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若い皆さんへ

(この文章は、『岩井克人「欲望の貨幣論」を語る』【東洋経済新報社】の
〝あとがき〟をまとめたものです。                 )

 「太陽の下、この世には何も新しいものはありません」。
 岩井さんの論考の中に登場する言葉です。この世に全て新しいものはなく、これまでにあったものが形を変えて現れたに過ぎない事を平易に語ったものです。そうした深い歴史認識と理論的な洞察の眼差しが、岩井さんの貨幣論、資本主義論の基盤となっているのです。
 仮想通貨、または暗号資産とも呼ばれる21世紀のテクノロジーの枠を集めた存在の乱高下も、紀元前6世紀にドラクマ硬貨が流通していた古代ギリシャの時代以来の欲望の歴史の中で繰り返される悲喜劇ということになるのかもしれません。いつも人々は「貨幣商品説」や「貨幣法制説」にある種の錯覚を抱いて、現在に至ります。
 「貨幣とは他の誰かが交換に応じ受け取ってくれる、ただそれだけの事によって貨幣足りうる」。ゆえに「貨幣とは貨幣であるから貨幣である」。現象の本質を見極めようとした岩井さんは、こうして貨幣の定義を自己循環論法にしか見い出し得ないことにたどり着きます。そして、このパラドックスで回る資本主義を維持するための天才的なアイデアを持っていた、ある男の話を始めます。「お尋ね者」ジョン・ローのことです。
 神話や民間伝承の中で、詐術を駆使するいたずら者として活躍する存在をトリックスターと表現することがあります。時に秩序を混乱させるならず者かと思えば、時に英雄として集団を活性化させる両儀性の象徴。まさにジョン・ローその人に当てはまる表現ですが、共同体と共同体の間も行き来する道化であるトリックスターの存在を考えることが、貨幣、欲望、資本主義を考えるときの鍵になることを示しています。
 実はもう一人、ジョン・ローの発想を高く評価する人物がいます。ファンドマネージャーでアナリストでもあるフェリックス・マーティンです。彼は今回番組内で、仮想通貨の現状を解析する際に、実に興味深い表現を用いています。「ロックの呪い」です。
 「一体なぜ仮想通貨はこれほど人気なのでしょう。これは、ロックの貨幣感への皮肉な回帰だと思います」。
 穏やかな口調で語り始めたマーティンは、私たちが「社会規約説」で知る17世紀イギリスの思想家の名前を口に出しました。ロックは、国家は貨幣についても規約に基づくルールを作るべきだと考えるように至ったと言うのです。
 「ロックの貨幣観とはこうでした。貨幣システムは厳密かつシンプルなルールに従うべきだ。そこでは円でもポンドでも通貨の発行量は、中央銀行の金庫にある金=ゴールドの量に依存すべし。そこに柔軟性は不要だ、とロックは主張したのです」。
 「ロックは、中央銀行の政策決定者が貨幣の価値や流通量を管理するのも間違っているとしました。」。
 「ロックの価値観は知らぬ間に私たちに染み付いているのです。彼が行っていた事は非常にありふれた本能を用いることでした。その本能とは、〝貨幣〟とは人々の間の取消めではなく物理的なモノであると簡単に間違えることです。」。
 マーティンは、ロックの示した考え方が、現代の仮想通貨開発者たちにも「呪い」のように暗示をかけ、彼らは無意識のうちに仮想通貨の発行総量を決めてしまったのかもしれない、と言うのです。こうしてマーティンも岩井さんの自己循環論法と同じ貨幣感を共有します。
 貨幣という奇妙な存在のお陰で、ジョン・ロー、岩井さん、マーティンと様々な人々の思考が繋がり、そこに「社会契約説」を生んだ近代の政治思想家の発想が形を変えて今も人々を縛っている可能性が明らかになって行くのです。そして、その「錯覚」を生んでいる人々の心の奥底にあるのは、根拠がないことに耐えられない不安であり、やはりどこかに根拠を持ちたいという欲望なのだという言い方もできるのかもしれません。

  実はもうひとつ貨幣が抱える大きな特性について考える必要があることを岩井さんは語ります。

 「貨幣がまさに一般的な交換の媒介でしかないということが(そして一般的な交換の媒介である限りにおいて)、貨幣にその実体性とは全く独立な流動性という名の有用性の如きものを与えてしまうことになるのである。本来は商品を手に入れるためのたんなる媒介でしかないはずの貨幣が、その商品と並んで、それ自体あたかもひとつの商品であるかのように、流動性選好という名の欲望の直接的な対象となってしまうのである。

(岩井克人『貨幣論』ちくま学芸文庫)

「流動性」とは何とでも交換できる貨幣の性質ですが、ここに着目したケインズは、人々の心の中にある、貨幣への潜在的な欲望を明らかにしました。あらゆるものと交換できる可能性こそ、貨幣への欲望の重要な正体です。そしてそれは、具体的な経済活動としては、利子率が低い時に銀行に預けるよりも自分の手元に置きたいと願う、今にも通じる大衆の心理を説明するセオリーです。将来の消費の可能性のために貯めたいおカネ。この「流動性選好」が強ければ、人々はモノを買わなくなり、これが不況への入り口ともなるわけです。

 貨幣への欲望、それは、未来の無限の可能性への欲望でもあるのです。実は、今から2300年以上前に、この貨幣の不思議に既に気づいていた古代ギリシャの哲人がいました。アリストテレスです。彼はこんな言葉を残しています。「貨幣は元々交換のための手段。しかし次第にそれを貯めること自体が目的化する」。既にして古代ギリシャ社会において、「流動性選好」は存在していた・・・無限の欲望は生まれていたのです。

 「貨幣による財獲得術から生まれる富は際限がない。なぜならば、その目的を可能な限り最大化しようと欲くするからだ。生きる欲望に果てはないのだから、彼らは満たしうる際限のない財を欲することになる。貨幣は元々は交換のための手段。しかし、次第にそれを貯めること自体が目的化する」。

『政治学』アリストテレス

 こうして岩井さん、ケインズ、アリストテレスと、貨幣の欲望のパラドックスを直視した眼差しが、歴史上、一直線で繋がります。この貨幣をめぐる「目的と手段」の逆転を抱え込んだゆえの不安定を通して、市場という様々な人々の思いが行き交う「欲望の劇場」のドラマの探求は、資本主義の本質の考察へと展開するのです。

 「資本主義については二つの対立する見方があります」。
 岩井さんは、こう明言しています。アダム・スミスを始祖とする「新古典派」と、もう一つケインズを代表とする「不均衡動学派」あると。しかし、1980年代前半、当時の近代経済学の教科書にあっては、セオリーは一つしか語られていませんでした。ポール・サミュエルソンによる分厚い上下2冊『経済学』に代表される「新古典派総合」と呼ばれる考え方の中に、見事なまでに「不均衡動学派」であるケインズの発想のエッセンスは取り込まれ「総合」化され、体系的な一貫した理論が語られていました。そして社会「科学」として確立した「近代経済学」は、マクロとミクロと分野分けがなされ、「経済原論」として多くの大学で制度化されていたのです。

 当時既に「不均衡動学」を一つの理論として世に問うていた岩井さんは、全てを「総合」することは出来ないと思われていたはずです。この二つの資本主義観の相違を考察することは、現代の資本主義の本質を捉えようとする時に重要な意味を持っています。
 「新古典派」は、基本的に不純物がないほどに、純粋に市場原理が機能するほどに、効率性と安定性も実現され理想状態に近づくと考えます。それに対して「不均衡動学派」は、効率性と安定性は二律背反にあると考えます。つまり市場にあって純粋な競争が行われるほどに、恐慌またはハイパーインフレなどの可能性が増してしまう…、市場に安定性をもたらしているのは、政府や中央銀行の存在、むしろ自由な競争を疎外する「不純物」たる存在があることで、曲がりなりにも安定性が生まれているというわけです。両者の思想の背後にある相違は、ある種の制度、文化、慣習、市場の「外側」・「外部」にある社会的な要因へのまなざしであり、さらに大衆心理への洞察です。「不均衡動学派」の思想の本質は、岩井さんの次の一言に集約されているように思います。
 「資本主義に理想状態などありません」。

市場は常に「外部」を、「非競争的要素」を必要としているとパラドックスがここにあるのです。そしてそれはとりもなおさず、市場は本源的な不均衡をはらんでいることを意味します。

 「経済とは、結局市場経済的な力と経済外的な要因との相互の複雑なるから見合いの結果でしかないのである」。


  

岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』ちくま学芸文庫

 この結論は、この35年近くの劇的な世界の変化とも無関係ではないでしょう。時代の潮流は一度「新古典派」の資本主義観が世界を席巻する方向へ大きく傾きました。ベルリンの壁が壊れ、ソ連は崩壊…、社会主義という「外部」を失った世界は、市場原理一辺倒へと傾斜します。アカデミズムでも80年代以降の新自由主義をリードした「自由放任主義のチャンピオン」ミルトン・フリードマンは、ケインズ的な「不均衡動学派」のエッセンスを取り込んだ「新古典派総合」すらも否定。市場原理で全てを解決できるという思想、風潮が社会にも広がっていきました。そして2008年のリーマン・ショックに直面し、人々は今一度そこで、市場の抱える本源的な不均衡に向き合うことになったのです。
 つまり市場原理を信奉する者と、そのものの危うさを指摘する者がいつもせめぎ合い、歴史は繰り返すのですが、総体として俯瞰すると、どうにも「不均衡動学派」の旗色が悪いように見えます。
 危機の時代の思想ほど、実は多くの人々は直視しないこと、そしてさらにもう一歩踏み込めば、不安定さを孕んだ状況に耐えられないことを示してるのではないではないでしょうか?。やはり「神の見えざる手」を信じたい、神の存在を信じて安心したい潜在的な真理(=心理)がそこにはあるように思うのです。

 こうして人々の心の底に眠る心理への洞察を深めるとき、欠かせないのがあの「ケインズの美人コンテスト」です。「最も美人だと思う人に投票してください。ただし、賞金は最も票を集めた女性に投票した方々に差し上げます。」といった美人コンテストが開催されたとき何が起こるのか?。自分の好みを選ばず、他人の好みを予想して投票する人々…。そこに繰り広げられるのは無限の予想、人々の心の読み合いのゲームです。
 この状況こそ、実は現代社会の構図を象徴しているのではないでしょうか?。ネット社会で増幅していく欲望の乱反射に、もはや実体はありません。勝ち馬に乗りたい大衆心理が、雪だるまのように膨れ上がって行くばかりです。そして、今や株式市場にあっては、機械対機械、AI対AIが瞬間的な読み合いの主力となりつつあるのです。そこに、技術が先導/扇動し、大衆の欲望を換気し増幅させる時代を見通したかのような、ケインズの現代性があります。モノ主体の経済から無形のサービス主体へ、感情すら商品になるとも言われる時代、差異のイメージさえあれば商品になる時代の「ポスト産業資本主義」の時代だからこそ、更にテクノロジーの驚異的な発展で瞬時に様々なアイデアがバーチャルなネット上でも消費されていく時代だからこそ、「ケインズの美人コンテスト」は今、私たちに強く深く響くメッセージとなるのです。

 ただ差異を産み続けるための、果てしない資本の運動。絶対的な価値よりも、相対的な価格(=相対的な差異のイメージ)の競争が勝ってしまい、差異を生むこと自体が自己目的化していくというわけです。ここにも、悲喜劇的な〝差異果て〟のパラドックスが誕生するのです。

 「資本主義の『発展』とは、相対的な差異の存在に依ってしかその絶対的な要請である利潤を創出し得ないという資本主義に根源的なパラドックスの産物であり、その部分的で一時的でしかありえない解決の、シシフォスの神話にも似た反復の過程にほかならない。
 実は、形式的に同一の反復過程が、資本主義の中における人々の社会学的欲望をめぐっても展開されているのである」。

岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』ちくま学芸文庫

 番組「欲望の貨幣論2019」の「最終章 欲望に拮抗する言葉」に於いて岩井さんに語って頂いた大事な言葉があります。

 「貨幣は、本来人間を匿名にするのです。これが貨幣の最も重要なところですね。匿名と言うことは、人間が、〝他の人に評価されない領域〟を自分でちゃんと持っているということ。これが重要なんですよ。
 そこで人間は〝自由〟なんですね。自分自身の領域を持っているということが人間の自由なんですね。〝自分で自分の目的を決定できる〟存在というのは、その中に他の人間が入り込めない余地があるわけです。他の人に評価されない、自分自身の領域を持っていることが人間の自由なんですね。自分で自分の目的を決定できる存在…、これが〝人間の尊厳の根源(=人間の根源的平等)〟になるのです」。

NHK BS1 「欲望の貨幣論2019」

 人間の尊厳をどう守るか?。実はこの問いこそ、「欲望の資本主義」の時代に於ける最大の問題の一つなのです。

 「貨幣を生み出す資本主義というのは非常に普遍的な存在で、ほとんど、もう引き算の問題でしかないと。この普遍性に対抗するにはですね、やっぱり、〝普遍的な原理が必要〟であって、同情、共感、連帯、愛情に依存しない、普遍性で語られる原理なのです」。

NHK BS1 「欲望の貨幣論2019」

 際限のない貨幣への欲望に対抗するため、岩井さんは一人の歴史上の巨人の言葉に注目しました。哲学者イマヌエル・カントです。アメリカの独立、フランスの革命などの動乱期である18世紀後半のヨーロッパにあって、大陸合理論とイギリス経験論を調停したと言われるカントは、哲学の世界に新たなページを開きました。
 「合理的な知性」の濫用に対して注意深くあろうとした彼は、知性の限界を指摘したのです。様々な存在はすでにしてあり、それを経験するという順序で私たちの認識は生まれるのではなく、逆に私たちの経験に依ってそのあり方が決まる、と考えたのです。これは天動説から地動説への転換に等しいほどの思考様式の転換だと考えたカントは、これを「コペルニクス的転換」と呼んでいます。
 こうしてこの世界のあり方が、人々の認識のあり方に委ねられることになったとき、即ち、様々な認識を持つ人々が社会の中で「自由」に行動するとき、「規範」というものが大切となることも導かれます。皆「自由」なわけですが、だからこそ、他者の「実践」を邪魔しない最低限の義務として「規範」です。そして、逆にその「規範」を守る限りにおいては、誰もが侵されることのない人間としてのある領域を持っていることになります。その領域こそが、人間の「尊厳」なのです。

すべての人間は、心の迷いと欲望を抱えているものであり、
これに関わるものはすべて市場価格を持っている。
それに対して、ある者が目的を叶えようとする時、
相対的な価値である価格ではなく内的な価値である尊厳を持つ。
尊厳にすべての価格を超越した高い地位を認める。
尊厳は価格と比べて見積もることなど、絶対に出来ない。
 
 

イマヌエル・カント(1724~1804)

 『貨幣論』が世に出てから四半世紀…、資本主義の欲望の象徴=〝貨幣の謎〟をたどる探求の示唆するところは、いよいよ混迷し先が見えない経済状況の中、極めて切実なものになっています。資本主義を存立可能にする貨幣それ自体が、資本主義を崩壊させる逆説が今、グローバルな規模で進みつつあることへの警鐘です。「欲望の資本主義」シリーズ、そして特別編の「貨幣論」も、そうした時代状況に応えるべく問を重ねて来ました。
 実は岩井さん、否、岩井先生との出会いは35年前に遡ります。1985年の春、他大学の学生でありながら東大駒場キャンパスにも出没していた私は、悪友とともに当時エール大学から帰国した気鋭の岩井助教授の経済学の原論の講義に潜りました。そしてあろうことか、質問までしたのです。当時、数理経済学と同時に、哲学、文学、歴史、思想・・・ジャンルを横断して思考されているように見えた岩井先生の真意、学問、人生へのスタンスをお聞きしたかったのです。それは当時自らの進路選択にも悩みを抱えていた一学生として、切実な問いでもありました。先生は仰っしゃられました。
 「自分の心に正直に、その問題意識に突き進んで行くならば、学問分野など分けることが出来ない。経済学が仮にそのきっかけであったにせよ、社会に、哲学に、心理に、文学に、歴史に、数学に、物理に…と及んでいくことは当然であり、その探求のエネルギーは、生きるエネルギーと直結しているものだ」と。

 「人間社会に於いて自己が自己であることの困難と、資本主義社会に於いて貨幣が貨幣であることの困難との間には、少なくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである」。

岩井克人『貨幣論』ちくま学芸文庫

 混迷の時代に生きていく若い皆さんは、不安にかられていると思います。でも、皆さんには時間という莫大な資産があります。潤沢に時間を投じて試行錯誤ができるのは、若者の特権です。そのことを若い皆さんは、どうか忘れないでください。そして、私と話しませんか?。\(^o^)/

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