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【回想録 由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い 第74回】

🔷 「葬儀」の「通夜式と告別式」(1)を掲載します。🔷

 『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』
(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)
2016年1月25日 発行
著者   藤巻 隆
発行所  ブイツーソリューション

 ✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第74回)✍

葬儀

通夜式と告別式(1)

 由美子が息を引き取り、しばらく時間を置いて(気持ちを整える必要があったためです)、午前五時頃、私は「葬儀の板橋」(以下、「板橋」)へ連絡しました。

 板橋に決めていたのは、十七年前(平成十年六月)に父が他界し、現在藤巻家の墓地がある、「妙秀寺」の先代のご住職の指定で「板橋」に決まっていたからです。その時以来、「板橋」とお付き合いがあります。

 母は自分の葬儀の時を考え、「板橋」のグループ会社の互助会に加入し、費用を全額支払っていました。このことが、由美子の葬儀に大いに役に立ちました、詳しくは後述します。

 午前六時頃、「板橋」の霊柩車が戸塚共立第2病院に到着しました。小一時間かかったことになります。その間に、病室では由美子の遺体に処置が施されていました。

 由美子が霊柩車に載せられた後、看護師から死亡診断書を受け取りました。病院の裏出入り口前には、死亡確認に立ち会った当直の医師と看護師が最後の見送りのために整列し、深々とお辞儀をしている様子が見えました。霊柩車には可奈と私が同乗し、自宅へ向かいました。病院から自宅まで車で通常五分程の距離にあります。土曜日の早朝で道路はすいていて、あっという間に自宅に到着しました。

 霊柩車からストレッチャーに載せられた由美子が出され、葬儀社の係の方と私の二人でストレッチャーから由美子を抱き上げ、自宅一階の、父の仏壇が置かれた仏間へ安置しました。由美子は穏やかな表情を浮かべ、入院中に熟睡できなかった時間を取り戻すかのように、ぐっすり眠っているように見えました。時間が経てば、ぱっと目を覚ますのではないか、とさえ思えました。

 真夏のことで気温が高く、「自宅に安置できるのは今日一日だけで、明日、斎場となる『戸塚奉斎殿とつかほうさいでん』へ移送します」、と係の方に言われました。

戸塚奉斎殿


 この時点では、通夜式と告別式の日程は決まっていませんでした。その日の午後、妙秀寺のご住職に連絡がつき、日程を決めました。十二、十三の両日という話もあったのですが、私は二つの理由で十五、十六の両日にこだわりました。

 一つ目の理由は、十二、十三の両日ではあまりに慌ただしく、準備する時間が確保できないと判断したからです。

 二つ目の理由は、ご多忙中に葬儀に参列していただく方々の、都合を考慮したからです。十五、十六の両日は土日なので、会社を休まずに参列していただける可能性が高いと考えたからです。

 喪主の私はどんなに恥をかいても構いませんが、由美子に恥をかかせるわけにはいかないと強く思っていました。参列される方があまりに少なくては、由美子が可哀想ですし、そうかと言って、分不相応の多数の方に参列していただいたら、由美子が当惑してしまうと考えたからです。

 そうした状況で、九日から十六日まで、「戸塚奉斎殿」に安置されることになりました。九日から通夜式の前日の十四日まで、可奈と私は安置されている由美子に会い、線香を上げるため、毎日「戸塚奉斎殿」へ通いました。

(PP.193-195)


➳ 編集後記

第74回は「葬儀」の「通夜式と告別式」(1)を書きました。

病院から自宅、自宅から葬祭場への慌ただしい移動の間、私は由美子の葬儀をきちんと執り行わなければならないと、その一点だけを考え続け行動していました。

今、もし同様なことをしなければならないとしたら、果たしてできるか自信がありません。精神的にも肉体的にも喪主は強靭でなくては務まらないと思います。

当時を振り返ってみると、由美子に背中を押されて行動していたように感じています。



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