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繊細さんが最先端

Noteから離れてしまったので見てくれる人はほぼいないのだけれど、繊細さん関連の記事はたまに読まれている。
繊細さんが多いってことなのかな、と思ったのでまた書いてみる。



繊細なことはめんどくさい


繊細に生まれると感情の波が激しい。喜怒哀楽すべてを強く感じるので、喜と楽のターンでいるときの世界は美しいが、怒と哀にはまると生まれてきたことを後悔し、すべての存在を否定したくなる。傍から見ると自分はめんどくさいやつなんだろうな、という劣等感がある。


わたしはかつて、繊細であることが邪魔でしかなく、もっと淡々と飄々と生きられたらいいのに、いっそのことロボットだったらよかったのにと「自分ロボット化」に励んだこともある。でも失敗した。わたしにとって感情を殺すということは、文字通り、ある意味で自殺と同等なのだ。肉体的には生きていても、精神的に死んでいたら、それは生きていると言えるのだろうか? そこまでいかなくても、真綿で首を吊るような、あるいは遅延性の毒を欠かさず飲んでいるようなもので、じわじわと、しかし確実に自分をむしばんでいく。幸い、わたしの場合はいくら絶望してもやっぱりムリだと諦めていたので、繊細なまま生きることにした(諦めた)。


「向いている仕事」なんてない


誰かが「繊細さんに向いている仕事を知りたい」と書いているのを見たが、わたしはそんなものはないと思う。“繊細な人に向いている仕事”を探すんじゃなく、自分が選んだ仕事の中で、繊細であることのメリットを最大限に生かすんだよ。


「繊細さんに向いている仕事だったら、全く興味がなくても構わない」とはならないし、繊細な人間にとって厳しい環境だとしても続けたい何かがあるなら続けるだろう。続けていく中で、自分にとって居心地の良い環境を自分で作っていくしかない。


たとえば、わたしが昔やっていた仕事で、大人数が集まる場所に行ったり、大人数と会話しなければいけないような仕事が入ると、その後3日は身体が使い物にならないくらい疲弊していた。ほかの人はなんともないのに、わたしだけ異常に疲れやすかったのだ。繊細というのは受け取る情報量が多いということなので、キャパオーバーするのだと思う。


繊細さとは何かについて、書いた記事↓



身体にムチ打てば乗り切れないこともないが、そこまで無理をする必要があるだろうか、と立ち止まった。考えられる対策としては、「時間短縮や会う人数を減らすなど、交渉する」「疲弊しないように力をセーブする」「仕事を受けない」などがある。クライアントに交渉したり止めるとなると勇気がいるし、力をセーブしたくてもコントロールできない。

しかし多少の痛みを引き受けないと、物事は進まない。そのときのわたしは、クライアントの方向性やコスパなどを考えて、取引を止めることにした。収入が減るとか、せっかく築いた関係が壊れるのではないかと怖さもあったが、自分の心と身体の健康を守る方が大事だった。


実はこの話は、繊細かどうかなんてひとつのキッカケにしかすぎず、最終的にはただ決断力の問題だったりする。繊細な人と鈍感な人で、快・不快の環境は全然違うだろうが、100人いれば100通りの“理想の環境”があるのは当たり前のこと。そこで自分なりに考えて行動できるかどうかは、繊細さは全く関係ない。


繊細な自分が心地よく過ごせる環境は何なのか、代わりに失うものと天秤にかけたときにどっちを取るか。変化をいとわないのか、安定を望むのか? 多くの大人たちが節目節目で直面する分かれ道で選択を迫られるのは、どんな人でも一緒ということ。

だから自分はこのままいくんだと決めた。人がなんといおうと自分は誠実にやっている。そうであれば、人と同じようにできない分、人ができないことをやっているはず。わかってくれる人は少ないだろうしゼロかもしれないが、自分を信じる。繊細というのは弱いということではないのだ。


人間らしさを満喫できる


繊細さんというのは、よく考えたらめちゃくちゃ人間らしい。人間として生まれた醍醐味を感じられる気質だと思う。過去にロボットになりたいと思ったと書いたが、それはつまり「感情を排除して合理的に効率よく動けるようになりたい」ということだった。そんなものになったら、わたしがわたしである意味なんてあったもんじゃない。資本主義にとって都合の良い駒に自ら成り下がろうとしていたということだ。バカげたことだと今なら思うが、若い頃はそれだけ切実だった。

資本主義とか大きな話でなくとも、結局、仕事や人間関係をうまく回すために、自分の心を排除することはやっぱり駒に成り下がることだと思う。だからって感情的になればよいということではなく、感情がわくことは否定しないでおこうよ、ということ。

今後はAIがいま現在の人々の仕事を奪っていき、一方で人間にしかできない仕事が増えていくなんて言われている。それってつまり、繊細な人ほど活躍できる時代ということではないか。かつてわたしが目指した、「感情抜きで合理的で効率よく動く」ことはロボットが担当してくれるのだから。

最近のエンタメやアート系は分かりやすく、かなり繊細な作品がメジャー枠で紹介されているのに驚かされることもしばしば。繊細さんは細繊端(最先端)だ。わたし自身、そこまで大きな変化はないが、牛歩だとしても常に前より生きやすくなっているかな。

だから繊細でも大丈夫。しんどいこともあるけれど、それは自分を成長させるチャンスでもある。「辛い、苦しい、もうムリ」って思う存分嘆いてもいい、ちょっと落ち着いたらまた前を見る。そうやってもがいて生きていたら、知らない間に思いもよらず遠くまで進んでたりする。


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