愛のポリティクス ~精神科医R.Dレイン論・メモ
(※一部修正しての再掲)
ふたつのゲシュタルト
クレペリンの講義にて
1900年頃のドイツ、病院の講堂にて。
統合失調症や躁うつ病の疾患概念をまとめあげるなど、今日の精神医学の礎を築いたエミール・クレペリン教授は、「緊張病性興奮」――今日で言う統合失調症の一亜型――と診断された一人の患者を講堂に招き入れる。その昔は、医学教育のために、講義の舞台で実際に患者を診察してみせる、といったことがしばしば行われていたのだった。
そして、クレペリンはこう付け加える、「彼は疑いもなくすべての質問を理解したけれども、有益な情報の一片もわれわれに与えなかった。彼の話は…ただ一連のばらばらの文章にすぎず、全般的状況になんらの関連も持たなかった」(DS32)、と。
さて、今日の私たちは、レインが処女作の導入部で引用しているこの一場面に何を読み取り、何を聞き取るだろうか。
クレペリンが解説するような、緊張病ゆえの滅裂な言動や、脈絡のない興奮、といったものであろうか。
しかし実際には、クレペリンの精緻な描写によって、百年の時を経て浮かび上がってくるのは、皮肉にも、精神病の何たるかよりも、精神病と診断された者の、ひとつの叫びである。レインによるコメントを待つまでもなく、この患者は「このような尋問形式にひどく憤慨しているのであろう[…]彼は判定されたり検査されたりすることに抗議している。彼は自分の本当に言わんとするところに耳を傾けてほしいのである」(DS32)ということが、分かる。
ただし、ここでレインは、必ずしも診断そのものの是非――「この患者に精神病という診断は誤りだ」とか「精神科の診断などそもそもレッテル貼りに過ぎない」といった――を問うているわけではない。それよりもまず、精神科における「診断」が、どのように「機能」してしまうのか、ということを問うている。
有機体/人間 ――2つの経験的ゲシュタルト
主流派精神医学の権威たるクレペリンの講義録の中から、あえてこのような箇所を抜き出してくるこの感覚、客観的であるはずの症状記述の背後にある叫びを聞き取らずにはいられない感性。そこにはすでに、レインの一貫したエートスが現れている。それも、単に情緒的な共感といったものではなく、確たる一つの方法論として。
精神医学的な症例記述のほとんどは、クレペリンが報告したような具体的やりとりまでは描かれていない。しかし実際には、このような直接的なやりとりなくして、その「症状」や「診断」を見定めることはできない。だから、記述からこぼれ落ちているとしても、程度の差はあれど常に、標準的な教科書に記述されてあるのは「精神科医をも含む行動野の中での人びとが示す行動」であり、「患者の行動はある程度、同一の行動の場における精神科医の行動の函数」であり、つまりは「標準的精神科患者は標準的精神科医の函数であり、また標準的精神病院の函数」(DS31)だ、ということになる。
このように、患者を一個の「対象」として――独立し、孤立し、自己完結した対象物として――みるのではなく、あくまでも、他者との関係性において理解する、あるいは関係性そのものとして理解することが、いつも、レインのアプローチにおける通底音として、ある。とはいえ、そのように語るのは、「客観的に理解しようとしても、主観的にならざるをえない」などといった、否定的な側面を単に強調したいがためではない。「客観的」「中立的」とみなされているものが常に適切なのか、ということ自体を問うているのだ、とみるべきだろう。レインは次のようにも述べていた、
人が人として人にかかわるかぎり、避けることのできない視点。それは、単なる因果関係ではなく、人と人との「関係性」において「意味」を理解する、という視点である。そのことを、レインは「一つの図像に対する二つのゲシュタルト」というアナロジーを用いて、こう説明している。
そして、二つのゲシュタルトがあるということは、精神症状を見極めようとする際にも同じように当てはまる。
ここで注意すべきは、レインがわざわざ、これは「精神/肉体」の二元論のことではない、と付け加えている点である。レインは「二つの経験的ゲシュタルト」という表現によって、「こころ」と「からだ(脳)」の二元論(両者を分断した上でさらに両者を”統合”して「人間全体をみる」とする論もしかり)とは異なる次元での話をしている、ということだ。例えば、心理的な「防衛機制」や「無意識の構造」といったものの存在を仮定する見方であっても、それらが一つの個体の内部で完結したものとみなしている場合には、「物理化学的システムとして見る」ということと同じ側にある、と言える。
レインが提示していることは、ある意味では、きわめて単純なことだ。
「私はあなたを、私と同じもうひとりの人間と見ることができる」――そう、そこには、「あなた」だけではなく、「あなた」を見る「私」という、もう一人の存在がすでに前提とされている。
そのときに生じていることは、二つの物体が横に並んでいる際に生じていることとは違う。
この単純な事実から始めようとするのだ。
人を人として見ること、その困難 ~ 医学的メタファー
今日では、精神科に限らず医療全体において、「患者さんを人としてみる、その人全体をみる」といったフレーズは、耳に心地よい言葉として、すでに違和感なく受け入れられている。しかし、そのフレーズはいったい何を意味しているのだろうか。それが、単に「サービス業化した医療」を意味するのではないとすれば。「人を人として見る」ということをあまりに安易にとらえてはいないか、「人を人として見る」ことの困難をあまりに軽く見積もってはいないか、との思いもよぎる。
「人を人として見る」ということは、確かに、ごく当たり前のこと、誰しもが日常的に意識せずとも行っていることではある。しかしその一方で、人は容易に人と人との間に壁を作り、人を人と思わぬ立ち振る舞いをする。それも、往々にして、自分自身がそうしているとは気づかぬままに。「人を人として見ない」ということは、ときには、実務の効率性におけるメリットとして、ときには、ある種の心理的な「防衛」として機能する。相手を「人として見る」ことで沸き起こってしまう自らの感情を回避するため、人は、モノのごとく・機械的に関わることがある、ということだ。あるいは、「モノ」とは言わないまでも、人にラベリングをすることで、何事かを回避しようとすることもある。
臨床場面においては、「診断」という行為が、そして、その他の医学的判断が、そのようなものとして機能してしまうことがある。レインはそれを「医学的メタファー」と表現し、次のように説明している。
精神科における診断は、いまなお、何らかの身体的検査によって特定されうるものではなく、逆に、身体的検査によって他の身体疾患であることを否定するとともに、特徴的な症状や経過を示唆するような情報を集めてゆくことを通じて、総合的になされるものである。それゆえ、身体的な病いの診断と比べてしまうと、精神科における診断は、まるで言葉の次元だけでなされているような印象を与えかねない。そのような性質に加え、精神疾患に対するそもそもの偏見などが相まって、精神医学的診断はメタファーのごとく独り歩きしやすい状況はある。
メタファーとは、その言葉が本来意味するものではないが、何かしら似通ったところのある物事との結びつきを生み出すものである。それゆえ、詩のように創造的なイメージを生み出すこともあれば、人を傷つけるイメージを生み出すこともあるだろう。精神医学的な診断もまた、メタファーのごとく、様々な出来事と結び付けられてゆくのだ、そのような連鎖はもはやメタファーでしかないとは意識されぬままに。あるいは、意識されないからこその、メタファーとしての機能として。
例えば、何の診断も受けていない人であれば、「個性的な振る舞い」として容認されるような行動であっても、統合失調症と診断された後では、あらゆる行動が周囲の人々から「統合失調症らしさ」とみなされたり、病状を悪化させるのではと心配されたりして、様々な制約を課されてしまう、といった具合に。先のクレペリンの講義にて供覧された患者にしても、立場や時代が違えば、十分に理解しうる反発からの振る舞いであっても、ことごとくが精神病の症状とみなされていたように。
このように、私たちのまわりには、知らず知らずのうちに、医学的メタファーによって二重三重の境界が張りめぐらされている。それによって束縛される可能性があるのは患者とされる人々だけではない。診断されていない人々も、そして、治療やケアに関わる人々も含めて、である。レインが述べるように、患者やその周りの人々が医学的メタファーに絡めとられていくほど、治療者もまた自らの振る舞いをそのメタファーへと合わせてゆかざるをえなくなり、「一人の人格として行動することが困難になる」。ますます自らの役割は固定化され、治療者自身が「モノ」「ラベル」「メタファー」のごときものとならざるをえなくなるだろう。
それゆえ、治療者はつねに忘れてはならない。「症状」や「診断」を見定めようとする医学的な眼差しそれ自体が、どれほど当の相手を束縛し傷つけうるか、そして、そのことに気づかぬがゆえに、どれほど、さらに道を誤りうるか、ということを。
端的に「人として理解する」ということは、診断のみならず、当然、治療の過程にも関わるものである。医学的メタファーに見られるような、行動を個人へと切り詰めていくことが「治療」として――心理療法なり、薬物療法における評価なりにおいて――実践されるとき、何らかの快方をもたらすどころか、閉塞や孤立、ときにはスティグマ化すらもたらすこともありうる。後の章でもふれるが、レインは治療に関しては、特定の技法を磨くよりも、「結ぼれ」から自然治癒へと導くことに腐心する人であった。そのような視点からすれば、医学的メタファーに絡めとられたままの「治療」は「自然治癒過程との接触」とは真逆のものということになるだろう。
このような医学的メタファーに取り囲まれた状況を見通すために必要となるのが、先に述べた、二つの経験的ゲシュタルトを見分けるまなざしである。そして、だからこそ、レインは最後まで繰り返し訴え続けた。「人を人として見る」という、ごくごく当たり前であるはずの――にもかかわらず、いまだ困難でもある――ことを。
方法としてのアマチュアリズム
一個の「有機体」から相互的な「人間(person)」へのパースペクティヴの転換、そして、その往還、あるいは二重視。
レインにとってそれは、単なる認識論的な議論などではなく、治療的な営為そのものへと通じるものでもあった。半生を振り返った自伝においては、さらにこのようにも述べていた。
同じものを別様に見ること(seeing the same differently)、それがもたらすポジティヴィティを信ずること。
しかし、ならば、「別様に見る」と言っても次のような場合はどうだろうか。先のクレペリンの講義の引用に続いて、レインはこのように語っていた。
プロフェッショナルらしからぬ、いかにもナイーヴな告白(コンフェッション)ではある。ただし、「精神病の<徴候と症状>を現実に見出すことに欠陥をもつ」ことは、「患者たちが私に対して示す応対の仕方に標準的教科書の著者たちが全くふれていない」ということの裏返しとして語られている。レインがまだレジデントだった頃について語られた、「自分は精神医学に対する確信が欠けていることを逆手にとってそれを勇気のよりどころとする以外にない」(WMF41)との言葉にも通じるところの、アマチュアリズム的な反転。
ここで思い出されるのは、自伝の結びの一節、レインが現代の医学教育のありようについて語っていた事柄である。
プロフェッションとしての医学の教育において、パーソナルな領域が「無視されやすい」のは、単に客観性を重視するから、ということだけではない。そこには専門家自身の、パーソナルな領域を扱うことへの「恐れ」があるのではないか――そんなレインの指摘に、臨床家ならば、思い当たる節があるだろう。
最もプライベートな部分を扱うということには――それが単に病歴聴取のような表面的なやりとりではなく、治療 treatment として取り扱う treat のであれば――、例えば、人の手に触れることが相手に触れられることでもあるように、治療者自身のプライベートな領域に「触れられる」かのような感覚を覚え、回避したくなる、というのはありうることである。
また、患者の側にしても、そのパーソナルな領域に治療者が安易に「踏み込む」ことは、治療的になるとは限らず、それどころか侵襲的にもなりうる。
とはいえ、パーソナルな領域に「触れる」ことなく、精神科医は、はたして何か「治療的」なことをなしうるのだろうか。
医学的メタファーから離れ、有機体として眺めることもやめ、「恐れ」つつも、「治療者と患者」ではなく「あなたと私」――人と人とが共に在るということ、そのパーソナルなコミュニケーションから始めてみること――このような語りはロマンティックに聞こえるかもしれないし、プロフェッショナルな課程において回避・否認されがちかもしれないが、これもまた臨床において不可避な一側面として再認識しておく必要があるのではないか。
そう考えると、レインは“反”精神医学的というより、あえて精神医学の「アマチュア」たらんとした、というべきではないのかと思えてくる。
愛のポリティクス
賞賛する者からも、批判者からも、レインは「”分裂病”なる病名はただのレッテル貼り」だと主張した「反精神医学運動の旗手」である、などと語られるのが常であり、それはもはや戦後の精神医学史を語る際のクリシェになっている。しかし彼自身は、「自分は”反精神医学者”ではない」と明言していた。
そして、ここまでみてきたようなレインの言葉をなぞってゆくならば、そのような否認が決して日和見的なものではないことが見えてくるだろう。たしかに、著作の中には、一文を取り出してしまうと、「反精神医学的」と解されかねない表現はある。しかし、そのような箇所でさえ、レインは慎重に言葉を選んでいる。その言葉選びを、私たちも慎重にたどりなおす必要がある。
例えば次のような一節。
レインは言う、分裂病の「仮説」「モデル」を提案はしない、分裂病の「存在を仮定しない」と。しかし、それは、分裂病の存在を「否定する」ことと同じではない。「存在を仮定しない」という持って回った言い回しが示唆するのは、分裂病といった病名に限らず、様々な判断を一旦“括弧”に入れて、人々の経験そのものに則した理解を目指すこと、それがレインの出発点であるということだ。そのような方法によってこそ、精神病エピソードと呼ばれるものについてもまた、しばしば「連鎖(ネクサス)の行動面のみならず相互-経験の面における特殊な危機として」(SO43)理解されうる、つまりは「社会的に理解可能」となりうる、レインは考えていた。
そしてそのような方法において必要となるのが、ここまでみてきたような、世界・他者・自己のあいだでの相互の関係において理解する、ということである。次のような一節も、同じような視点から読むとどうであろうか。
ここでは、「原因」をイタリックにしている、その理由まで考えるべきだろう。レインは、分裂病が彼の行動の原因となることを否定しようとしているわけではない。「分裂病が彼の行動の原因となっているのではないか」と問うことと同じように、「彼の行動が分裂病とみなされる「原因」となっているのではないか」と問うこと。そのような螺旋運動が、はじまりも終わりもなく、続いていくということ。つまりは、 「原因」について語る、その語りそのものが螺旋の一部をなしているということ。そのことを示そうとしている。
それでは、より明確に「反精神医学的」とみなされるであろう、次の一文はどう考えるべきか。
ここであわせて考えるべきは、レインが「政治的」という語をいかなる意味合いで用いているか、ということだ。分裂病ナルモノがそのままの状態で存在しているわけではなく、そこには社会的な「ラベリング」というプロセスがあってこそ一つの「事実」として存在しうるということ。このような指摘は、ここまでみてきた議論にそのまま通じるところであるが、さらに一歩踏み込んで、それが「政治的出来事」であるとは、どのような意味なのか。
ここでレインが「政治的」であることについてふれている他の箇所を参照してみるのがよいだろう。
レインは精神疾患の実在性といったものに強く異議を唱えているわけではなく、そのような意味で、「反精神医学者」ではない。しかしその一方で、精神医学が、社会における排除や抑圧の機能を担いうる可能性や、実際に担ってしまっている面もある現状など、精神医学の「政治性」には憂慮をしている。そしてこれは、先に取り上げた「医学的メタファー」をめぐる問題圏そのものである。
クーパーは明確に左翼的思想の持主であったし、レインの論文も『ニューレフト・レヴュー』といった左派の雑誌に掲載されたりもしていた。そして、クーパーらと違って、政治的な活動には気乗りがしなかったレインであるが、二つの著作に『家族の政治学』『経験の政治学』といった具合に「politics」という語をわざわざ用いているぐらいであるから、「ポリティクス」に何の関心もなかった、というはずはなかろう。 精神医学批判を一般論で済ませるのではなく、 ミクロの次元で、「誰が」と問うこと。それがレインにとっての「政治性」であり、おぼろげには医師を志したときから思い描かれていたものであったのかもしれない。それを彼は、人間対人間のポリティクス、あるいは、愛のポリティクスと呼んだのだった。
人と人、基本的な人間の絆、すなわち、「愛」。
『引き裂かれた自己』においてすでに、レインは、治療における「愛」について、こうも語っていた、
「愛」とは何かロマンティックな特別なものではなく、患者を全存在として受け入れ、理解することであり、「人-間として見る」こととして述べてきたことそのものであろう。そして、この「愛」を「出発点」としてゆくこと、それがレインの臨床であり、また、レインにとってのポリティクスでもあった。
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