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否定の自己目的化

仮にキライな相手や集団、あるいは特定の考え方があるとしましょう。その相手や集団に対して批判的な向き合い方を続けているとしましょう。長期にわたってそんな関わり方をしていると、いつの間にか自分の中でその相手の行為や思考を「否定する」というエネルギーが強化されていたりします。いつの間にか否定が前提になっている。否定そのものが自己目的化する。

そうすると、相手の行為や思考の「カウンター」を自分の最善策だと思い込んでしまう。で、細部を見ればそのカウンター的最善策にも一定の道理はある。だからこそ、その一定の道理の部分を重いウエイトで扱い出してしまう。その道理は相手を批判できる材料であり真実でもあるから。ただし、「一定の」という面からは変わりない。すべてではない。

同時に批判されている相手側が持ち出している方策も一定の道理がある。こっちもあくまでも「一定の」であるだけ。どっちも道理があるんだけど、どっちも細部を見ているだけ。全体を見ることができている人間はいない。実際、どちらにもニーズに刺さっている部分と自己欺瞞な部分との両方がある。

まずこの状態には気づくのが難しい。双方強烈なバイアスの中で思考を進めている。そして、もっと問題になるのは仮にバイアスに気づいたところで、「立ち戻る」ことがめちゃくちゃ難しいこと。心理的ハードルが超高い。ある方向に加速し続けるエネルギー体に対し急ブレーキや急カーブをかけるような行為。めっちゃ難しい。止まれないの。

例えば否定的に捉えている相手の行為や思考に常日頃から批判的なメッセージを発しているとき、もし相手の思考や行為のなかで「同意できるもの」が出てきたときにどうするだろう。スルーするんじゃないだろうか、ましてや賞賛なんてしないだろう。同意しているときには黙っているだけ、でも批判する時は批判する。

アンフェアな態度だと言葉にすると分かりやすいけど、そのアンフェア性に気づいたり立ち向かえたりするほど一人の人間は強くない。加速する構造の中にあるとき、その加速からどう柔らかく逸脱するか。そういう前提で「自分自身」と「相手」の双方を捉えなきゃとも思う。誰かに起こっていることのようで思いっきり自分にも起こっていること。

メタ認知の大切さはよく語られる。個人としてのメタ認知も求めながら「集団的メタ認知」をどう実現していくか。そんなことが可能なのかどうか分からないけど、最近はそんなことを考える。

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