フカブンカブンの両手持ち【COTEN RADIO 民主主義の歴史編を聴いて】
【COTEN RADIO 民主主義の歴史編12】ぐらつく世界をどう生きる? 民主主義が持つ脆弱性との向き合い方を聴いて、特に最後のまとめで深井さんが言ってたことについて思うことです。
最後のそもそも論として提示されたのが、インディビジュアルである個人を前提という西洋的な世界観を僕らが本当に取り入れるのかという問題でした。
この概念は社会のシステムにはインストールされたけども文化や価値観にインストールされていない。だからこそ起こるコンフリクトが起こっている。
深井さんは「インディビジュアル概念」と「そうでない概念」の両方を実装しておき、時々において発揮させるダブルスタンダード的なあり方を提唱していました。僕もかなりこの捉え方には同意しています。
ここで大切になるのは「そうでない概念」をどう捉えるか。東洋的・日本的なある種の「自己認識」をどの領域で捉えるかだと思います。インディビジュアル概念では自己認識は文字通り自己で境界線を作りますが、そうでない概念は自己認識の境界線がもっと広くコミュニティ・集団・社会にまで拡大します。
さて、僕はよくこんな図を使って説明することがあります。
「みんな」という言葉は2つの使われ方をしています。それが「自分を含まないみんな」と「自分を含むみんな」ですね。日常生活を思い返してみてください、きっとこの両方の意味を使いながらも言葉は同じ「みんな」を使っているはずです。
英語にすると「自分を含まないみんな」はtheyで「自分を含むみんな」はweです。この二つのうち、「自分を含むみんな」をいかに実感していくかが、深井さんの言う「インディビジュアル概念」と「そうでない概念」の両方を実装するアプローチだと思うのです。
言葉の捉え方、そこから生まれているイメージに対する解像度を一つ一つ丁寧に高めていくことが大切ですら、例えばいまの僕らの捉え方は「世間」=「自分を含まないみんな」だと思います。たぶん世間という言葉で捉えようとすると、ずっと「自分を含むみんな」は実感できない。
もっと詳細に考えると、この感覚は「みんなの幸せが自分の幸せに繋がる」みたいな概念ではない。この捉え方は結局インディビジュアル概念の延長線上に「みんな」を見出しているに過ぎない。「みんな=自分」であって「みんな↔︎自分」ではない。
名作漫画「鋼の錬金術師」によく出てくるフレーズで「一は全、全は一」という言葉が近いかもしれませんね。ちょっとした言葉の使い方ですが、「になる」ではなく「である」で捉える、そんな感覚です。
深井さんは「もし完全にインディビジュアル概念をインストールするなら」という思考実験において「日本語を使うのをやめる」という手段が考えられると言っています(実際にそうすべきと言ってるわけではないので誤解なきよう)
使う言葉によって世界の認識が変わるという解釈は言語人類学とも呼ばれる分野とも関連して、僕自身とても興味を持って掘り下げているテーマです。日本語を使っているからこそ抱いている思考様式があれば、英語を使っているからこそ抱いている思考様式もあるかもしれない。(「言語が違えば、世界も違って見えるわけ」という本が面白いですよ。)
これまた日本語と英語の違いみたいなところから生まれる「認識の差異」なのですが、英語は主語を明確にしますよね。だからこそ否が応でも主体を意識する思考様式になり、世界の認識に影響を及ぼしていく。日本語はそういう構造になっていない。そもそも「主語」という概念すら英語的な言語の捉え方だとする解釈もあるようです。
余談ですがミッション・ビジョン・バリューやパーパスといった言葉が上滑りしてインストールできない背景もココにあると思うんですよね。西洋の文化や言語踏まえたうえでこの言葉を捉え、僕らの持つ文化や言語踏まえた上で実装させようとしないと稼働するわけがない。
価値観・文化のあり方とシステムとしてのあり方と、その両方を見つめたときに確かに「インディビジュアル概念」と「そうでない概念」の両方を実装しておくことは大切なはず。
その実践方法の一つ、きっと忘れちゃいけないことが、「自分を含むみんな」をいかに実感していくかだと思うのです。
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