【短編小説】永遠に夕暮れの星
酔っぱらってとっ散らかって、地面と空が入れ違えるようなそんな夜に、私は初めて灯里に出会った。
毛足の長いラグが敷かれた灯里の部屋で、樹木の曲線をそのまま生かした背の低いテーブルと、そこここに置かれた温かい色味の間接照明に照らされながら、私たちは座り込んで、くるみで作った甘いお酒をゆっくり飲んだ。
その夜、私は手痛い失恋をしたばかりで、たくさん泣いてたくさん笑った。灯里も泣いて、灯里も笑った。このアパートの一室は、まるで子供の頃に夢みた秘密基地みたいだった。とうとう会えたと思った。本当の女友達に。
いままで女の子とは誰ひとりとして、うまくつるめなかった。男のひとにはいつもいいように扱われた。灯里に出会って、人生が変わった。本当に楽しいことばかりで、この数か月。私は、こころの底から灯里のことが大好きで、かけがえのない友達だった。
それなのにいま、私たちは別れ話をしようとしているのだ。とても寂しいことに。とても寂しい理由で。
灯里の色の白くてきめの細かい肌も、柔らかくて長い黒髪も、深くまで吸い込まれそうな澄んだ瞳も、化粧っけのない淡いピンクの唇も、嫌いなところはなにひとつないというのに。
「こっちに座って? 水季」
柔らかく落ち着いた声で、灯里は言った。私たちは木のローテーブルを挟んで、向かい合って座っていた。
灯里は自分の右隣りを指している。とても寂しくて悲しくて、目が潤んでしまいそうだったけど、私は灯里の隣にゆっくり座りなおした。
そうしたら、灯里がいつも見ていた景色が見えた。壁に貼られた大きなタペストリー。温かみのある赤と、ピンクとオレンジの絵柄の。柔らかい紫で山々が幻想的に描かれ、大きな太陽が、昇ってきたばかりなのか、沈みゆくところなのか、空の色を豊かな暖色に染めている。
灯里はいつも、私の背後にこんな景色を見ていたのだ。見ていたものが全く違っていたことに、改めて悲しい気持ちになった。
「手を、つないでくれる? 水季」
灯里が恐る恐る右手をテーブルの上に置いた。その手が震えていることに気づいて、急いで左手でしっかりと握りしめた。
「宇宙にはね。永遠に夕暮れの星があるんだって」
静かな声で、灯里が言った。灯里はタペストリーを見つめていた。
「うん」
と答えて、タペストリーを見つめた。
「本当にたくさんあるんだって」
宇宙には、永遠に夕暮れの星がたくさんある。意味がよくわからなかったので
「それってどういうこと?」
と訊いてみた。
「太陽は熱と光を出すでしょう? 太陽は大きいから、私たちは28000光年も離れた太陽から3番目の地球に住んでる。太陽に近い水星や金星には、生き物は住めないの」
「うん」
「でも宇宙のなかでは、太陽くらいに大きい恒星はとてもまれで、もっと小さな恒星、つまり熱と光を出す星のほうがずっと多いの」
「そうなんだ」
私には、灯里がなにを話したいのかよくわからなかったけど、なんだか興味はそそられた。
「小さな恒星の周りを回っている惑星で、生き物が住める可能性のある星は、どんな星だと思う?」
しばらく考えたが、わからないと答えた。灯里はこちらを見てほほ笑んだのち、また正面のタペストリーを見つめた。
「小さな恒星には、小さな熱と光しかないから、生き物が住めるとしたら恒星のすぐ傍の星っていうことになるの。もちろん、生き物が生まれるには水と光と熱がなくてはならないという、地球の常識が前提なんだけどね。恒星のすぐ傍を公転しているとしたら、恒星からの引力を強く受けるから、生き物の住む星は、きっと自転できないだろうって。つまり、恒星のほうにいつも同じ面を向けていることになるの。月が地球にいつも同じ面を向けているように」
「うん」
「恒星に向けている面はずっと昼で、からからに乾いて、いつもとても熱くて住めないの。恒星と反対の面は、ずっと夜で、氷で覆われて寒くて住めないの。だから生き物は、その中間の場所でしか生きられない。想像してみて、水季。その星に住む生き物にとっては、空はいつも夕暮れなの。本当に永遠に夕暮れなの」
トワイライトゾーンに暮らす生き物のことを想像してみた。夕暮れ。いつも夕暮れ。永遠に夕暮れ。
「だから寂しくないの。ずっと夕暮れなんだから、夕暮れなんて寂しくないの……」
灯里の声が涙色に揺れた。うん、と答えるしかなかった。繋いだ指に、力を入れた。それ以外に、私になんの権利があるだろう。灯里にはずいぶん助けられた。
私には、灯里の想いに応えることができなかったのだ。どうしても、どうしてもできなかったのだ。ずっと友達でいられればいいと思った。でもそれは無理なのだ。灯里の想いが恋である以上。私がその想いに、恋で返せない以上。
「私、恋人つくるね」
灯里は明るく言った。前を向いたままだった。
「うん」
「水季よりも先につくるから」
「うん」
このひとは、いままでどれだけ傷ついてきたのだろう。夕暮れが当たり前の星に、自分が住んでいると思うほどに。このひとのために、嘘をついてあげられればどんなにいいだろう。嘘が当たり前と思うほどに? それは無理だ。
灯里は私の耳元に唇を寄せて
「さよなら。大好きだったひと」
とささやいた。ありがとう。私も、大好きだったよ……。
そのあとふたり、無言でタペストリーを眺めた。永遠の夕暮れが寂しい色じゃないと思えるまで。
<了>