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精神科医R.D.レイン論 2-① Schizoid way of life

<身体をもつこと>、その困難

私は、この身体を、生きる。
ごく当たり前のこととしてやりすごしている、この現実。
そのようなあり方を、レインは「身体化されている embodied」と表現している。

人は誰でも[…]、自分を身体と(あるいは身体の中に)わかちがたく結びつけられているものとして体験する。[…]このような人は、自己を身体化されたものと体験している、ということができる。(DS83)

身体化された人間は、自分が生物学的に生きかつ実在しているということを、自分が肉や血や骨であるということを知っている。[…]彼は自分の身体をおびやかす危険をこうむる主体として自分を体験する。[…]彼は、身体的欲望ならびに身体の満足や身体の欲求不満のなかにまきこまれる。[…]人は、自分が他の人間存在とともに在る人間であるための基礎として、自分の身体についての体験を出発点としてもつ(DS85)

「主体的に、能動的にならねば…」といったことなど意識せぬうちに、いつの間にか、そのように生きている。
しかし、人が「身体化されている」ということ、身体の身体性について、レインがあらためて語ろうとするのは、それが実際には「当たり前」のこととは言えないからである。人は――殊に「精神を病んだ」人々においては――、そんな前提自体が、ゆらぐことも稀ではない。「たとえ人間の存在が〈精神〉としての自己と身体としての自己とに完全に引き裂かれないにしても、人間は多くの仕方で自分自身に対して分裂しうる存在」 (DS85) なのだ。
そして、この「分裂」のありようもまた、様々なかたちをとりうるだろう。
このようなもののうち、人の目にふれやすいのは、いわゆる「解離」といった状態であったり、あるいは、転換症状(昔で言うヒステリー症状)といったものであろうか。
一時的に記憶が抜けていたり、極端な場合には多重人格と呼ばれるような事態となったりするような、解離。
無意識的、あるいは、なかば意識的な葛藤を背景として、特定の体の部位の不具合を示すような、転換症状。
そして、たしかに「解離」「転換」といった病状については、数多くの研究もある。しかし、レインが着目するのは、そういった、「自己が身体化された自己としてもともと出発し、ストレスによって一時的に分離し、危機が去ればもとの身体化された態度にもどるものとされている」 (DS88)ようなたぐいの「分裂」のことではない、という。

〈ふつうの〉人でも緊急のストレスのある時には自分の身体から自分が部分的に遊離したと感じることがあるものだが、それとは全くちがって、そもそも自分の生が身体に吸着されておらず、むしろ自分自身が(以前からずっとそうであったわけであるが)自分の身体からいくぶん離れた存在であるという人びとがいる。このような人のことをひとは、〈彼は〉全く受肉するにいたっていないといってもよく、また彼は自分自身のことを多少とも身体化されない存在だと表現してもよい。(DS83)

この種の「分裂」を、単に「こころとからだが一体になっていない」などと解するべきではない。
そのような見方は、「こころ」なるものと「からだ」なるものが、それぞれ別個に初めから成立していることを暗に前提としているのだから。
そうではなく、ここで考えようとしているのは、「こころ」なるものそれ自体の存立をめぐる問題、あるいは/そして、「からだ」なるものそれ自体の存立をめぐる問題なのである。
それは、<身体をもつこと>の困難、身体を「持つ」とされるこの<私>の成り立ちそのものの困難と同時的な出来事における困難、とでも言うべきものなのだ。

スキゾイド

レインは、この<身体をもつこと>の困難を、スキゾイドと呼ばれる人々のうちに見て取る。
スキゾイドとは何か。
スキゾイド(schizoid)とは、統合失調症(schizophrenia)に“似た”もの(-oid)との名の通り、対人接触を好まず自閉的で、感情的共感に乏しかったり、過敏さが見られたり、といった統合失調症の症状に似た特徴を認めるが、幻覚・妄想といった典型的な精神病症状は認めない、といった人格特徴のことを言い、統合失調症の病前性格や前駆的段階としてみられることもある、という類のものである。
しかし、レインは そういった外延的な規定による概念付けではなく、内包的な定義――あるいは、アプリオリな定義と言ってもよいような――から出発する。『ひき裂かれた自己』ではその冒頭から、こう宣言されている、

スキゾイド(schizoid)というのは、その人の体験の全体が、主として次のような二つの仕方で裂けている人間のことである。つまり第一に世界とのあいだに断層が、第二に自分自身とのあいだに亀裂が生じているのである。このような人間は、他者と<ともに>ある存在として生きることができないし、世界のなかで<くつろぐ>こともできない。それどころか、絶望的な孤独と孤立の中で自分を体験する。その上、自分自身をひとりの完全な人間としてではなく、さまざまな仕方で<分裂>したものとして体験する。たとえば身体との結びつきが多少ともゆるくなった精神として、あるいはまた、二つ以上の自分として――等々。(DS14)

それでは、実際にはレインの言うスキゾイドの人々は、どのような生のありようをしているのか。それをレインはどのように描いているのか。
まずは同書に挙げられた様々な症例のうち、特にレインが多くのページを割いている二人の患者、デイビッドとピーター――いずれも若い男性だ――の経過をたどってみることにしよう。

デイビッドの場合

レインが勤務するネットリーの陸軍病院にデイビッドが入院してきたのは、彼が18歳の時である。陸軍に配属されて9か月、不安感や、祈りの時間の最中に動作が固まってしまう、といった強迫らしき行動がみられたがゆえの入院だった。
青白くて背高のっぽの、その青年は、顔にはチックのような動きがあり、両手は不思議なジェスチャーを続けていた。デイビッドにみられた症状は、「何をしろ、何をするな、と指図する想像の声が聞こえくる」というものであり、「その声に従わないように頑張ってみても、それはすごく難しい」ということであった。
「声」と本人が表現するものを強迫観念として理解するならば、「強迫症」という病名を考えられなくもないが、やはり、行動を指図する幻聴に苛まれているのだとすれば、統合失調症のはじまりも疑われる病状であろう。今日の精神科診察室ならば、このような訴えを聞くや否や、服薬の促しへと話題が移ってしまいかねないところだが、ここでは、いましばらく、デイビッドの語りに耳を傾け、生い立ちにまで遡ってみることにしよう。
デイビッドは3人兄弟の2番目として生まれたが、姉はデイビッドが生まれる前に死去、弟には知的障害があった。となれば、親から彼に過度の期待をかけられていたとしても不思議はない。母はデイビッドに尽くし、離れがたいほどだった、という話もある。しかし、本人が7歳の時に母は他界してしまう。母の死を振り返る言葉は、実にアンビバレントなものだった――「どっちかというと、ほっとした…いや、本当に悲しかった…のだと思いたいけれど…。」
幼いころからシャイで不器用なところがあった彼は、どんなシチュエーションであっても期待通り、計算通りに立ち振る舞えるように、意識的に自分自身をしつけるようにしてきたと、本人は言う。その一方で、おかしな服で着飾ってみたり、たくさんの宝石をまとった自分を夢想したり、という一面もあった。鏡の前で一人、女性を演じていた。そして、母亡き後の父との生活の中で、料理や部屋の飾りつけなど、男子らしからぬ家事にも精を出した。 
そんな彼が、学校での演劇で目を見張るような演技を見せたのも、必然であったかもしれない。役どころはマクベス夫人。15歳の男子とは思えぬ演技に教師も驚きを隠せなかった。しかし、本人もまた、別の意味で、驚くことになる。彼の中で、マクベス夫人という役柄は存在感を増し、憑りつき、役から離れるのが難しくなっていったのだ。
ある時から彼は、ひたすら嫌味なキャラクターを演じ続けるようになる。それゆえクラスの中で浮いてしまっているのは本人も分かっていた。それでも、そうせざるをえなかった。そうでもしなければ、女性的な役に飲み込まれずにいることができなかったのだ。幼い頃から“演じて”生きてきた彼は、いまや、「彼自身」として自然にふるまうということがどのようなことなのか、ほとんど分からなくなっていた。
持ち前の明るさが失われ、強迫的な行動が目立ち始めたのも、そんなジレンマの中においてである。片手で何かに触れたなら、もう一方の手で同じように触れずにはいられなくなった。三分間で十三回も祈り、そして、「神様、ごめんなさい…」と、何度も何度も繰り返した。祈らなければ、とんでもない災厄にみまわれるのではないか、という不安にさいなまれていたのだった。

ピーターの場合

20代半ばのピーターが精神科の受診に至ったのは、「自分がいやな臭いを発している」という訴えのためであった。他人は気づいているか確信は持てないが、自分にははっきりと分かる臭い。自分の下半身や恥部から発せられる臭い。外にいるときは、何か燃えているような臭いなのだが、たいていは、古くて、酸っぱい、朽ち果て、腐ったような臭い。駅の待合室に漂う、かびくさい、すすけて、ざらついた臭い。あるいは、安アパートにある壊れたトイレの臭いにも似た。
そのような臭いをいつから感じるようになったのか。そこはピーター自身にも思い当たる出来事があった。当時はまだ彼は会社勤めをしていたが、その頃、習慣になっていたのが、会社のトイレで、女性の同僚に対するサディスティックな空想に浸りつつマスターベーションをする、ということだった。ある日も同じことを済ませてきたら、直後にばったり、その女性と鉢合わせをする。じっと彼を見つめる彼女の視線。秘密が見透かされたかのようで、恐怖でいっぱいになる。そこから彼は、もはや自分の行動や思考を隠しおおせるという確信が持てなくなり、精液の臭いが自分の本性を暴露するのではないかと恐れるようになった。
こういった症状は、一応は妄想と呼びうるかもしれないが、統合失調症などの精神病というよりは、思春期~青年期にみられる自己臭妄想症(あるいは、思春期妄想症といった呼称)のたぐいも考えるべきケースであろう。
しかし、レインはそこで理解を留めてしまうことなく、さらに生活史をたどってゆく。そして、通院を開始して何か月後かに、ようやく語られ始めた過去の記憶に行き着く。
ピーターの母親は、可憐な容姿、というだけでなく、いつも綺麗に着飾っては、自分の姿に見とれているような女性であった。そして、叔母が語るには、とにかく子どもには無関心だったらしい。あからさまにピーターを拒絶することはなかった。しかし、愛情を示す、ということもなかった。母親に抱きしめられることもなく、遊んでもらうこともなく、ピーターは育った。 父親もまた、そんな魅力的な妻を自慢げに連れて歩いた。子どもにも愛着がないわけではなかったようだが、その表現にはいびつなところがあった。ぞんざいに扱い、あら探しをし、時には罵声を浴びせた。それでいて、ピーターの学校の成績が良かったり、弁護士事務所で働き始めたりしたときには、そのことをまた自慢して回るような、要するに、世俗的な人間であった。そのような両親のもとで一人っ子として育ったピーターは、孤独だった。「望まれなかった子ども」なのだと思い、いつしか、生まれてきたこと自体に罪悪感を感じていた。
しかし、孤独な日々の中で、彼には唯一、親密なつながりを持ちえた存在もいた。それは、彼が8歳ぐらいのときに近所で出会った、同じ年ごろの少女である。彼女は、空襲で両親を失い、自らも失明していた。ピーターは甲斐甲斐しく彼女の世話をする。ともに歩き回ったり、座って話をしたり、彼女の絵を描いたり。彼は時間の大半を盲目の彼女と過ごしていた。家では目をかけてもらえぬ存在である彼が、相手の目には見えぬ存在のままで、人をケアする役を果たす。それはピーターにとって至福の時となりえたであろうし、だからこそ、ずっと記憶の奥底にしまい込まれていたのかもしれない。
とはいえ、蜜月も数年間で終わる。思春期になる頃には、「自分はみんなから“偽り”の立場へと追いやられている」という観念をもちはじめていた。そんな観念は、両極端な自己像をもたらすことになる。「彼自身は、自分が演じつつある人物ではないという感情以外には、どんな人間になりたいのかもわからなかった。自分は無価値であるという気持と並んで、自分は何か特別な人間であり、特別な使命を帯びて神から送られてきたのだという考えがはぐくまれていた。しかし、どんな人間で、何をする人間か…それは言えなかった。」(DS168) 周囲から目をかけられることのない存在としての自分は「偽りの自分」であり、本当の自分は「人目につかぬよう隠しておくべき存在」であるかのごとく、分け隔てられてゆく。
次第に彼は人の顔色をうかがうようになる。仕事も長続きせず転々とした。その彼が、「見透かされているかもしれない」と感ずる出来事に出くわせば、精神的に大いに揺らぐことになる、というのも、理解できることではあるだろう。
(つづく)

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