2019.01.17函館教育大学韓国語授業資料「自分の言葉を取り戻す」

自分の「ことば」たりえた「ことば」を取り戻す

~なんで韓国語をやるの?の自分史~ 

韓国で新年の挨拶は、「새해 복 많이 받으세요(新年福をたくさん受けてください)」です。日本のように「あけまして」ではないので、「あける前」の年末にもこの挨拶が使えます(日本語と違い「良いお年を」との使い分けをしなくてもすみます)。

といっても韓国は、旧暦で正月を祝うので、今年の陰暦の正月は2020年1月25日(土)なので、1月25日前後にこの挨拶を交わすことになります。韓国では、新暦の正月を「新正(신정)」、旧暦の正月を「旧正(구정)」といって区別した言い方もあります。韓国もカレンダーは新暦のものを使っているので、カウントダウンパーティーは新暦の12月31日にやったりしています。なので、新暦1月1日前後にも上の挨拶がやり取りされることもあります(でもカウントダウンをやった次の1月1日はあまり正月気分じゃありません)。

知り合いの韓国人がいるなら冬休み前に、または1月25日前後に、この挨拶をSNSで送ってあげましょう。1月25日の正月を韓国に直接行って、韓国の友達と正月を過ごしたいという人もいるかもしれませんが、1月27日(月)はこの授業の最終日ですので諦めたほうがよさそうです(というか諦めてください。お願いします)。1月末の渡韓はきっぱりと諦め15回目まで韓国語の勉強をがんばりましょう。

さて、第13回・14回のテーマは「将来の夢」です。今日見たドラマ「ドリーム・ハイ」の中で、ヘミ役のペ・スジさんが今までの経験から得たこと、そして将来の可能性について語っています。皆さんはこの1年の学校生活の中で、何を経験し、どのような成長ができたでしょうか。また、あなたにはどんな可能性があるのでしょうか。このあたりを上手く韓国語でまとめるのは難しいのですが、ぜひチャレンジしてほしい表現です。特に可能性については自由に書いてよいですので、将来こんなことがしたいという話をぜひ聞かせてほしいです。「韓国語を学んだことによってどんな可能性が生まれるか」について話してもいいですよね。

 今回は一応、私の「韓国語を学んだことによってどんな可能性が生まれたのか」について話しておきたいと思います。私自身、韓国語を学んだことによっていろいろな経験ができていますし、それは現在進行形です。そして、強調しておきたいのは、それらの経験のほとんどが、私が意図しないところで起きた出来事ばかりだということです。例えば、「韓国語で韓国人以外の人とつながる」というのがその一例です。皆さんは、韓国語を何らかの目的で勉強していると思います。そして、多くの人は、「韓国語を韓国人と話すため」とか、「韓国文化をより理解するため」という目標を持っていると思います。しかし、意外なところで意外な人と韓国語でつながることもあります。

 もう4年も前のことです。函館のアイヌの方々と、台湾ブヌン族の民族声楽団の交流会のお手伝いをする機会がありました。私はその時、台湾ブヌン族の方の移動を手伝う運転手役をしていました。一日に何箇所も移動があったのを覚えています。そこで、ちょっとしたアクシデントがありました。忙しいスケジュールであわてていたのでしょうか。ひとりの女の子が私の車に携帯を残したまま宿泊先に行ってしまったのです。私が帰宅した頃、関係者から携帯を車においてきたかもしれないという連絡が入り、それを女の子の元まで届けることになりました。海外で携帯を失くすというのは、結構泣きたくなるアクシデントです。案の定、携帯を見せるまでの女の子の表情は、「やばい、死んだ。人生つんだわー」という感じでした。ところが、携帯を見せると表情が一気に明るくなって、何度も私にお礼を言ってくれました(ちなみに、こういう時の、「あーよかった」という韓国語は、「다행이다(多幸だ)」と言います。私なら、「살았다(生きた)」を使うでしょうか)。最初は中華圏の普通語で「謝謝」とか、日本語で「ありがとう」とお礼を言っていたのですが、関係者が私が韓国語を教えているということを伝えたとたん、韓国語で自己紹介してくれて、別れ際に、韓国語で「감사합니다」と書かれた彼らのCDをプレゼントしてくれました。韓国で韓国人以外が韓国語を話すのはたくさん見てきたので、台湾の人が韓国語を話すということに対しての驚きはありませんでしたが、「日本にいる日本人にあえて韓国語で話す」「自分が知っていて、なおかつ相手に通じる言葉で話したい」という姿勢に、

「あー、韓国語を学んでいる意味ってこれなんだよな」「誰に何語を使うとか、関係ないんだよな」としみじみ感じたのでした。と同時に、「この人から、この言葉を受け取るために自分は韓国語をやってきたんだよな」とも思いました。ちょっとオーバーかもしれませんが、韓国語を勉強してこなければ、この時のお礼は受け取れなかったような気がしました。運命的な出会いというわけではありませんが、「いつか起こるである事象に備えて何かを習得しておくこと」というのは非常に大切です。普段使う機会がなくても身につけておくと、得することって結構あります。ただ、いつ訪れるかわからない、その機会を待つというのは忍耐がいりますけど。

 皆さんの中には韓国語学習を、「単位取得のため」とか、言い方は悪いかもしれないけど「K-POPが好きですよってアピールできる程度のアクセサリーやトレンド」と考えている人がいるかもしれません。「どうせ仕事で使うわけではないし、大学卒業したらどうせ忘れるし」と考えている人も中にはいるかもしれません。私は別にこの考えはこの考えでいいなと思います。私自身、大学で学んだドイツ語は使い物にならないし、英語能力もCEFRでいったらA0なんじゃないでしょうかってくらいヤバいです。教えてくれた先生たちは悲しむでしょうが、(今まで教えてくれたD先生、S先生ごめんなさい)。ただ、「ちゃんと身に付けなかったがために、誰かのお礼の気持ちを受け取れなかったんじゃないか」とか、「ちゃんと学んどけばいろんな可能性があったのに」と後悔するかもしれないと考えると、ちゃんとやっておこうかなと思えてくるような気がします。「韓国語を学んだことによってどんな可能性が生まれるか」は、人それぞれですし、未だ見ぬ未来の話ですので、見えない事を信じて何かをがんばり続けるというのは難しい面があります。でも、続けたら続けた分だけ、「自分はこのために韓国語をやってたんだ」と思える機会を得る可能性が高まるのです。そして、この瞬間がやってきた人はこのことに気づくと思います。

 

 

―数多く聞こえてきたかもしぬ言語の中にあって、母語とはそのうち記憶に生き残っている特権的な言語のことである。他者の言語とは、その根源的なありかたからは、常にもう一つの母語とたりうる言語に他ならない。―

野間秀樹(2007:42)「ことばを学ぶことの根拠はどこにあるか」『韓国語教育論第1巻』より

 

 

 他者の言語とは、自分の母語であったかもしれない言語である。外国語を学ぶことは、自分の母語であったかもしれない言葉を学ぶこと。いかにも自己啓発本にありそうな怪しい言葉ですが、私はこの言葉は正しいと思います。「外国語を学ぶことは、自分の母語であったかもしれない言語を取り戻すこと」に近いんじゃないかと思います。そして思うのです。「自分はこのために韓国語をやってたんだ」と思う瞬間とは、「自分の母語たりうる言語を取り戻した瞬間」なのだと[1]


[1] 外国語を学ぶ根拠を「より学術的に」考えたいという人のためにクリティカルな二冊を紹介しておきます。寺沢拓敬の「なんで英語やるの?の戦後史―《国民教育》としての英語、その伝統と成立過程」(研究社)は、「英語を学校でなぜ勉強するようになったのか」という歴史を事細かにたどった良作です。「実は学校で英語教育をする必然性がない」ことを証明してくれます。あと、鳥飼玖美子の「英語教育論争から考える」(みすず書房)もオススメです。この度の入試制度の改編騒動もそうですけど、学校で行われる教育って「誰のもの」なんでしょうね?

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