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【回想録 由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い 第39回】

🔷 「人生の転機」の中の「リストラ、数度の転職」の後半を掲載します。🔷

 『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』
(ハードカバー 四六版 モノクロ264ページ)
2016年1月25日 発行
著者   藤巻 隆
発行所  ブイツーソリューション

 ✍『由美子のいなくなった夏 亡き最愛の妻への想い』(第39回)✍

「人生の転機」の中の「リストラ、数度の転職」の後半を掲載します。

人生の転機(2)

リストラ、数度の転職 後半


Q-JIN氏の死

 洋販に勤務当時、情報システム部の責任者だったQ-JIN(ハンドルネーム)氏と出逢いました。その出逢いは、私の人生を大きく変えたと言えます。彼からコンピュータの使い方を学び、彼とビジネスに関する議論を重ねたことは、私の人生に大いに役に立っています。非常に残念なことに、私が退社後、彼は「窓際族」にされ、うつ病を発症した後、自ら命を絶ちました。私にできたことは、ブログを書くことを勧めることだけでした。


三度目の転職

 三度目の転職は、株式会社ベイハウジングという建設会社でした。この会社でも経理担当として、通算約六年間在籍しましたが、不景気と「リーマンショック」による業績低迷で、会社が経営破綻しました。最後には、社長と私の二人だけが残ることになり、残務処理をしたのですが、その後、退社するまでの一年十カ月は私にとって(家族にとっても)悲惨な毎日でした。

 経営破綻したため、給料はほとんど支給されず、支給されても、ひと月十万円(通勤費二万円を含む)でした。一年十カ月で未払い賃金は、通勤費を含め、約二五〇万円(手取りベース)に達しました。退社するまでの最後の四カ月は一円も支給されず、通勤費も持ち出しとなりました。

 なぜ、すぐに退社しなかったのか、と疑問に思われたことでしょう。その理由は、私が入社した当時、社長は総務部長で、面接試験の際、私を高く評価してくださり、入社できたという経緯がありました。その時の恩義を感じていましたので、「裏切る」ことができなかったのです。

 結局、平成二十三年四月に退社しました。この当時の経済的、精神的負担が由美子にも大きくのしかかったことは、想像に難くありません。由美子が「がん」に苦しむことになった遠因となりました。


理不尽な扱い

 その後、和菓子メーカーと介護老人保健施設で経理担当として勤務しましたが、採用当初の労働条件と大きな隔たりがあり、ともに三カ月の試用期間中に解雇されるという理不尽な扱いを受けました。ハローワークに行き、就職先を探しましたが、五十六歳になった私を雇う会社はありませんでした。就活(就職活動)はその時点で諦めました。

(PP.94-95)


➳ 編集後記

第39回は「人生の転機」の中の「リストラ、数度の転職」の後半を書きました。

ジミー・カーター元アメリカ大統領は自著の中でこう語っていました。

Once a ball goes down the slope, it’s hard to stop it.

(ボールが一旦斜面を転がり始めたら、止めることは難しい)

この言葉を私の人生に当てはめてみると、一旦人生が暗転し始めると止めることは容易なことではありませんでした。

由美子の死が、私のその後の人生を定めたのではないかとさえ思っています。それほどに大きなショックだったのです。

そんな私を他人は考えすぎだと説きますが、所詮他人事だからと思ってしまいます。



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