のぬめり。

 なにかが狂ってしまったのかもしれない。たがが外れてしまうほどに、浮世離れした夜だ、今夜は。

 横瀬はなにも言わずに、松本の背を押して欄干から池に突き落とした。大きな水音がして、松本の「この世のものとも思えない」叫び声が響いていた。

 横瀬はそれを聴きながら、日本酒を一口で飲み干すと、黙って部屋をあとにした。


≪了≫

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