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複数の認識を同時に抱えることはできない【ルビンの壺】

この画像を見たことがない人はいないのでは?というぐらい有名な「ルビンの壺」、見方によって人に見えたり壺に見えたりというアレです。

ルビンの壺。人に見えたり壺に見えたり。

この画像はたまに、物事の多面性や見方によって解釈が変わるモノの分かりやすい事例として使われることがあります。人に見えるか、壺に見えるか。両方の見方を往復して気づきを得ることが大切だよという主張をわかりやすく伝えてくれるモノです。

でも、「ルビンの壺」は物事の多様性を理解するプロセスで発生する「大きなハードル」も内包しています。

それは「一つの見方をしているとき、別の角度からの見方はできない」ということ。「両方を同時に見ることはできない」ことが、実は多面性を語るときには見過ごされがちだったりするんですよね。

実際、このルビンの壺で試してみてください。人に見えるか、壺に見えるか、これが人も壺も同時に見えることはないと思います。どちらかにしか見えないんです。片方の見方をしているときに、もう片方の見方は消え失せる。僕らの認識の特徴ですね。

で、多面性を語ったり見方によって解釈が変わることを語るときに、実際に双方の立場を「実感レベルで見ようとしているか」は大きな違いです。ルビンの壺は視覚に影響するモノだからその切り替わりは一瞬です。しかし、多面性を語ったりするようなときに扱うテーマは抽象的であり、分かりやすいカタチをしているとは限りません。

多面性を語るときに「知識レベル」では自分の見方とは別の見方が存在することを「理解すること」はできるでしょう。でもそれは理解しているだけで実感しているわけではない。そして、実感しないで理解だけしている状態とは「多面的に見る」がそもそも成立していないのです。

ルビンの壺を見たときに人に見えると思っている人が、知識として「この図は壺にも見える」と知っているだけの状態であることだと思ってください。「壺」に見えることは知っていながら、自分の見方は未だ「人」の状態にとどまっている。そんな感覚です。

本当に多面的に見るのであれば認識自体をシフトしないといけない。そして、認識をシフトするとは「今自分が見ているモノの見方」を一時的にでも手放すことでもあります。

と、ここまで語るとそれが容易ならざることはよく分かると思います。物事を多面的に見る、言葉にすればめちゃくちゃ簡単なのですが、認識と実感のレベルで「多面的に見る」をしようと思えば、そう容易ではない。自分自身の固定化されたモノの見方に対する挑戦でもあるのです。

だからそれに挑み続ける。そこに自分が到達できていないことに自覚的でありながら、認知を反復横跳びさせようとトライする。決して反復横跳びの片方には足が届かないのかもしれないけど、片方から足が離れないのかもしれないけど、それをしようと模索し続ける。

その先に、世界やモノの見方の超拡大があると思うからです。

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