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文章だって鮮度が命

元編集で今もちょっと編集兼ライターのようなことをしています。そこで日々感じていることを書きます。こないだは小説執筆スタンスを書きましたが、今回は取材のスタンスです。

※主旨があってるか分かりませんが、仕事の話なのでしばらく「仕事依頼」に設定しておきます。

まずは文章だって鮮度が命、ということです。

私が仕事で書いている文章は、紙媒体にウェブ媒体、ジャンルは広告から編集記事までさまざま。記事によって、速報性、独自性が求められるもの、マニアックだったり一般的だったりして、時と場合で書き分けます。情報によっては速報性はなく、遅くなってもたいして情報は変わらないものもあるのですが、私はスピード重視です。

スピードというのには2つあって、取材後にすぐ書くという執筆のスピード、そして情報を出すタイミングとしてのスピード。主に重要視しているのは前者です。

感覚を大事にしたい

私はどちらかというと取材力が試される記事が好きなんですが、依頼があればほかもやっていて、「誰が書いても一緒じゃね?」というレベルの記事でも、取材時の自分の感覚を大事にしています。

事件とか当日のイベント取材でもない限り、情報としてだけなら今時ネットを見れば大抵のことがわかります。取材先がSNSとかやっていたら、自宅にいても書けるものも多いです。そんな中、たとえ10分でも対面してしゃべったら、そこでしか分からない感覚があるんですよね。

取材では最初に聞くことは何となく決めてはいますが、「コレはいい話だ」と思ったらどんどん質問を変えていきます。人によっては緊張している場合もあって、固いままだといい話が聞けないので、リラックスしてほしい。そんなわけで、持ち時間のバランスを見つつ、時間がない場合は仕方なくカッチリ決まった質問だけになることもあるけれど、時間が許すなら、そして相手も気分よくしゃべってくれているなら、いくらでも聴くことにしています。そこでどれだけオンリーワンの情報が引き出せるかが勝負。

録音はほぼ聞かない

こんな感じで、感覚をフル稼働させて取材にのぞんでいるので、それが新鮮なうちに書くことにしています。時間が経つとその時の印象を忘れてしまって、書けるには書けますがどんどん平坦な記事になっていきます。

私は基本的に録音をしません。あまりに忙しすぎたときにレコーダーを買いましたが、それ以来、せっかく持っているからとたまに録音はしているけど、ほぼ聞いていません。聞くとしても、言葉を拾うというよりは、聞くことでその時の感覚を思い出しています。同じ理由で、取材現場の写真を撮らせてもらって、後で見て当時の様子を思い出す、なんてこともします。

最低限のメモはしており、一応見返して確認しますが大事なことはメモ以外のことから受け取ります。メモでは話の重点であるキーワードと、その人がその時しか言えないセリフなど「おっ」って思ったことを書き留めます。
聴きながら手元を見ずにぐわーって書くため、字が汚すぎて読めないのですが大抵何とかなります。一字一句を正確に書くことより、その時相手が何を思ってしゃべっているかを理解する方が大事だと思ってます。実際「あの時は、ああいったけどちょっと違う」なんてことも多いのです。記事の方向性さえつかめれば、固有名詞の間違いやちょっとしたニュアンス違いはあとで修正できるもんです。

これが正解かは分かりませんが、私の場合はこんな感じです。

第3者だからこそできること

最近は少ないですが、人によっては取材されることを面倒がる人もいます。そういう時は最低限の情報だけ聞いて、あとは資料で済ませることもあります。
でも、今やだれもが発信できる時代であり、やがては、あるいは既にAIが書く時代。そんな時にメディアの役割って何だろう? ってよく考えるのです。

1つは、誰でもできるとはいえ、やっぱり人によって得意不得意がある。発信が上手な人は自分でやっちゃえばいいと思うけれど、「やりたいけど、どうすればいいか分からない」という人は多い。文章書くのが苦手な人もいます。ただし、これだけがネックなら、AIで対応できるかもしれません。

あとは、客観的視点。めちゃくちゃいい仕事をしていたり、めちゃくちゃ素敵な人でも、自分の良さを自覚している人は少ない。時には、プライオリティを勘違いして、別のことに注力してしまっている場合もある。「それってすごいですよ」と言って「え、そうなんですか?」と驚かれることもしばしば。そういうのを掘り起こすのが自分の役割かなと思います。もうちょいいうと、AIでできないことがあるなら、人間的な部分を引き出すこと。相手の人間くさい部分を、私という人間の感性で引き出すことを大事にしています。

※AIの話は過去記事「時間にかえられない価値がある。回せるものはプログラムで。」の<効率化がすべてではない。人の心はプライスレス>にも少しだけ書きました。

公開タイミングとしてのスピード

書いた記事が半年後に公開されたことがあります。それってもう賞味期限切れてるんじゃ……って感じなんですが、担当者にすれば一緒と思っているようでした。まあ大人の事情もあったようでしたが、そこをサボることで記事の価値を下げているので、結果的に損してるんじゃないかなと思いました。
その記事は、時間に左右されないものではありましたが、その時のその人を、その時の私の感覚で書いた記事。1つの記事の公開について、早いか遅かで印象を比べることはできないので、なんとも言えないんですけどね。プロでもない限り、文章から受け取る違和感を言語化できる人はあまりいないでしょうが、絶対に違いはあると思ってます。文章の良しあしっていうのは、数値化できないところが魅力である反面、もどかしい思いをすることも多いです。

文章は誰でも書けて、しかも腐らない。執筆とか発信のハードルが下がるのはいいことですが、弊害もあるなとしみじみ思います。この話はまた別の機会にでも書こうかな。

ブログの鮮度

私のブログは情報というよりは、ただの自己満足の発信。それでも鮮度かなと思います。自分の思いとかを書こうとして、やっぱやーめた、みたいなのもよくあります。私もすでに下書き10こくらい消しました。

偶然知ったんですが、過去にnote「熟成下書き」っていうハッシュタグでお題があったんですね。「ほったらかしていた下書きを発表してみませんか」みたいな感じだったかと思います。でも私は熟成下書きの発表はできないかなあ、と思いました。出すとしたら、それを元に書き直します。

やっぱり当時書いたときの気持ちって変わっちゃうんです。その時の私じゃない。思い出そうとして書くっていうのは、別人になったつもりで書くということ。

熟成の期間にもよりますが、ただの日記とか「思い」なら2,3日、小説とか作品であれば数か月もいけるかな? という印象です。作品ならいつまででもいけるかと思っていたけれど、3年前に放置した作品に取り掛かろうとしたら無理でした。あの時は「これは書かなきゃ!」っていう情熱に燃えていたのに、置きすぎたせいでもういいかな、、と思ってしまう。後悔しても時すでに遅し。でも、どこかに蓄積されているから、違う形でまた出てくるかもなとは思います。

賞見期限のめやす

期限ならぬ賞期限について、書きながらひらめきました。

・いま感じたこと、具体的なエピソードを元に書いた瞬発的なものは短い。

・普遍的になるほど長い。

生野菜や生肉は短いし、乾物や梅干しや味噌は長い。食べ物と一緒ですね。その時々でうつりゆくものは短いけれど、経験を重ねて普遍性を感じるものは長い。今日の出来事、数年以内の流行、社会問題、歴史、哲学——みたいな順番でしょうか。世界最古の書物を知らないのですが、聖書なんですかね。bookの語源ですよね。紙が貴重な時代には書き残すものも絞られていたでしょうが、現代には消えてしまった当時流行の書物もたくさんあったのかもしれません。

私は普遍的なものが書きたくてブログは避けまくっていたのですが、意地を張っても仕方ないので書くことにしました。食事だって生野菜だけでも味噌や梅干しだけでも飽きるし、バランス良くやってりゃいいですよね。


今日はこのへんで。
執筆や編集については思うことがありすぎて書き切れませんので、ちょこちょこ書いていこうと思います。




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