今、まさに学校に必要なこと

学校は今、本当の危機を迎えているのかもしれない。
私がこのように考えるようになったのは、きっと自分が管理職になり、自分の立場が全体を支えるようになったから。
それまでは、学級のことを解決することが至上命題で、研究開発や学校行事があっても結局は学級をなんとかすることを求められてきました。

そんな私が最近、「あぁ、本当に学校は危機なのかもしれない」と感じるようになったのは、自分が管理職となったある日、突然「私はもう辞めます」と辞職を告げられたことである。
この辞職劇は、7月の頭から始まった。
急遽、教育委員会に掛け合うも出てくる返事は次の通り。
「代理の方は出せません」
「学校現場で対応してください」
これはどういうことなのか。
結局、当時学級を担当できるのが私しかいなかったこともあり、私が担任を代理した。
こうなると多くのことが歪んでくる。
何よりも「誰かが休みます」ということを許容できなくなってくる。
この年は、結局8月から3月までの半年超を担任代理として務めた。
子どもたちとの関わりは楽しく。
私は教師として良い経験を積むことができたと感じてはいる。
だが、その間、周囲は私が動けないところを懸命にカバーしてくれていたに違いない。

そして今年も同じようなことが起こる。
今度は、2名が長期で休業する。
こうなると私の職場では、もはや学級担任ではない人は校長だけとなる。
状況は一刻も猶予がない。
何せ、授業は進めないといけない。
学校行事は進めないといけない。
で、職員だって人間である。
家族が具合が悪くなったり、自分自身が調子が悪くなったりもする。
そもそも「年休」はその人が自由に休むことを保障する制度なのにそれを行使できない。
私は、担任代理をするにあたり、まず、自分自身への出張を可能な限りキャンセルすることにした。
学校外へ出て、何かあった時の対応を任せられる状況にないからだ。
そして、職員には出張がある。
外へ出ていくのに、私は2つのクラスを同時に授業する方法を編み出すことに迫られる。

このような生活をしばらくして思ったことがある。
なぜ、このように休むことすら許容されない職場環境になっているのか。
もちろん、体調や心身の不調により休むことは必要である。
休むべきだ。
だが、その人を安心して休ませられるための制度がないことが問題なのである。
そして、代理の業務を担う人間にはなんの見返りも対価もないことも問題である。
これは、休んでいる人の給与についてとやかくいうものではない。
教育委員会や行政が雇っている一人の人間に二人分の業務をさせているにも関わらず、給与やその後の職員としての人生になんら良い結果が身についていかないことである。無論、良い職場環境に配属される優秀な方は別である。
そういう方は、こうした危機を感じることなく働くことができるだろう。
だが、もしかしたら大半の方はこうした危機を感じながら働いているのではないだろうか。
だとしたら、なぜ、もっと改善を訴えてこなかったのだろうか。

私は、これまでの経験から学校が直面する危機として次のことが挙げられると考えている。
1 教師がますます確保されなくなる現実
2 教師がますます現場から去っていく現実
3 現在就業している教師がますます自分の業務にばかり固執してしまう現実
4 何かしらの不調を訴えた職員が一人でも出たら全体のバランスがもはや保てなくなる現実
5 こうした状態をマネージメントすることができない管理職の増加
6 校内での問題行動の増加

こうした危機的状況はスパイラル的なのか、もっとドラスティックに展開して、状況を悪化させていくことは間違いない。
もし、今持ちこたえている人が倒れたらどうするのだろう。
次の手は出るのだろうか。
きっと出ない。
そうなれば、学校を支える屋台骨が揺らぐ。

今、学校はいわゆる学習する場としてのみではなく多くの社会的責任を担っている。
それは、
・社会的な学びをする場
・栄養を補給する場
・自らのメタ認知を進める場
・保育施設としての場
これができなくなる。
現実としてできない。こうなった場合、どんなバックアッププランを行政担当者は考えているのだろうか。
どんなに大学生を補充しようが、鍛えられた教職員がいなくなれば烏合の衆である。子どもと遊んであげることができても、すぐに飽きられてしまう。マネージメントをすることが必要だからだ。

しかし、文科省や各都道府県から出る教員へのサポート案は、
・事務的な作業を担う職員の配置
・大学生の早めの採用試験実施
この程度である。
これで本当に今の状況を改善できると考えていることにため息がつく。

今すぐ、本当に必要なのは、どんな状況にも対応できる鍛えられた教員なのである。
それを働き方改革の誤謬で自分のことしかしなくなった、とっとと帰る教員を育成し、何もできない大学生を早々に補充したところで、結局は、どんどん辞めていくのが関の山である。

今こそ、私たち教師に求められているのはこうした状況を行政に適切に訴え、現実を広く社会に正しく伝えることではないだろうか。
その上で、着実に鍛えられた教師を育成するとともに、自分自身が鍛えられた教師へと成長することではないだろうか。

教育という仕事は奥深いものである。
今は、その奥が全くない。
ただ、今をどう乗り切るかしかない。
その今を本当に見つめ直し、闘うことこそが、今、教育の現場に求められていることではないだろうか。

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