見出し画像

ステイトメントはどう書いたら良いのか②

こんにちは、たけぞうです。

今回もステイトメントについてです。

前の投稿ではステイトメント全文を読んでいただき、また次に展示写真を見ていただきました。

それを踏まえて今回は最後に、私なりにどのような点を心がけてステイトメントを書いたのかをまとめてみます。

そういえば、この展示に関連するのですが、少し前に音楽番組で森山直太郎さんが『生きてることがつらいなら』という歌を歌っていました。その中で森山さんは『生きてることがつらいなら、いっそ小さく死ねばいい』と歌っています。

私が受け取ったのは、死というものはとても身近で普通のもので、3日もすれば周りの人たちも日常に戻っていく。そんなに大袈裟なものではない(だからそんなことでは何も変わらない。生きましょう。)というメッセージでした。死が身近で普通のものという感覚が今の自分の感じ方に通じていると思いました。

若い頃には...というよりも案外最近まで、死というものは大袈裟なもので、時に耽美的な側面への憧れを伴うものと捉えていた思います。

さて、展示写真がどんなものなのかは、とても重要なポイントなので、まずは展示写真について簡単に触れたいと思います。

画像7

画像5

『Recto Verso」はフォトバー・サヨウさんの主催するグループ展のタイトルで二面性を意味するフランス語だそうです。今回展示者を選んだ写真家のThomas.H.Haraさんとサヨウのオーナーで写真家の田中亜弥子さんで決められたテーマです。

私の展示タイトルは「  二つの椅子 」。

1枚目がこちらです。

画像3

撮影は2017年。いつか展示で見ていただきたいと温めていたものです。場所の記憶がおぼろげなのですが神楽坂だと思います。

場所がはっきりと思い出せない割に、この一枚の写真のことはよく覚えています。

笑う赤ちゃんの声と笑顔、それを見守るお父さんの背中とおそらくは幸せそうな顔。最初はそれに誘われてレンズを向けていたと思います。その後ろに車椅子のご老人が見えます。

当時の私の興味を振り返ると、撮影時には、同じように車輪の付いた椅子に座って、正反対の方向を向いている赤ちゃんとご老人という対比を単にグラフィカルに捉えていたのではないかと思います。また、老人の存在感がそれくらい希薄でしたし、私自身もその場で何かを読み取るまでの感覚に至っていなかったかもしれません。

私は撮ったものをその場でほとんど確認しないので、撮影後にPCで見直して初めて写り込んでいるコントラストの強さに驚いたのを良く覚えています。改めて見ると顔は見えていないながら、老人の目は何も見ていないかのような、また表情はきっと無いのではないかなという印象を持ちます。

写真の中に生と死とその間、つまり人の人生の全てが写っているように感じられました。また同時にそれがとても普通の日常的な風景として溶け込んでいるとも感じました。これはSNSでは伝わらないと感じましたし、まだ当時の私には、死というものに安易に言及するべきではないという思いが強くありました。それが3年前の自分の感覚です。

画像3

そして2枚目は昨年の春に撮影したものです。場所は新横浜。三分咲きの桜の木の下に静かに座るご年配の男性らしい後ろ姿がとても印象的でした。やはりどこか不思議な存在感を感じたのではないかと思います。目の前にいるのに同じ時間を共有している感じがしないというのか、別の時間軸の中にいるような印象。桜は日本人の私にとってそれ自体が生と死を象徴する典型的な存在です。桜には美しさよりも儚さを強く感じます。

ベンチの片側を意図して空けているかのような座り方も気になります。またその左にある椅子もどこか重要だと感じていたと思います。そこまでは覚えていませんが、左右の椅子をシンメトリーに撮っていますので、左右を同じ重さ、重要度を持って撮ろうとしたのだと思います。

よく見ると左の椅子の上に被る桜の木はほとんど桜が咲いておらず、少し不思議な印象を与えますが、撮影時にはそこまで明確に気がついてはいなかったように思います。

こちらも1枚目と同様に、とても静かで日常的な光景の中に、生と死とその間を感じさせる写真だと思っています。

モノクロとカラーでの展示になるので珍しいですが、意味のある対比だと感じました。ときどきモノクロとカラーを混在させることが絶対的な間違いであると言い切る写真家がいますが、おそらく感性の欠如です。

画像7

説明のように2枚はもちろんバラバラに撮られたものですが、並ぶことで不思議な対比と関連性を感じました。私にはだんだんと2枚の写真の老人が一人の人物なのでは無いかと思えてきました。また実際の展示では一番左のベンチに向かって誰もいなくなり、桜も咲いていないことに強いメッセージを感じ取る人もいました。


画像4

これは展示写真ではありません。

ムクゲの花です。

夏に咲く花で、私にとっては死のイメージです。写真はいつもとても私的なものです。撮影は2018年8月6日。前日の未明に弟が心臓の血管の破裂で亡くなり、解剖のために運ばれた東京都監察医務院の前に咲いていたものです。私は弟のいた痕跡を少しでも写真に収めておきたいと思っていました。

彼は普通に夕食を食べ、風呂に入って寝たまま、翌朝には起きてこなかったそうです。冷静な母が取り乱して電話をかけてきたことを鮮明に覚えています。死というのがほんとうに身近で当たり前のことで、大袈裟なことでも何でもなく、生と裏腹、隣合わせであることを悟ったのはこの時だと感じています。

それ以降は妻が朝起きてくるのが遅かったりすると、そのまま起きてこないのではないかという気持ちになるのが普通です。

さて、写真のステイトメントには、おそらく本質的には定型のものはなく、むしろ勉強のような形で学ぶべきものではないというのが私の勝手な考えです。

ただひとつだけ言えるのは、その作家がシャッターを押した理由を、出来るだけ深く伝える必要があるということです。

そしてそれは経験、つまり肌で感じ、心が理解したことであって欲しいと感じます。頭で作りまとめた難しい概念が人の心を動かすのはなかなか難しいものです。

どう書くべきか?という質問の答えは、ただ一つそれだけかもしれません。

なぜシャッターを押すのか?

なぜその時シャッターを押したのか?

経験と共感をもって。

改めてステイトメントの全文を読んでいただくと、何か発見があるかも知れませんので、こちらに置いて筆を置きたいと思います。

最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

たけぞう

画像4




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?