課題を可視化する手段が増えたが故に発生する閉塞感との戦い
05課題解決

課題を可視化する手段が増えたが故に発生する閉塞感との戦い

一昔前に比べて「何が課題なのか」といった文脈で物事を語ることが増えていると感じます。皆さんの周りではいかがでしょうか?

かく言う私は、BtoB企業の展示会出展戦略サポートを普段のシゴトの一つにしていることもあり、クライアントには口酸っぱく「課題解決型のアプローチ」が展示会においては効果的であることを伝えています。

デザインとは課題解決であるという21世紀の解釈、スタートアップの推進プロセスにおけるCustomor Problem Fit(想定した顧客の課題は本当に存在するのか?)といった問いかけ、世界的な課題に対する取り組みとも言えるSDGs。このように、私たちの周りには「課題」というワードにまつわる文化が形成されているようです。


①課題が可視化しやすくなった


一昔前は、これほどまでに「課題」というワードがクローズアップはされていなかったと思います。プロダクト中心の社会から、人間中心の社会へと変化を遂げようとしている社会のうねりがあったことが一つの要因であることは間違いないでしょう。

また、インターネットからはじまったSNSの隆盛やAI、ビッグデータなど、IT分野の進歩が「課題の可視化」を容易にしてきたという点も忘れてはいけません。

そう、私たちは一昔前と比べても「課題に気付きやすい」社会に生きていると言えるはず


②課題解決型のアプローチ


課題が可視化できるようになると、その解決に向けた道筋を立てることができるようになります。

「今まで気づいていなかったが、実は〇〇が課題だった」という気付きは、課題に悩まされる多くの人にとって、どの方向に進むべきかを決める羅針盤になり、解決に向けた推進力を生み出しています。

また、課題の可視化は、多くの人へ課題の共有も可能にしました。共有された課題は広く知られ、その大きなうねりを生み出すことも多々あります。例えば、「#MeToo」というハッシュタグによる運動は、課題を可視化し多くの人が共有できるようにした事例の一つと言えるのではないでしょうか。

個々の課題は、間違いなく以前よりも可視化しやすくなっていると感じます。その可視化が、解決への道筋を生み出す起点になっている現代は「課題解決型社会」とも言えるでしょう。このような潮流は非常に好ましいものであります。

一方で、私は「課題解決型社会」は良いことだ、という認識は持ちながらも言い知れない閉塞感のようなものも、同時に感じてしまっているのです。

タチが悪いのは自分のなかの前提として「良いことだ」という認識があるために、今まで感じていた「違和感」の言語化を避けていたということです。むしろ、違和感を覚えてしまうこと自体が「悪いことだ」という認識すらあったような気もします。

しかし、今日はその違和感を言語化してみたいと思い、キーボードを深夜にカチャカチャと叩いているのです。


③可視化された課題の氾濫と閉塞感


自分が「課題解決型」というワードを常に意識しているからでしょうか。私の身の周りに存在するメディアの類も、検索や表示が最適化されてしまっているのか、「誰かの課題」に触れることが非常に多いように感じます。

「課題」のみで終わっているパターンもあれば、その先の「課題解決アプローチ」について触れていることもありますが、いずれにしても私の周りの情報は「誰かの課題」だらけです。皆さんはどうでしょうか?

さて、それだけ「課題」という情報に触れる機会が増えてしまうと、何が起こるのか。

私は、課題の集合体がもたらす、世紀末感のようなイメージを社会全体に抱いてしまうことがあります。

もちろん、「常に」ではないですよ。そこまで後ろ向きに人生を送っているわけではありませんが(むしろ自分では幸せだと感じていますが)、しかしメディアに触れたときに課題の集合体による世紀末感を抱いてしまうのです。一種の妖怪大行進のようなものとして受け止めてしまうことがあるのです。

世の中には課題しか存在しない、どこを見ても解決すべき課題・課題・課題、まさに課題の氾濫。これだけ課題という情報のシャワーを浴びていると、どこか「社会が全く前進していない」という感覚すら受け取ってしまいます。

実際には、そんなことはないはずです。

もちろん、個々の課題に対する強い意識を持っている方であれば「解決されていない課題によって社会は前進どころか後退している」という認識である場合もあるでしょう。しかし、一昔前に比べてどうでしょう。本当に社会「全体」が後退していますか?

私は前進していると信じています。それは、課題解決型社会がもたらした、多くの人が課題に対して向き合い、その解決に邁進する営みが、時間の流れのなかで常に発生しているからです。

一昔前に比べて課題が可視化できるようになったが故に、新たな課題が社会問題として語られることもあるでしょう、しかし、その状態は既に僅かであっても前進している状態と言えませんか?

だから、社会全体というスケールでは「課題の可視化」によって、社会は前進していると言いたいのです。個々の課題についての不満が社会全体に対する評価になることは致し方ないかもしれませんが、それでも私は社会全体が前進していると信じたい。

しかし、「課題の集合体」は、そんな社会の前進感を打ち消してしまう。私は、打ち消されてしまっています。


④瞬間で捉えると、どんな状況にも課題は存在する


そもそも、どんなモノゴトであったとしても、ある瞬間を切り取って考えると必ず改善余地は存在するもの。つまり、課題とは時間軸で切り取る限り常に存在するものです。

何か一つの事業が100点満点中30点の現状であれば、そこには70点分の改善余地が存在する。これが100点満点のうち80点の現状であれば、20点分の改善余地が存在する。改善余地に幅はあれども、どちらの場合も「改善余地が存在する」という点においては同一です。

課題を可視化して伝達する際には、多くの場合「現時点」という時間軸で切り取り課題を捉えます。この場合、例えその事象が20点の状態であっても80点の場合であっても「課題が存在する」という論調になります。

そして、社会全体の流れとしては「課題解決型」に傾いている分、課題の存在を皆が必死に伝えようとします。そうすると、程度の差はあれども、あらゆる事象が「課題である」という論調で、情報の洪水となって襲い掛かってきてしまうのです。

それぞれの「課題の深刻度」については、よく調べてみないと分かりません。さらに、その課題が過去から現在に対して、どのように変化してきたのかという点は、調べてもよく分からないことも多いものです。


⑤課題の当事者にとっては、可視化することが最善の方策


私たちは課題の豪雨を浴びています。しかし、それに対して「やめてくれ」「イヤだ」という想いは抱きません。なぜなら、課題の可視化こそが解決に向けた最善の方策であり、当事者にとっては非常に重要なことであることも理解しているからです。

可視化できる課題が増えたからこそ、解決できる課題が増えているのは事実。だから、私たちは自身の良心に従い、その課題の豪雨も受け止めます。しかし、それは言い知れぬストレスや閉塞感のようなものとなって、私を覆っていることも事実です。

この状態は、疲弊感と麻痺を招くと危惧しています。

仕事やプライベートでも同じようなことが言えると思いますが、優先順位が付けられない状況に陥るとモチベーションを失い疲弊感を感じてしまいます。モチベーションを失ってしまうと、そこに継続性は無くなります。

また、どれもこれもが重要課題ということになると感覚に麻痺が起こり、課題を適切に受け止めることができなくもなります。

「課題が可視化できる」ようになったがために、逆に「持続可能性を失う」という事態を招いてしまうことが恐ろしい。これから先、さらに社会全体で「課題の可視化」は進むはずですから。


⑥「課題」だけでなく「変化」に向き合いたい


先に挙げたように、当事者にとっては「課題の可視化」が解決に向けた有効な手段であることは間違いありません。だから、当事者に対して「伝え方に気を付けろ」みたいな論調になってしまいたくはないのです。

そこで私は、メディアに可能性があるのではないかと感じているのです。

「課題が可視化しやすく」「課題で氾濫してしまう」社会に対応したメディアが、あってもよいのではないでしょうか。

これだけ情報過多な現代において「NEWS」は必要ないのかもしれないと感じることもあります。極論も極論なので、もちろん該当しないケースもあるでしょう。

が、ある時点を切り取る「NEWS」である限り、私たちに伝わるのは「課題」です。でも、「課題だけ」では疲弊感を招き、麻痺してしまうのです。

私がほしいものは「NEWS」よりも「CHANGE」です。そのなかでも、特に過去から現在における「前進」をピックアップしてほしい。

「前進」には色んな意味合いがあります。

文字通り「状況が改善している」というケースもあれば、「課題に気付けた」というケースもあるでしょう。これまで伝わらなかった状況が、ようやくピックアップされたというケースですら、捉えようによっては「前進」です。

このような過去から現在において「前進」したポイントをピックアップしたい、してほしい。

もしかすると、こんな反論がないでしょうか。

「良くなっている」という論調になると「それでいいじゃないか」と満足してしまって、それ以上の改善を図ろうという空気感を作ることができないのではないか、と。

この反論に対して、特に経験から語ることが出来るわけではないのですが、私は「そんなことない」と言いたいところです。人は根本的に欲深い生き物、状況が良くなれば「もっと良く」と思うことも当然。

また、「現状維持バイアス」という言葉で語られるように、動かない岩よりも動き出した岩の方が、同じ力でも大きく転がるものです。

「課題」という瞬間で切り取ると、それは動かない岩にしか見えません。しかし、「変化」で捉えると動き出した岩です。


⑦過去-現在-未来の3地点から、状況を捉える。


「課題」そのものの存在は、もちろん意識しなければいけません。しかし「課題」単体で捉えると閉塞感や麻痺を招いてしまう。だから、過去-現在の変化に目を向けて、前進感を獲得したいのです。

そして、「課題」は「こうありたい未来」と並列で語るのです。理想の未来像を語るからこそ、現実とのギャップが見えてくる、そこでようやく「課題」と解決するステップが見えるのでしょう。

そもそも「課題」そのものを語っていても、「課題を解決した先にある未来」を語っているケース自体が少ないように感じます。「理想像」を語ることは、現実を見ていない人間のような、ある種の罪であるような雰囲気すら感じることもあります。しかし、「理想像」が共有できるから、その「課題」を解決したいという力が生まれるのではないでしょうか。

課題を課題のまま伝えるメディアやNEWSはもう十分にあるので、お腹いっぱいです。私たちに飛び込んでくるすべての課題に対して意識を向けることは、最早不可能に近いでしょう。そして、その課題の奔流が逆に課題への麻痺を招いているのであれば本末転倒です。

課題に対して、過去-現在-未来の3地点を捉え、前進感の付与と理想像の共有をするメディア、そんなものが一つぐらいあってもよいのではないでしょうか。それはメディアと言えるのだろうかという点については、よく分かりませんので言及しないでおきます。


⑧おわりに


「課題が多い世の中だ」という認識は正しいでしょう。そして、課題の解決を図ろうとする行為は推し進められるべきものです。しかし、その課題の集合体が社会から持続可能性を奪ってしまうのであれば、私たちはそこに立ち向かわなければなりません。

私は、短絡的ですが「前向き」であることが持続可能性につながるのではないかと感じています。

特にここにエビデンスのようなモノがあるわけではありません。もしかすると、心理学者の立場では否定されるようなことかもしれません。しかしそれでも私は、前向きであることによる持続可能性を信じたいのです。

短期的な課題解決を図りたいのであれば、危機感を煽るという手法は有効です。しかし、危機感を煽る情報で氾濫している状況では、先に挙げたような麻痺も起こってしまうでしょう。だから、常に情報の伝え方は「良くなっているポイント」を探すという姿勢が大切でしょう。

「良くなっているポイントなんて存在しない」「むしろ悪化している」「このままでは最悪な事態を招く」といった状況だってあるでしょう。しかし、それも伝え方です。捉え方です。

そのような「事実に気付いた」「発信する機会を得た」ということを前進と捉えた発信であることが、その課題を「転がり始めた岩」として認識させることに繋がるのだと感じます。

繰り返しになりますが、私は本当に社会を前進させたいのであれば、そこに必要な情報の伝え方は「課題」という現在地点を切り取って伝えるのではなく、過去-現在における変化に目を向け、現在-未来に対する理想像とのギャップたる課題を捉えることが、私たちを前向きな意識に導きながらも課題に向き合う支えになるのではないかと感じています。

私たち、と表現すると卑怯ですね。「私は」です。

そして、ここで大きな役割を果たすことができるのが、新たなメディアのかたちなのではないかと妄想しているのです。

もし、そんな伝え方に特化したメディアが既に存在していて、私が知らないだけならゴメンナサイ、ひとえに私のリサーチ不足です。ぜひ教えていただきたいところです。おわり。

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たけうちのぶお|突破計画

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大阪在住、フリーランスのプランナー。屋号は突破計画。あなたをその場に押し留めるモノを突破したい。あり方を大切に、やり方に落とし込む。出来ること・アウトプットはHPを見てね → https://toppakeikaku.jimdofree.com