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【読書感想文】哲学と宗教全史

宗教と哲学全史、読み終わりました。

この本は要約できるような本じゃないですし、要約するようなモノでもないと思うので、ここからツラツラ語るのは要約じゃないです。刺激されて生まれた自分の思考ですね。

しかしよくもまぁ、ここまで整えたモンだと思いました。エラソーに言うことじゃないかもしれませんが素直に拍手です。もちろん一つ一つのテーマについての掘り下げはそれほど濃密ではないかもしれません。だって人類の辿ってきた道のりをたった460ページにまとめたモノだから。数ページで語られているテーマの中でも書籍にすると何百冊分以上のモノが世の中にあって、その何百倍もそのテーマに向き合った人たちがいるわけですからね。

この本の価値は「一つ一つの思想を知る」ということではなく、「世界の文脈を知る」にあるんだと思います。宗教の辿ってきた道のり、生まれ続ける新たな哲学、それぞれが与え合う影響、これらが生み出した「文脈」によって今の社会が生まれている。そして今の時代もまた、次の時代につなぐための文脈を生み出している。そう感じるのです。

もちろんこの本が一人の人間の「解釈」以上のものではないことは前提として持っておかなきゃダメだとは思いますよ。「その解釈は変じゃないか」って部分もまた別の人から見ればたくさんあると思います。だからコレは筆者の文脈を自分が受け取ったもの。そのまま受け取り続けるかアップデートするかは自分のこれからの学びの中で選べばいい。と、そんな要素はありながらも、それ以上に「文脈として捉える」体験をするこの本が面白いなぁと感じたのです。


最近、「文脈」に対する意識を強く持つようになりました。

個人の文脈、集団の文脈、社会の文脈。いまここに至るまでに、何があって、どんな選択をしてきたのか、その積み重ねが文脈です。

過去の文脈を知ろうとすること、その先に未来をつなぐ「いまのあり方」があると感じるのです。時に文脈を無視することだって切り捨てることだってあるのかもしれません。でもそれは文脈を知ったうえですることだと思うのです。文脈を知らずに未来を思い描くと強烈なハレーションが起こる。個人の人生では心と体が分離するような状態になるし、社会においては対立と分断が生まれる。だから、「文脈」を知ろうとすることの大切さを今まで以上に感じるようになったんですよね。

背景がある。背景には文脈がある。だから世界のどこかと自分たちの住むこの現状を単純比較はできない。それはメチャクチャ近くの関係性でもある家族でも同じ。一人一人、背景があり文脈がある。言葉にすると当たり前でしかないコトなんですが、でも僕たちはついつい自分の背景・自分の文脈で世界を切り取ろうとしてしまう。だから理解することが必要なんだと思うんですよね。


ここ2年ぐらいの自分の興味の移り変わりがメチャクチャ面白いです。

キッカケは完全にジブンの『あり方』Englishというワークショップを作ったことでしょう。「英語思考」と「日本語思考」を往復することで、全く違う気づきが自分に生まれる体験ができる。ある意味でこのワークショップは他者の文化や文脈を借りてきて、自分の持つ文脈と文化と往復する中で、異なる自分の解釈を見つける体験と言えるのかもしれません。


ワークショップを作ったことで、自分の興味はまた違う方向に進み始めました。こんな現象を起こす「英語思考」を生み出した文化的な背景は何なのか。なぜ同じ地球上に住んでいるのに、世界の認識方法がまったく異なるのか。言語が変われば世界の認識方法が変わるんです。この「世界」を「自分」に向けて活用しているのがジブンの『あり方』Englishとも言えるでしょう。

で、そんな英語思考を生み出した文化的な背景は何なのかってテーマに興味が移りだすんですよね。文化人類学の領域、そこをさらに掘り下げる言語人類学の領域、この辺りに興味を持ち始めます。あー、大学のときに隣の学部で文化人類学の講義やってたなー、ってか自分も受講していたなー、もっとちゃんと請けとけばよかったなーとか思ったんですが、まぁ当時の自分の文脈には無かった領域だったんでしょう。いまだから興味を持っているんです。

文化を知ろうと思うと、文化に深く根ざした宗教を知らずにはいられない。文化を生み出すのに宗教を知ることは避けて通れないなぁとも思ったのです。


話題が逸れちゃうんですが、企業活動で掲げる「Mission/Vision/Value」って日本人に理解しにくい概念だなぁーと思ってるんですよね。特に「Mission」が何のことか分からない。日本語に訳すると「使命」とか「存在意義」とか言われたりもするんですが、「いつを指す言葉なのか」が人によって解釈バラバラなんですよね。特に「大いなるゴール」みたいに捉えちゃうと扱いが難しくなるなぁと感じています。

僕は「Mission」って一神教的な世界観で生まれた言葉だと理解しているんですよね。語源はラテン語の「mittere(ミッテレ)」という「送る」という意味の言葉だったようです。このこの表現が「神の言葉を送り届ける」という意味で使われるようになり、キリスト教の宣教行為やその団体を指すようになったと聞いています。

Missionって「神から与えられた使命」であり「神に誓う使命」でもある。これは一神教的な世界観で自然と為されている行為なのかなと感じるのです。対して日本はどうかと言えば言わずもがなの多神教的な文化、八百万の神。神道と仏教の境界線も曖昧な状態でここまできています。これが僕たちの持つ文脈。

なので、異なる文化・文脈のもとに生まれた言葉を、シンプルに自分たちに持ち込んでも腹の底から理解はできないと思うんですよね。腹落ちしない、腑に落ちない。言葉としてMissionを使命・存在意義といったモノと理解しても、それは異なる文化・文脈で生まれた言葉だから、そこも踏まえて理解しないと腹落ちしないんです。Mission/Vision/Valueをうまく落とし込めていない組織が多いのは、そんな背景があるからかな?と妄想してます。これは妄想ですよ。笑


はい、話題を戻します。

世界の文脈を知っていこうとするにあたり、文化や宗教に強く惹かれたんですよね。で、そこと影響し合う哲学も同じように惹かれるテーマだったワケです。

ただ、知識も何もない、30代中盤を過ぎてからようやく「学ぶこと」の面白さに気づきはじめたクソメガネは知識も何もないワケです。なので、この「哲学と宗教全史」はおあつらえ向きな本だったのですよ。もちろんこの本が一人の人間の「解釈」以上のものではないことを前提にしたとしてもね。

読めば読むほど、文脈を意識するようになりました。世界が「いまここ」に至る文脈がほんの僅かですが見えてくるような気になりました。

まぁ、自分に「そう捉えたいバイアス」があることは否定しませんよ。「あるんだと思いたい自分がいる」ことを一つの事実として受け止めることは必要でしょう。もしかしたらこの思考を人生のどこかで反省するタイミングが来るかもしれない。でもそれは今じゃない、今はこの思考でいいのかなと思うんですよね。


さて、この本は「哲学と宗教」というテーマから世界を切り取ったモノです。つまり、「哲学」や「宗教」は独立したものではなく、繋がっているモノだということも読んでいくと感じとることができます。

しかしです。「それだけじゃない」にも当たり前に気づくんですよね。

「哲学」と「宗教」のほか、ここに現れていない他の要素とも繋がっているなぁと気づくのです。

「政治」もそうだろうし、「文化」もそうだと思います。細かい話で言えば「心理学」も哲学の文脈から社会の中に登場したものなのかなとも感じました。

「哲学」という切り取り方

「宗教」という切り取り方

独立した一つの領域と思われていますが、実は他の領域と「グラデーション」でつながっている。「哲学」や「宗教」という言葉で線を引いたから、一つのカテゴリとして認識される。そんな感覚を受けているんですよね。


「グラデーション」

コレも最近の自分のテーマの一つです。

男性と女性の間はグラデーション。

大人と子供の間はグラデーション。

この間にどんな線を引くか、ホントは全部地続きなんだと思うんですよね。

誰かがどこかで引いた線のうえで認識しているだけ。この「線引き」そのものがダメだと言いたいわけではありません。線をひくことは認識の世界をつくる。僕たちが認識しやすいモノに変えてくれる。

線の引き方を変えていくことは、新しい気づきを生む。価値観・行動原理を変えていく。線を完全に無くすと、世界を認識できなくなる。だけど、いま引いている線を動かしてみたり、薄くしたりすることはできる。線の存在に気づき、線の存在を自由に捉えてみること、ココを大切にしたいなと思うのです。(だからこそ「学際的に学ぶ」みたいな考え方が大切になる。)


で、線の引き方をアップデートするにあたっては文脈をどう踏まえるかを大切にしなきゃなぁってところに戻ってくるのです。

文脈を知る。いまがどんな文脈の上に築かれてきた世界なのかを知る。それぞれの時代に生きる人は、その文脈を更新しようとトライする。つまりグラデーションな世界観に従来引かれていた線の引き方をアップデートしようとしているわけです。

当事者にとっては、前時代的な価値観が受け容れられなくなる故の行動も多いと思うんですよね。既存の世界に否定を向けて自分の新しい世界観を実現しようとする行為でもある。でもこれは世界の文脈から捉えれば前時代があったがゆえの次世代なんでしょう。否定に否定を重ねて次の時代に至っているわけではなく、大きな文脈の中で線の引き方をアップデートしながら今に至り、次に至ろうとしている。

僕の場合、文脈を知れば知るほど「次」を意識するようになってきました。100年後の未来にはあまり興味がなく、30年後の未来にとても興味があるのです。それは歴史の大きな文脈を知ったからこそ、次に受け継ぐバトンが何なのかを必死で考えたいと思うがゆえなのかなとも思います。

「次世代のために」、「子どもたちのために」といったフレーズは当たり前に世の中に存在します。その想いはみんな本物であり、本気の産物だと思います。ですが、ここに「文脈の理解」が乗ると、さらにその想いの向け方が変わってくるような気がするのです。僕の場合は、自分が大きな文脈の中にある一人だと意識するからこそ、より「ならば次の世代は?」を考えるようになりました。何を自分が次に手渡すのか、次をすごく考えるようになったんです。

もちろん人の一生は短く、学ぶ時間も多くあるわけではない。全ての文脈を理解し尽くすなんてことはできるワケがない。でも、それでも知ろうとしたいんですよね。どこまで知ればいいのかは分かりませんが、知ろうとすることはやめない。それが過去と未来をつなぐ「いまのあり方」になるから。と、そんなコトを感じたのです。なかなか面白い時間でした。


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