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歴史を学ぶ

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#軍事学

論文紹介 戦争の複雑性とマーケット・ガーデン作戦の敗因

軍事学の研究では戦争の結果は完全な予測が不可能であり、複雑性に富んだ現象であると考えます…

複数国が参加する連合作戦は外交交渉と不可分の関係にある:1943年のカサブランカ会談…

1943年1月14日、フランス領モロッコで開催されたカサブランカ会談は、第二次世界大戦で同盟関…

論文紹介 1970年代に米国で生み出された軍備競争の戦略思想

戦略研究者アンドリュー・マーシャルは、ランド研究所で勤務していた1972年にアメリカがソ連に…

宇宙領域の冷戦史『世界史を動かすスパイ衛星』(1990)の紹介

1992年9月、アメリカ国防総省は初めて国家偵察局(National Reconnaissance Office)の存在を…

メモ 訓練と経験が部隊の戦闘力に及ぼす影響:ラ・エ・デュ・ピュイの戦闘(1944)

1944年7月3日、北フランスのノルマンディー地方に上陸し、内陸方面に向かって前進を開始したア…

宇宙開発の政治史を記述した先駆的研究The Heavens and the Earth(1985)の紹介

1957年にソ連が打ち上げた人工衛星スプートニク1号はその後の国際政治の展開に大きな影響を及…

第一次世界大戦におけるフランス軍の戦略と作戦を分析したPyrrhic Victory(2008)の紹介

第一次世界大戦(1914~1918)でフランスは西部戦線の作戦で中心的な役割を果たしました。フランス軍が戦場に送り出した兵の数は841万名に上り、そのうちの138万名が命を落としました。Robert A. Doughty氏の『ピュロスの勝利(Pyrrhic Victory)』(2008)は陸上戦を中心にフランス軍の戦略と作戦の変遷を記述した研究成果です。 Doughty, R. A. (2008). Pyrrhic Victory: French Strategy and

論文紹介 19世紀の長い平和の後で英国海軍の戦術能力が大きく低下した理由

イギリス海軍はナポレオン戦争(1804~1815)を通じて数多くの戦闘に参加し、その能力の限界に…

メモ 1967年の第三次中東戦争でイスラエルが実施した空軍による奇襲

イスラエルは建国当初から周辺諸国と対立してきましたが、国土が狭隘であったために、軍事態勢…

論文紹介 朝鮮戦争とベトナム戦争で米軍が消耗戦を選んだ理由は何か?

消耗戦(attrition warfare)が望ましくないもの、非合理なものと見なされることが多い主な理…

資料紹介 湾岸戦争で米軍の兵站家が指摘した作戦兵站の課題は何か?

1990年にイラクがクウェートに侵攻し、湾岸戦争が始まったとき、アメリカ陸軍軍人ウィリアム・…

論文紹介 80年代の日本で提案された北方前方防衛態勢はどのような戦略構想だったのか…

1979年12月、ソビエトはアフガニスタンに侵攻し、これを軍事占領したことによって、対米関係を…

論文紹介 1980年代の中東情勢と米軍の対ソ戦略に対するウォルツの考察

1979年9月1日、アメリカ上院外交委員会では中東地域に配備する新しい部隊として即応展開部隊(…

第四次中東戦争を通じて米海軍が見直した空母機動部隊の戦術運用

1941年から1945年まで続いた太平洋戦争を通じて、アメリカ海軍は空母を中心に編成された機動部隊の軍事的な重要性を深く認識するようになりました。しかし、第二次世界大戦が終わってからは、アメリカ海軍に空母機動部隊で対抗できる国家は見当たらなくなっていました。アメリカ海軍は潜水艦発射弾道ミサイルとそれを搭載した原子力潜水艦から成り立つ核戦力を重視するようになり、空母打撃部隊の運用に対する関心は低下していきました(Rubel 2014: 68)。 しかし、1973年の第四次中東