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誰かの本気を茶化すことで、未来の自分に呪いをかける

なんてコトがあるんだろうなぁと思うのです。いつの時代でも見かける光景だと思うんですけどね。本気になっている誰かの想いを茶化す行為。非常に美しくない光景です。

例えば今年一年で「茶化す」によって折れた想いを全部束ねたら、おそらく太陽系の外にまではみ出してしまうぐらいの想いが挫かれてるなんじゃないかなとか、ソレぐらい世の中には「茶化しによる挫き」が存在するんじゃないかと思うところ。

このテーマについてのもっともらしい反論としては「その程度で挫かれる想いなら最初から実現しない」みたいなモノがありますが、それはそもそも筋違い。

「茶化す」は否定ですらありません。正面から受け止めずにかわして笑いにしているだけ。まだ否定であれば正面から受け止めているとも言えますが、茶化すはソレすらしていない。

そもそも、アイデアとか創造って最初は弱いモノなんだと感じています。もしかしたら「本気」とすら言えない状態かもしれない。まだまだ願望って段階かもしれない。でも、それは間違いなく種なんです。

で、種の段階って本当に弱いんです。ちょっとしたことで挫かれてしまう。人間と同じですよね。赤ちゃんと同じ。だから、実は「創造」の最初の段階は大切に育てないといけないんです。

批判だなんだに晒すのは、ある程度育ったあとでいい。最初の段階で育てる意識を持っておかないと、どんな光る種も簡単に腐ってしまう。そう感じています。

社会全体で、そんな最初の段階で腐らせた種がどれぐらいあるんだろう?、もしその種が育ってたとしたらどんな社会になるんだろう?、もちろんその先で荒波に揉まれ、当たり前に淘汰もされるでしょう。

でも、最初の「弱い種」が育つ社会であれば今どんな社会になっているんだろう?、と普段から考えずにはいられません。


もう一つ、コッチの方がより大切にしてほしいかも。画像はコチラについてです。もう一度載せますね。

「茶化す」は自分に返ってくる


「茶化す」という行為は、茶化した本人の可能性すら摘んでしまう行為です。自分で自分の可能性を閉ざしていく行為です。だから、もし子どもがやってたら絶対に止めなきゃいけない。ましてや大人がソレをすることは看破しない。

だって、「いま本気になっている他人を茶化している自分」が仮に将来本気になれるモノに出会えたとしても、過去に他人の本気を茶化していた自分がソコに真正面から向き合えますかね?

「本気になった未来の自分」を「いまの自分が茶化す」、こんな構図だと思ってください。未来で本気になれるはずだった自分を、いまの自分が殺そうとしている。ソレぐらいのことだと思っておいた方が良いと思います。

同時に、本気の誰かを茶化すことはどんどん自分自身に「本気になること自体がくだらない」ことだと認識させていく作業でもあるのです。だって、正面から受け止めていませんからね。いなして、かわして、馬鹿にして、笑い者にするのが「茶化す」です。自分がそんな対象になりたいとは思わないでしょう。

誰かを茶化せば茶化すほど、自分自身が本気になることを拒む呪いをかけていく。実は本気になれたかもしれない自分すら、過去の自分がかけた呪いによって捨て去っていく、そんな負のスパイラルです。

だから、いまを生きる子どもたちに「茶化す」はしてほしくない。茶化された人がいれば勇気づける、茶化す人がいればそれは自分の可能性を潰すことだと正面から向き合う。そんな姿勢を大切にしたいと思うのです。

もちろん、自分がいつそんな行為に及んでしまうかという怖さもある。だから大いに自戒を含みます。


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