シベリアの空に響いた五百人の歌声
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シベリアの空に響いた五百人の歌声

TAKETOMO

はじめに

祖父がシベリアに抑留された記憶を晩年掘り起こした手記がある。シベリアの捕虜生活から生きて帰ってきた祖父は、戦争の記憶は語らなかった。しかし晩年になり、記憶を紙に書き出し始める。その手記は人間のきれいな部分だけではなく、人間の見たくない姿を描いていた。
※2022年5月9日に《Amazon.co.jp》の「kindle」にて出版をしました。
 kindleをご利用の方は、ぜひご覧ください。
37坑道 シベリヤ物語2: シベリアの空に響いた500人の歌声 (Shibahama) | 滝沢宗三郎, 滝沢茜, 田中健友, 田中すみ子 | 歴史・地理 | Kindleストア | Amazon

1 白夜

「明日も天気だ」
作業を終わった私達は、ホッとした表情で夕焼けの空を仰いだ。シベリアに来てから、かれこれ、もう半年になろうとしていた。
 ソ連の方からは、一向に帰国命令が出なかった。千島からシベリアに抑留される条件として、半年たてば日本に帰すということだった。私達は、その言葉を信じていたのである。
 しかし、余りにも相手を信じ過ぎた根性のよさ、馬鹿さ加減が恨まれた。
 ソ連兵の警備下にあって、私達日本軍捕虜達は、コルホーズ(国営農場)で働いていた。ラーゲル(収容所)と、このコルホーズの間を通うのである。約二キロの道のりである。
 大陸の夏は昼間が暑く、夜になると気温が下がる。しかも白夜が長い。夕食を済ませても、これと言ってやることがない。白夜は、十時頃まで続く。気温も夜になってグンと下がってくる。ソ連側に部屋の窓に張る暗幕を手配して貰うように依頼したのだが、それもまだできていない。
 外が明るいうちは、いくら疲れていても、なかなか眠れない。
 唯一できることは、語り合うことだけである。祖国での思い出話、満州斐徳時代のことや北千島の出来事等、話したいことは山ほどある。だが、それも話の合う者がいなければ、できない。中には器用な者がいて、手製の将棋や碁で夜の更けるまで遊び通すこともあったが、それは、まれであった。
 たとえ明るくても、寝ないわけにはいかない。十時消灯である。
 あるとき、二人のソ連兵士が巡察にやってきた。若い兵士と老兵だった。
「ヤポンスキー(日本兵)ベストラ、スパーチ(早く寝ろ)」
 若い兵士が大声で言った。
「ハラショ(よおし)」
と、誰かが言った。皆がどっと笑った。
「チュオ、スミヨーシ(何で笑った)」
 若い兵士が皆をにらんだ。一瞬、皆は静かになった。
 若い兵士は、ペッとつばを床板にはきつけて、老兵をうながすように部屋を出ていった。
「ワーッハハハハ」
 せきを切って流れ出したように、どよめきのような笑い声が夜の静けさに響いた。

2 藤井貢という男

 巡察の兵士達と入れ違いに、兵舎の責任者(管理人)である藤井貢が、メガホンを口に「消灯、消灯」と怒鳴った。彼のことは皆は「俳優さん」と呼んでいる。「藤井貢」という映画俳優と同姓同名だからだ。
 彼の出身地は不明だった。彼の口からは何も聞いていない。ただ、聞いたことは、陸軍伍長であるということだけだが、もちろん自称である。
 彼は早くから、収容所内に民主運動を起こそうとしていた。ハバロフスクの日本新聞主幹である諸戸文夫(ソ連の外相モロトフをもじってペンネームにしたらしい。正体不明の人物である)と一緒に藤井は、収容所長のマイヨルマルチェンコ(マルチェンコ少佐)を通して、親しくなり、アルチョム第十二収容所を民主化(赤化)しようとくわだて、収容所内で数名の者をチェックし、大体的に実行することを計画していた。その噂も八分通り事実とのことだった。
 そんな彼だから、かなりの権力を持っていた。少しでも彼に逆らう態度をとると、すぐソ連の目付役であるKBUに報告される。ソ連の巡察よりもこわい存在であった。
 しかし、彼はなかなか頭のよい人物である。また、名前が同じだけではなく、本人も役者なみの美男子であり、演劇を得意としていた。
 権力のある人物とは思えぬほど平素は温和な紳士であった彼は、人望があり、私達のマスコット的存在であった。
 それ以上に、ソ連側の将兵達と、とくに所長から目をかけられていた。軍人精神の充実している彼は、ソ連の人達から重宝がられていた。戦争に負けても、こうしたキビキビした人がいる。
 所長のマルチェンコは、「フジーイ、フジーイ」と、まるで自分の弟か息子のように思っているようだった。事実はそれほどではなかったのかもしれないが、私達の目には、そう映っていた。
「ソ連の手先だ」「民主主義を吹き込まれている」などと、彼のことを悪く言う者もいた。藤井は、陰口や悪口を言われても平然としていた。心の中で、「お前ら、何言ってんだ。俺には、ソ連さんという強い味方がいるんだぞ」とでも言っているかのように見えた。
 藤井貢は、メガホンで消灯を連呼していたが、しばらくして管理室に戻っていった。

 やがて、白夜も終わり、部屋の電灯も消され、真っ暗闇が訪れた。
 六月というのに、夜はかなり気温が下がる。各部屋のペチカが、真夜中に不審者によって点火された。部屋の温度は、十五度から十八度位に保たれる。
 万年床のワラ布団に毛布一枚。それでも眠るのには差し支えなかった。ただ困ったことには、南京虫の出現である。昼間は、柱や窓辺のくぼみや穴の中にひそんでいて、暗くなったり暖かくなると、のこのこ現れ、人間様の体のいたるところを歩きまわり吸血する。南京虫に吸われたあとには必ず二つの赤い印がつく。南京虫にやられたことがはっきりとわかる。
 その他にも、いやな虫が私達と同居していた。シラミである。
 南京虫もシラミも、満州にいた頃からの親友(?)であるが、遠くシベリアまで来ても彼等との縁は切れなかったのである。ガリガリと掻いた後は、赤くなったり出血したり化膿したりした。それが元で熱を出して寝込んで、作業を休み者も少なくなかった。
 巡察に来た兵士に、だれだったか、こんなことを言って叱られたことがあった。
「ソ連は戦争に勝ったと言って威張っているけど、南京虫やシラミを退治する薬はないのか?」
 その質問に対し、兵士は顔を赤くしておこりながら、こう言った。
「チベ(お前)は、そう言うけど、日本にもないだろう。シラミは前からいただろう。俺は知ってる」
 そう言って、銃床で文句を言った日本兵を張り飛ばした。

「起床、起床」
 再び、メガホンが鳴った。
 藤井貢の声だ。午前六時である。
 日本兵捕虜は、時計を持っていない。ソ連兵士に取られたり、黒パンと交換したりした。中には、時計の上から越中フンドシで作った包帯を巻いて、怪我をしたように見せている者もいたが、その者達も、しつこいソ連の兵士や地方のコルホーズで働く人達に発見され、無理やり取られた者もいて、全部といっていい位、日本人捕虜達の腕時計は消えていた。
 さすがの藤井貢も時計を持っていなかった。時刻は巡察衛兵の控え室にある大きな古ぼけた柱時計も、満州から持って来たものだ。メードインジャパンと書いてあると、藤井がぽつんと誰かに言っていたと聞いた。
 戦争に勝ったというものの、ソ連の国民は腕時計を持っていなかったのである。
 藤井貢は、二人の使役を使って、各部屋の掃除をすることが、任務の一つでもあった。もちろん彼は監督で、バルノイ(病気や怪我で外部作業に出られない者)を使うのである。
 マルチェンコ少佐夫人ナターシャが、藤井貢達三人にお茶を出す側になっていた。お茶といっても、コーヒーか紅茶である。
 夫人がお茶を出すのに、もう一つの目的があった。夫のマルチェンコ少佐に依頼されて、藤井貢に共産主義の話をするのだった。軍国主義調の藤井貢もマルチェンコ夫人の説得力のある講義に、知らず知らずに洗脳されていくようだった。
「ナターシャさんは、なかなかクラシブイ(美しい)」
と藤井貢は彼女をほめることを忘れなかった。
 八月を過ぎた頃、藤井貢はいよいよ収容所内の民主運動を展開する決意をし、仲間を探した。その第一のターゲットとして、思い浮かべたのが、大川三郎だった。大川三郎は、私達と同じく千島から来た一人である。
 大川三郎は、作業から帰ると早々に食事を済ませ、ワラ布団の上に横たわった。ウトウトした頃だった。誰かに起こされたような気がして目をさますと、そこに藤井貢が立っていた。
「大川さん、お休みのところ悪いけど、俺の部屋に来てくれない?」
 藤井貢は、笑いながら言った。大川三郎は、疑うこともなく行くことを承知した。
 藤井貢の部屋には、ナターシャ夫人がいた。
「ズドラスチェ」
夫人は立ち上がると、大川三郎の手を握った。
「……ズラスチ」
大川三郎は少し間をおいて言葉を出した。青い瞳と金髪に魅せられて、ぼんやりしていたのかもしれない。
「まあ、かけたまえ」
 藤井貢は大川三郎に席につくよう進めた。

3 千島で迎えた終戦の日

 この辺で、私達のルーツを探ってみよう。
 昭和二十年八月十五日、あのいまわしい「大東亜戦争」が終わった日である。しかし、終戦といっても、大日本帝国が、がれきのように崩れ去った日なのである。たとえ負けようと、戦争が終わったと思うとホッとするのだった。私一人でなく、多くの人達がそう思ったに違いない。だが、我が千島占守島(シュムシュ島)においては、終戦を喜んでいられなかった。
 第九十二師団長堤扶佐貴(ツツミフサキ)中将からの達しで、ソ連軍の上陸作戦があるから、全軍気をゆるめることもなく、対戦準備するべしと、各連隊や独歩大戦に無線指令が出されていた。

 同月十八日真夜中、予想に違わず、ソ連の進駐である。太鼓のなるような艦砲射撃である。師団命令は、ただちに島内の杉本旅団、佐藤旅団に発令された。
 杉本旅団配下の我が戦軍第十一連隊長・池田大佐(当時中佐)は、各地区に点在して駐屯
している中隊長あての無線を打った。各中隊は、すみやかに四嶺山に集合、そんな内容だっ
 しかし、予定よりも集合が遅れた。
「戦争が終わった今、何で戦争しなければならんのだ」
「本国と同じく、投降した方がいい」
「いや、たとえ犬死であっても、日本軍いまだ健全なりをソ連軍にしめしてやろう」
 など、各中隊長の間でいろいろな意見が出ていた。
 私の属する中隊は、幹部のほとんどが反戦投降を主張した。これ以上、戦争を続けること
は、天皇陛下の御心にそむくことになる。無駄に命を落とすことはない。生きて帰れるもの
なら生き長らえ、御国のためになろう。それが、私の属する中隊長をはじめ、幹部達の意見
だった。
 一方、ある中隊では、あくまでもソ連と戦い玉砕もしかず、と張り切る。
 そんな意見の食い違いがあって、集合が遅れたのであるが、結局、我が中隊長はソ連と戦
うことになったのである。
 戦闘は三日位続いた。
 その頃から、軍使をソ連側に送り出した。ソ連軍からの強い要請があったのか、本国からの指令があったのか不明であるが、とにかく停戦協定を結ばなければ、泥沼にもぐりこみそうな状態だった。
 交戦を続けるか、全面降伏か、戦いながらも二つの意見がこもごもだった。
 一方、ソ連軍は、日本軍何者ぞと甘く見てかかったらしく、日本軍のあまりにも頑強なのに、予測を裏切られていた。だから、ソ連軍としても一時も早く平和解決をしたかったのだ。
(このことは、後日、ソ連軍指令ウラジーミル大佐がポッンともらしたことで知られたのである。)
 第一回、第二回目の軍使が、白旗をかかげて敵陣に向かったが、そのまま捕らえられたようである。
 第三回目の軍使に、佐渡出身の古沢薫中尉が単身出かけたが、銃殺されてしまった。相手の条件を呑まなかったのが原因らしい。
 第四回目の軍使は、第九十二師団参謀長・水津少佐であった。全面的に彼等の条件を飲み込んだようである。数日後、日本軍の武装解除が行なわれることになった。
 武装解除が行なわれる場所は、三好野飛行場が選ばれた。これは、地理的に最もよいということから、ソ連軍と日本軍の合意で決まったのである。
 その日は、ソボソボと雨が降っていた。日本軍をあわれむように⋯⋯⋯。
 銃剣銃砲はもちろん、金属製の刃物や箸まで提出しなければならない。武装解除は綿密に
行なわれていた。日本軍に唯一許されたのは、帯剣を除いた帯かく(タイカク=バンド)だけだった。丸腰である。
 飛行場の周囲の小高い丘を見回すと、機関銃の銃口が今にも火ぶたを切ろうかと思うほど、不気味にこちらをにらんでいる。バババーンとやられたら、ハイそれまでよ。殺されてもしかたのない状態なのであった。
「先立つ不幸をお許しください」
 私は心の中でそうつぶやくと、祖国に向かって黙礼した。私だけじゃない。皆もそんな風情だった。
 武装解除から一週間はたった。
 命はまだ続いていた。命が続いた替わりに、その頃から激しい作業が始まった。日本軍の
兵器や食糧の搬出である。
 戦車や兵器はすべて、カムチャッカに移送することになった。無傷で残った戦車四十輛、自動貨車二十台、山砲(高田山砲隊一個小隊分)三門。その他、機関銃、小銃、手榴弾等多数をソ連輸送船スターリン・グラード号に積み込み、戦車と自動貨物の操縦士も一緒にカムチャッカの指令部のある町まで同行、船積みから陸揚げ等の作業をしたのである。
 私も仲間達と戦車操縦のため、カムチャッカ行きとなった。
 指令部のある小さな町を市内行進(?)。砲塔では、拳銃を握ったソ連軍将校が、銃口を私のヘルメットに当てていた。何かの弾みで発砲するかもしれない危険な状態だったが、無事、戦車を指令部の車庫に納めることができた。

4 ペーチカの赤い炎

 作業終了後、皆は指令部の一室に通された。
 ペーチカの赤い炎が、部屋中を暖めていた。粗末な板でできたテーブルに丼が置かれ、なにかが盛られていた。丼から湯気が上がっていた。
千島から同行したソ連軍将校達は笑顔で、
「日本軍兵士よ、ごくろうさん。ありがとう(ヤポンスキー、サルダーテ、ラボウチムノーキ。スパシーバ)」
 と言いながら、各々、私達に握手を求めた。
 私達は予想外の出来事に、少なからず戸惑った。
「ヤースバシーバ」
ロシア語を知らない私達は、彼等を真似して言った。
 私達が言った「ヤー」は、日本語の「やあ」のつもりなのだった。だから、日本語とロシ
ァ語の合体だった。ところが、ロシア語で「私」は「ヤー」なのである。だから、彼等は私達が言ったことを「私、ありがとう」と聞き取ったかもしれ
 戦争が終わってみれば、敵も味方もない。すっかり打ち解けていた。私は持ち前のジョー
クをとばしたりした。
 民族衣装をつけた三十代後半位の女性が三人、黒パンとコーヒーを運んできた。
「地方にはあまりないけど、軍隊にはまだ少しはあるんだよ。皆、飲みたまえ。ゲルマン(ドイツ)のだ」
と、コーヒーを指しながら、一番階級の上らしい将校がすすめた。
「スパシーバ。ハラショ」
 誰からともなくそう言うと、黒パンを食べながらコーヒーもすすった。喉が渇いていた。
丼物は、ニシンイワシとジャガイモのスープだった。ちょうどいい具合に温度が下がっていて食べやすかった。
 三人の女性は私達を珍しそうに見ながら、年齢や「奥さんがいるの」などと聞いてきた。そんな時、また、故郷のことが脳裏に浮かぶ。一瞬、湿った空気になる。
 彼女連は、日常会話のつもりで言ったのであろうが、私達の表情を見て、すぐに、
「ごめんね。変な話をしたりして」
 と、素直にあやまった。
 その日は、彼女達を交えて大酒盛になった。
 飲んだことのないウォッカを飲む。喉がジーンと焼けるようだ。ソ連軍将校達は、もうすっかり酔っていた。「ヴォルガの舟歌」や「カチューシャ」が流れる。ソプラノである。黙って聞いていた私達もつられて、「ヴォルガ」を唄ったり「カチューシャ」を口ずさんだりした。
 ついこの間まで戦争をしていたとは思われないほど、和気あいあいだった。
 三人の女性は踊り出した。アゴニョーク(灯)というロシア民謡の唄に合わせて踊る民族
衣装がよく似合う。
 私達は、我を忘れて拍手を送った。彼女達は朗らかだった。拍手に応えて別れの踊りも踊ってくれた。時間は惜し気なく過ぎていく。戸外は風が吹いていた。
 私達は、三日位カムチャッカに滞在した。その間に、日本軍の戦車(愛称はチハ車)等の構造上のことや威力等を説明した。戦車の構造は外国のものとそう違っていないと思うが、彼等も知っておきたかったからであろうと思う。
 いろいろな作業が終わって、私達は、ソ連の輸送船スターリン・グラード号に乗船した。

5 イワン


 カムチャッカの港を離れ、一路占守島に向かった。
 港で見送ってくれたソ連将兵達に混じって、三人の彼女達も見送っていた。将兵達に替わって、若い二人の警備兵が私達に付き添ってくれた。占守島、ホロムシロ島、それに富士山に似たオンネコタンの島影が見えていた。
 九月の終わりに近い千島の空は変わりやすかった。さっきまで青空が見えていたのに、いつの間にか濃い霧が辺りをすっぽりとつつんでいた。デッキに立っていられないくらい寒い。十月に入れば、もう雪になる。早く内地(日本)に帰りたい。私はそう思った。私だけではなく、皆もそう思っていたと思う。
 風は弱かったが、うねりが高い。七千トン級の輸送船も、木の葉のように上に下に揺れる。
 船酔いに弱い私は、警備兵に頼んで一人デッキに出た。霧が冷たく頬に食い込む。冷たいというより、痛い感じだ。防寒外套、防寒帽、防寒手袋、防寒靴の完全装備だ。顔面だけは包むわけにはゆかぬ。
 島影はもちろん、海鳥も見えない。霧が小雨のように降っていた。汽笛がボーボーと鳴る。この近くには、ソ連艦船や漁船もいる筈だ。
 いつの間にか、私のそばに一人の警備兵が立っていた。肩に手を掛けられるまで気がつかなかった。
「カクジラ(どうだ)」
と、その警備兵が声をかけた。
 私は返事に困った。顔の前で手の指を広げ、左右に振った。「わからない」という仕草のつもりだった。
「クダースマトリ」
 彼はまた言った。
 私は、あてずっぽうに「向こう見ている」と、指をさした。
「チベ、パルスキーガワリ、ズナイ(お前、ロシア語解るのか?)」
と、聞いた。
「マーラ、マーラ(少し位)」
 と私は答えた。しかし、本当は「ズドラスチェ(おはよう)」と「ダスヴイダーニャ(さよう
なら)」、それに「クーシェ(食う)」位しか知らなかったのである。
 彼は、また、しつこく話しかけてきた。「ハミレ、カク」とか、「ジェンシナ、イェス」とか、解らないことばかりである。私はそのたび、手を顔の前で振らなければならなかった。
 彼は、私に言葉が通じないと思ったのか、手まねでやり出した。「カークハミレ」は、
「名前は何と言うか」と言っているのだなと私は判断した。
「私の姓はタキガワだ」
 と言った。
「ヤー、イワン、グリゴレー」
 と、警備兵が名乗った。
「イワン、グリゴレー」
 と、私はオウム返しに言った。
 イワンは、私に何か言おうと思っているようだった。言葉が通じないと思ってか、なかなか言い出せない様子だった。
 その時、数名の同僚がドヤドヤとデッキに出てきた。側に来るまで私達に気がつかなかったのか、その中の一人がイワンに突き当たった。
「あっ」
 驚きの声が霧を揺さぶった。
「ヤポンスキー」
と、イワンが笑いながら言った。
 イワンにぶつかったのは峰村軍曹だとすぐ解った。
「おい、峰村。いや、軍曹殿」
 と私が言うと、
「滝川か。軍曹殿はやめたまえ。上等兵殿」
 と、笑いながらジョークを言った。
 峰村のほか、上田と平井、それに牧野だった。
「こりゃ寒いや」
 皆がそう言いながら、船室に引き返していった。
 イワンと私が残った。
「滝川(タキガーワ)、今、何時?」
 イワンが話の糸口を見つけて、私に話しかけてきた。
 私はソ連兵に時計を取られないように気をつけていたのだが、イワンの突然の言葉につられて、うっかり腕時計を見てしまった。霧で文字盤が見えないので、「解らない」と返事した。
イワンは、私の左手を右手で握ると、
「チースイ、スマトリチェ(時計を見せてください)」
と言った。ばか丁寧な言葉遣いであった。
 私は時計を外すと、イワンに渡した。イワンは時計を見ていたが、
「オーチンハラショ(非常によい)」
と目を丸くしていた。霧に青い瞳が飛び出るかと思われた。
「ハラショ、チイスイ、ジェンギ、スコーリコ(よい時計だ。お金、いくらですか)」と、イワンがのどから手の出るような口調で言った。
 私は、イワンに見つけられた時計だから、ただでやってもいいと思っていた。それなのに、イワンはお金をくれるつもりなのか。いくらだと聞いたのに、心を開いたのである。
「イワンはいい人だから、ただでいいよ」
 私はそう言った。
滝川(タキガーワ)、いくら何でもただというわけにはゆかんよ。滝川は気前がいいな」
 イワンは、笑いながらそう言った。
「イワンも気がよくて素直でいいよ」
 と、私も笑った。
 イワンの本心は、黒パン三本(約六キログラム)と黒砂糖一キログラム、それにマースロ(バター)少々という話だった。私はイワンの好意を無にしてはと思い、その通りにした。ただで取られた者がいるというのに、俺は何と幸福なのだろうと、私は内心喜んでいた。
「滝川(夕キガーワ)、船室に戻ろう」
 と、イワンが誘った。
 船酔いもだいぶ治ったようだ。私はイワンの後に続いた。
 船室に戻って横になっている、イワンが約束の品物を持って来た。私はそのことがあっ
てから、イワンが好きになった。イワンも私のことを、いい友達(同志)だと言った。
 イワンが帰ったあとで、私は同僚達と黒パンや黒砂糖を分け合って食べた。久し振り、何年かぶりかの大食を楽しんだのである。
「お前、うまくやったな」
 峰村が言った。
 峰村は、新潟県潟町村大字潟町の出身で、富士の裾野の少年戦車学校を半年で卒業し、満州蜜山の捜索隊(昔の騎兵)で千島に来たのは、昭和十八年七月頃のことだった。しかも柿崎町出身の原政男さんのことも話してくれた。いつか原政男さんと会えることを楽しみにして、峰村と話を交わした。
 他の連中も、私と峰村の奇遇を喜ぶようにはしゃぎまわった。

6 原政男との出会い


 船は、まもなく港に着いた。
 占守島とホロムシロ鳥の間にある、せまい水路のような海峡が、そのまま港になっていた。
旧日本軍の要港だった。ハワイ真珠湾攻撃の際、山本連合艦隊は、一旦ここに集結してから南下したとか、知人の誰だったかに聞いたことがある。
 港には岸壁がない。だから、ハシケや上陸用船艇等に移ってから上陸しなければならない。
 占守島に帰った私達は、それぞれ所属の中隊に戻った。中隊に帰った私に、中隊長をはじめ、戦友達が、ご苦労ご苦労とねぎらいの言葉をかけてくれた。
 千鳥に帰って一週間目、我が旧日本軍はすべてソ連軍の指揮下に、完全に入ることになった。労働大隊の編成だった。カムチャッカ大隊、イルクーツク大隊、アルチョム大隊、その他いくつかの大隊が編成された。アルチョム大隊が一番多く、千百十七名だった。
 千鳥の浅務作業は他の大隊がやることになり、アルチョム大豚だけが、スターリングラード号で出港することになった。   
 十月に入ると、すぐにシベリアに向けての出港なのである。
 船は、しけの続くオホーツク海を南下する途中、樺太(サハリン)に立ち寄った。アルチョ4行き大隊の約半分が、この樺太で下船することになった。
 船に残ったのは、小川隊長(陸軍中尉)を含めて、五百七名だった。もちろん、私も、この五百七名の中にいた。
 行く先は、アルチョムという町、見たこともない。
 どこにあるのかすら知れない異国の町。不安と興味が交互に湧いてくる未知への憧れと悩み。それに増して悲しかったのは、船内に浅った五百七名の中に峰村がいなかったことである。樺太で下船したらしい。その悲しみは、すぐには断ち切れなかった。しかも、峰村から聞いた同郷の原政男が、この船内にいるかどうかも解らない。心配だった。
 私は、誰でもいい、手当たりしだいに声をかけてみようと考え、出身地を聞いてまわった。
 少年戦車兵出身だとなると、年は若いはずだ。私は、若い人達には念を入れて話しかけた。
 捜しはじめて三百人目位だった。
 若くて小柄な、目の丸い人に出会った。私はすばやく出身地を尋ねた。なんと、新潟県の
柿崎だと言う、それだけじゃない。懐かしい柿崎地方の「そうだスケ」「おまん」等の方言。
お互いに名乗りをあげ、二人は小躍りして喜んだ。私は、原政男についに会えたのだった。

「原さんのことは、峰村さんから聞いていたんだ。峰村さんは樺太で下船したらしい。彼の住所は聞いたが、名前を聞くのを忘れていた」
 そう私が言うと、原政男は、
「彼は、たしか、豊といったかな?」
 と小首をかしげた。姓ばかり呼んでいたので、原政男も峰村の名前に自信がない、いようだった。
「おまん、三ッ屋浜だってね」
 と原政男は聞いた。
「俺、そうだけど、原さんは柿崎のどこ?」
 私は、峰村から原政男の住所を「柿崎」としか聞いてなかったのである。
「俺、旭町の金屋魚屋のもんです」
 私は旭町のあることは知っていたが、金屋魚屋のことは残念ながら知らなかった。

7 サハリン(樺太)滞在


船の中で三日位寝起きした。四日目の朝、ソ連のR少佐(この人の名前はアレキサンドリ
ャ?とかいう動労大隊長)は、小川中尉を呼んで何やら話し合っていた。まもなく、小川中尉の口から、
、こんなことが全員に伝えられた。
「皆、予の言うことを聞いてくれ。私達日本兵は、
これから内地(北海道)に向かって航行を続ける。行く先は小樽か函館である」
 小川中尉の顔は引き締まっていた。私達は、日本に帰れるのだと大はしゃぎだった。
「さらば、占守島よ、また来る日まで。しばし、別れの涙を拭いて」
 と、ラバアル小唄の替え歌を歌う者がいた。その声が大きく広がって、
、大合唱になった。
輸送船は宗谷海峡を南下していた。
 しかし、船足が遅い。ソ連側の説明では、海峡には旧日本軍の機雷があるようなので、
今ソ連海軍の掃海艇により機雷の探索中との話であった。秋の日は短く暮れるのが早かった。
 長い夜が明けて、水平線に赤い太陽が空をこがしていた。あっという間に水平線から飛び上がったように、まぶしく輝いていた。朝焼けの海は、嵐になるようだった。北風が強く吹き、みぞれまじりの雨が降ってきた。輸送船は、Uターンして、樺太の港に待機した。
 嵐は一週間も続いた。
 私達は、船から下りることになった。
「スターリンの命令だ」
 と、動労大隊長のアナウンスが船内に鳴り響いた。  
 樺太の、とある小さな港町だった。私達は、小学校の廃校のような建物に入った。どうやら、ここで宿るらしい。
「いくら海が荒れたと言っても、船が沈むわけでもないのに⋯⋯」
「二、三日すれば、天候も回復するのにな」
 誰の口からも、こんな不平不満の声がつぶやかれた。
終わってまもなく、場内放送があった。その内容は、次の通りだった。
 当動労大隊は、当分の間、サハリン(樺太)に滞在して「近く、道路工事に従事する」ということだった。皆がガヤガヤとどよめいた。
「何だ。日本へ帰るのはうそなのか。馬鹿にしてるな」
 口々に、ぼやいた。
 誰がアナウンスしたのか解らないが、多分、日本側の大隊長であろう。
「大隊長のところへ談判に行こう」
 気の荒れた何人かが、そう言った。自分達が捕成であることを忘れているようだった。
 警備兵のイワンが私を訪ねてきた。そして、こんなことを言った。
「日本兵士(ヤポンスキーサルダーテ)は、しばらく日本には帰れない。十一月中旬になれ
ば、全員、サハリン(樺太)から、シベリアのアルチョムに行くことになっている」
 イワンの言うことは、真実のようだった。
 私はそのことを聞くとがっかりした。しかし、「どうともなれ、官費旅行とシャレ込むか」
と、生来楽天的だった私は、すぐにそんなふうに気持ちを切り換えていた。
 心が落ち着いたところで、同町出身の原政男に話した。彼は、最初のうちは信じられないようだったが、私の態度を見て信用したようだった。
 イワンの言葉は、こうして私や原政男から他の者へ伝わり、大隊中へ流れていった。まるで、伝染病のように、急速に伝わっていった。
 いろいろな噂が飛び交い、大隊中にパニックが起こった。
 三人組が深夜逃亡を企て、警備兵に見つかって射殺されるという事件まで起こった。そんなパニックをよそに、サハリンでの道路工事は進められた。
 寒さの中での作業は、すべて人海作戦である。サハリン(樺太)で集めた日本製のラバーッカ(スコップ)は使いやすいが、ソ連製のラバーッカ(スコップ)は柄が一本の棒のようになっていて使いづらかった。作業用の道具は、ラバーツカ(スコップ)だけだった。いくら人海作戦とはいえ、大変な作業だった。
 少しでも作業を楽にし、能率を上げなければならない。寒さと食糧不足で体力も数十名にのぼった。道路は幅十メートル位である。トンネルを掘らずに三峡をぬうようにして、曲がりくねった道路が半月位の間に八割方できあがった。

8 再び、スターリングラード号へ乗船

 道路の完全完成を見ないまま、私達は再び、スターリングラード号の人となる。
 十一月二十日、午後三時頃だった。
 三日、四日と降雪が続いた。雪の日本海を南下し始めたが、日本に向かっている様子はない。雪で視野が狭められている。汽笛が、やたらと鳴る。他船の航行があるらしい。
 しばらくして、船が停止した。
 警備兵達の話を聞いたら、サハリン(樺太)から乗船した朝鮮人五十名が下船するのだと
言うのだった。いつの間に乗船したのだろう。私達も知らなかったのである。名も知らぬ港だった、
 また、船が動き出した。
 相変わらず、雪が降っていた。出港の合図がボーボーと鳴った。船足が遅いのか速いのかがらない。景色が見えないからだ。ときおり、カモメがマストをかすめるのが解る位だ。
 私は警備兵に頼んでデッキに出た。船酔いが激しかったからである。霧が冷たく、私の顔を容赦なく洗う。
 しばらく冷たい空気に触れたせいか、気持ちがよくなった。どの位たったか知れないかま、さしもの雪も晴れ、初冬の空は青く光っていた。ヤボンスキーモーレ(日本海)は、波も静かだった。
 船の右眩には、なだらかな丘陵の続く陸地が続いていた。赤い屋根と白壁の家々が、まるで絵本のように見えた。雪で染まった陸地は白く、その中に緑がところどころ見えた。五葉松のようだ。背が高くなく、地を這うようにはえているらしい。千島でよく、その実を食べたことを思い出した、
 船は、ほとんど沿岸近くを航行していた。
 冬の天換は変わりやすく、いつの間にか曇り空になり、風さえ出て、波も高くなってきた。
やっと、船酔いがおさまった。と思った矢先、また、この荒れである。どうしようと思う間もなく、ときおり雨湿じりの突風が、私の頬をたたいて通る。
 遠くの方で、警備兵のイワンが「戻れ」と、私に合図を送っている。私はイワンのそばにかけよった 。私が近づくとイワンは、
「瀧川(タキガーワ)、かぜをひくといけない。中に入れ」
 と言った。
「スバシーバ」
私は礼を言って、船室に入った。
皆が、私のことを心配していたようだ。
「どうした、大丈夫かね」
 同郷の原政男が、心配そうに言った。
「うん、ありがとう。もう大丈夫」
 と答えた。私の留守中に食事が出たのを、原政男が預かっていてくれた。船酔いはおさまったようだが、気のせいか、まだ体調がすぐれない。食欲もない。原政男に食べるようにすすめた。原政男は船酔いをしていない。私より若いだけあって、大喜びだった。食事と言っても、黒バンとオートミルとニシン鰯の塩漬け(生食)だ。私達捕虜にとっては、最高の食事だったかも知れない。私も船酔いしていなければ、むしゃむしゃと食べたにちがいない。だが、今はどうしようもない。
 警備兵のイワンが、船室を見張りにきた。私を見ると、「タキガーヮ、気分はどうか」と尋ねた。彼の左腕には、私がパン等と交換した時計のクロームのバンドが白く光っていた。船室の照明灯の光が反射したのか、バンドの白さがよけいに私の目を刺激する。
「君から譲り受けた時計は、このように大切にしているよ」と、わざと見せたのかも知れないと、私は独りで決めていた。
(イワンのようないい人に渡って、あの時計も幸せだ)
 と、心の中で喜んだ。
 イワンは、十分ほどで「ダスヴィダヤニャ」と言って、船室を出ていった。イワンが出ていったあとで、誰かが、「あいつ、いいロスケ(ルスキー)じゃないか」と言った。
 かなり海がしけていると見えて、七千トン級の輸送船スターリングラード号も、海の上では、水に落ちた一枚の木の葉のようなものだった。
 行く先はどこなのか、誰も知らない。警備兵達の口からも聞くことができない。
 千島を出た頃は、「日本に帰すのだ」と言った。ところが、警備兵の口から、もう、その言葉は出なくなった。本当のことは、彼等も知らないのかもしれない。しかし、イワンだけは私に、日本へ行かないことをはっきり言った。シベリアのどこかへ行くことだけは確かなのだろう。
 夜中になって風も静かになり、波のうねりはまだ残っているようだが、だんだん静かになっていく気配であった。一年を通じて、日の短い時期である。夜は長い。
 船室では、心地よさそうに軽い寝息をかいて夢の中に誘われている者、豪快な往復いびきで寝ている者、眠れないまま目を閉じる者、本当に眠れなくて寝返りばかりする者、とさまざまである。私の船室には百人位いた。
 私は、浅い眠りの中、ときどき目覚める。そんなときは、必ず小用に立った。

9 朝焼けの大合唱


 突然、スピーカーが鳴った。
 全員、デッキに集合。アナウンスの声が、三回連呼した。ガヤガヤとにぎやかな声を出しながら、ぞくぞくとデッキに集まってきた。
 あたりは明るかった。水平線が赤く燃えていた。長い夜が終わり、船の上にも朝がきたのである。風も静まり、波も穏やかだった。
 皆の目は、東の空に向いていた。あの赤く燃えている水平線の彼方に、生まれ故郷のある。祖国日本があるのだ。ワッと歓声があがった。赤く燃えていた水平線から、キラキラと光る。太陽が顔を出した。見る見るうちに、あたかも水滴をたらしながら昇るように、また、目に
見えぬ糸にでも釣り上げられるように、水平線から離れていく太陽。そこから、冷えきった。地球を暖めるかのように、暖かい熱線が放射された。
 誰が始めたのか、いつの間にか、大合唱になっていた。

 サラバ 祖国よ 
 また来る日までは
 しばし別れの戻を拭いて
 行くはいずこか 
 しらないけれど
 命の限り 
 強く生きます 
 日本男子

警備兵達は、日本兵士(ヤポンスキーサルダーテ)の大合唱に度肝を抜かれたように、一緒に語呂を合わせるように口づさんでいた。

 久しぶりに見る太陽の輝きに、凍りついていた私達の心のわだかまりがとけていくような気がした。
 珍しく、その日は晴天が続いた。冬の日は短く、西の空に燃えるような夕焼けが、雪をかぶったなだらかな丘や町の屋根をも赤く染めていた。
「わあっ、きれいだ!」
 一日中、デッキで過ごした私達は、夕焼けのあまりの美しさに、感嘆の声をあげた。一緒にいた警備兵達も「ハラショ、ハラショ」の連発だった。
 しかし、やがて丘の向こうに陽が沈み、景色は暗黒のしじまに消えていった。
 久しぶりに見る太陽の輝きに、凍りついていた私達の心のわだかまりがとけていくような気がした。
 珍しく、その日は晴天が続いた。冬の日は短く、西の空に燃えるような夕焼けが、雪をかぶったなだらかな丘や町の屋根をも赤く染めていた。
「わあっ、きれいだ!」
 一日中、デッキで過ごした私達は、夕焼けのあまりの美しさに、感嘆の声をあげた。一緒にいた警備兵達も「ハラショ、ハラショ」の連発だった。
 しかし、やがて丘の向こうに陽が沈み、景色は暗黒のしじまに消えていった。寒さが身にしみた。
「明日も天気だ」
警備兵達がそう言いながら、船室の方に歩いていた。私達も、誰言うとなく、船室に戻る
ことにした。
 船足は、そんなに速くない。九ノット位だろうか。最高速度が十五ノット位だとイワンから聞いたことがある。それから考えると、この位ではないかと思ったのである。
 なぜ、速度を落としているのだろう? 私は、歩きながら心配した。
 よいの明星がキラキラ光っていた。流れ星が、続けざま二つ、丘の向こうに落ちた。何かの予感だろうか。ふいに、私は胸騒ぎを感じた。
 皆が船室に戻った頃だった。船足がピタッと止まったようだった。しばらくして、船内にアナウンスが流れた。日本人通訳の伊藤の声のようだった。アナウンスの内容は、「エンジントラブルのため、スターリングラード号は、当位置で停泊する」ということであった。船足が遅かったのは、このためだと私は直感した。
 夕食の時間である。当番にあたった十五名の者達は、船内後尾の厨房に食事受領に出かけた。船内では、作業らしい作業をしていないので、食事の量も減らされている。しかし、五百余名の食事ともなると、大変な量である。
 ソ連流に言うと、三つのランクになっている。重労動者は黒パン七百五十グラム。中労働者は四百五十グラム、軽労働者は三百五十グラム。こんなふうに三つの区分があった。
重労働、中労働、軽労働とは、どのように区別してあるのか解らないが、何もしない者(私達のように輸送途中にある者)や病気・怪我で作業のできない者達は、軽労働とされるらしい。
 だから、食事量は、黒パン三百五十グラムとオートミル(スープ)だけなのである。それ
でも、五百名からの食事となると百七十キログラム位になる。黒パン一本が約二キログラム位、それを三百五十グラム位に切るのだから、大変な作業である。
 パンを切るときは、パンの耳ともいう両方の焦げた部分は除外する。その除外された耳なる部分は、その日の当番になった者のお駄賃になる。だから、当番につくのも、また楽しいのである。
 食事は、朝と晩だけなので、お昼にはおなかがすくと、そのパンの耳を仲のいい者達に分けてやる。まるで幼い子供のようだが、捕虜という立場でできる、唯一楽しいコミュニケーションの場であった。
 今、考えればウソのようだ。だが、その頃の私達にとっては現実だったのだ。

10 望郷


 ただ食うことだけにきゅうきゅうとしていた、そんな生活の中にも、赤い夕日を、見て感嘆し、青い月を見て瞑想にふけり、流れ星を見ては吉凶を占う。まだ、そんなゆとりを持っていた。いつ果てるとも知らぬ未知の世界に放浪しながら、心のどこかに、ほんの少しばかりの青春のかけらを残し遠き祖国を偲ぶとき、心の中で描いた花々。
 文子、きくの、節子、芳子、真理子⋯⋯。その人の名前も顔も、いつの間にか遠くに消えていくような、はかない青春の夢。そして、やがて一つずつ消えていく夜明けの星のように朝の光に吸い取られ、何もなくなる⋯⋯。
 みんな、夢だったんだ。私の心はむなしくうつろになっていった。
 私の前から消えていった幼馴染みの顔の中でも、真理子だけは私の母に似ている。私は小さい頃、母は美人だと思っていた。貧乏だったから綺麗な着物などは着ていなかったが、いつも小綺麗にしていた。もちろん化粧もしていないが、丸顔で、いつもにこやかな笑みを漂わせていた。
 私の母は千和子という名前である。

 十七歳のとき、奉公していた桐生市の織物工場の、経営者の息子
十七歳のとき、奉公していた桐生市の織物工場の、経営者の息子と恋に落ち、女の子をも
た。そのことが息子の両親に知れ、工場から追われた。しかし、相手の息子は家を捨て、千和子と一緒に生活をすることになった。
 二年の歳月が流れ、生活も順調になってきた矢先、織物工場の息子であった、夫・義明は、肺結核におかされ、三か月の入院後、帰らぬ人となった。千和子は、泣く泣く、娘と一緒に実家に帰った。娘はキミ子と言った。二歳あまりの元気な子に育っていた。
 娘を母に預け、再び桐生の別の工場で働くことになった千和子は、一生懸命働いた。
 桐生市に来て三年目、二十二歳の春を迎えた頃だった。実家から、
「縁談があるから帰ってこい」
と、うるさい位言ってきた。
 相手は、従兄弟の瀧川惣五郎だった。千和子は「従兄弟同士は嫌だ」と、しつこく拒んでいたが、惣五郎の手紙を読んで、ようやく結婚することになったのである。
 娘のキミ子を実家に預けたまま惣五郎と結婚したのは、話が出てから一年あまりたった秋の終わりだった。私は、惣五郎と千和子の間にできた三人目の子供だった。私が小学校三年のとき、姉のよね子と兄の岩男が相次いで死んだ。姉は麻疹がもとで、そして、兄は近所の友人の家で貰ったコウセンという甘い食べ物(柿の皮を干して粉にしたもの)を喉につまらせての死だった。
 何を言ったのか解らないまま、駅舎の方へ歩き出した。母は、
「兄、しゃべれないと思ったら、よくしゃべられたね」
 と笑った。
 真理子が私のそばに近付くと、一枚の千人針を差し出した。
「お元気で帰ってきてね」
真理子の瞳がぬれていた。
「真理子さん、ありがとう」
 私は、さっき言った言葉とうらはらに、(うん、きっと帰ってくるよ)と心の中で答えてい
 いろいろな思い出が、私の心の中をぐるぐると駆け巡っては消えていく。

11 嘘

「おい、俺川。えらくしんみりしてるじゃないか。具合でも悪いのか?」
きっきまで経いいびきをかいていた大川三郎が、私に声をかけた。ハッと我に返った私が、
「大川さん、いい気分で眠っていたね」
 というと、彼は手を左右に振って、
「なんのなんの。眠るどころか、いろいろなことを考えて眠れないんだ」
 と答えるではないか。
「だって、先輩、いびきをかいていたようだけど」
 と、私は言った。
「うん、俺、ちょっと鼻が悪いのか、呼吸のたび鼻孔がつまってるので鳴るのだよ。ハハハ」
 大川三郎は、大声で笑った。
 大川三郎は、戦車十一連隊の七中隊では、屈指の楽天家であった。私も何本か目の指に入る楽天家と言われていたが、とてもかなわなかった。
大川三郎が、私のそばに移ってきた。私の横に少しあきがあったからだ。彼は私のそばに寄るなり、
「滝川、いい話を聞いたんだ」
「実は、昨日、船が停泊するアナウンスがあった漢、トイレに行ったんだ。するとな、警備兵達三人がこんな話をしていたんだ⋯⋯」
大川三郎はそこまで言うと、急に声をひそめた。
 警備兵達の話は、「もうすぐ、ウラジオストクだ。軍港だからヤポンスキーに見せるわけには行かぬので、ウラジオストク沖を通過するのは真夜中にする。ナホトカには午前三時頃に
着く。まだアルチョムのラーゲルには、ヤポンスキー五百人を収容する設備がない。その準備ができるまで、船足を止めておく」というようなものだったという。
 大川三郎はロシア語ができる。満州斐徳時代、特務機関になるための教育を受けたときに覚えたロシア語は、まだまだ完全ではないが、下手な通訳なら顔負けする位であった。私は、彼の話を信用した。
 やがて、スターリングラード号が、再び水面を滑り出したようだ。スクリューが回るときのグリーングリーンというかすかな音も響いてきた。揺れも激しくなる。
 船室の船べりにある丸窓のガラス越しに見えるものは、黒一色である。かなり、波があるようだ。波頭だけが、うっすらと白く見える。
(何時だろう?)
時計はない。夜であることだけは確かだ。
「エンジントラブルだなんて、遠回しな嘘をついたものだ」

♪ 風か柳か 勘太郎さんか
 伊は中谷 糸ひく け
............
  (鳴)泣いて身をやく
    ほととぎす

 歌詞を忘れてしまったのか、ところどころハミングが混じる。また、違う場所から別の歌が飛び出した。

♪ あなたと呼べば
  あなたと答える
 山のこだまの うれしさよ
 あなた なんだい
 あとは言えない
 二人は若い
 タタラタン タララ……。

♪ 風か柳か 勘太郎さんか
 伊は中谷 糸ひく け
............

  (鳴)泣いて身をやく
    ほととぎす

 歌詞を忘れてしまったのか、ところどころハミングが混じる。また、違う場所から別の歌が飛び出した。

♪ あなたと呼べば
  あなたと答える
 山のこだまの うれしさよ
 あなた なんだい
 あとは言えない
 二人は若い
 タタラタン タララ……。
 タンタラタンタラタンタララ

 結局、この歌も歌詞を忘れてしまったらしく、一番がやっとで、あとはハミングの方式である。
 船足はかなり遅い。何時なのか、さっぱり解らない。夜になってまだ間もないようだ。船空の電灯は、なぜかボンヤリと光っていた。船の揺れは少なくなった。
 デッキに出たかったが、警備兵達は許可してくれない。ウラジオストク(軍港)の沖合を
通っているのだろうと、私は思った。
 その日は夜遅くなってから、デッキに出てもよいと許可があった。ほとんどの者は、歌に疲れたのか横になっていたが、私は同郷の原政男を誘ってデッキに出た。頬に冷たい込んできた。星がキラキラまたたいていた。北斗七星も北極星も、凍りついたように、北の夜空にへばりついていた。

12 加地時夫


闇の中を、スターリングラード号は音もなく静かに動いていた。
 どやどやと十数名の者が駆けながら、船首の方に走った。船内に閉じこもっていて運動不足だったのを解消するつもりらしい。船首から、また戻ってきた。
 皆の白い息が主マストの上から照らしているライトを浴びて、白く霧のように流れた。
 大きい船が通り過ぎていった。汽笛が暗闇の中に鳴った。ウラジオ沖は、もうとっくに過ぎていると思う。時間的には、ナホトカの港ももうすぐのようだ。気のせいだろうか。船の前進方向を伺ってみると、ボヤッと明るい箇所が見えた。私は、なお自分の目を疑うように軍服の袖でこすってから、改めて目をこらした。その光りのかたまりが、だんだん大きくなってくる。
(街のあかりか?)
 私はデッキの手すりにつかまりながら、なおも見入った。かけっこをしていた連中も足を止めて、私と同じようにその明かりの方を見た。
「うわっ、街だ。港だ!」
中の一人が大声で叫んだ。
「ナホトカだ」
 誰かが言った。
(ナホトカ?)
全然知らない地名であるが、イワンがいつだったか「ナホトカの港に入港する」と話してくれたことがあった。やはり、ナホトカだったのか。そう言えば、日本にも似た名前の港があったな、そうだ、故郷の近くの直江津港だ。
ナホトカとナオェツ。「直人くんと直江ちゃん」⋯か。私は、そんなジョークを考えていた。
(おい、滝川。今時、そんな呑気なことを言っていていいのか)
 私は心の中で自問自答していた。
 ふいに私の肩をたたく者がいた。かけっこをしていた仲間の一人で、加地時夫だった。
加地は戦車隊でなく、独立歩兵の出身である。千島占守島で何回か会ったことがあった。兵庫県加古川市の出身で、軍隊に入る間際まで埼玉の桶川市にいたと話してくれたことがあった。私も桶川市で半年ほど働いたことがある。だから、加地に親しみを感じていたのだった。
 その加地時夫が、この五百余名の集団の中にいるとは夢にも思っていなかった。
 私達は、暗闇の中で思い出話に花を咲かせた。身にしみる寒さも忘れるほどだった。
 またたいていた星くずも見えなくなり、雪空になった。大きい雪が降ってきた。ボタン雪である。寒気の強いときの雪は小さくて、さらさらしている。今夜は、気温がいくらか高いのだろう。
ボタン雪が体にくっつき、みるみるうちに、体が雪だるまのように
「入ろう」
加地が私をうながした。すでに、デッキには誰もいなかった。皆、二人が話に夢中になっ
ている間に、船室に戻ったのであろう。

13 脇坂実


 どの位時間がたったのだろうか。船内ニュースが流れた。ナホトカ港に入港の知らせである。予定より三時間位早く入港するとのことだった。どこかでスピードをあげたらしい。
 スターリングラード号は、静かに第三埠頭に着岸した。
 昭和二十年十二月三日、二十三時五十四分。時間は警備兵のイワンが私に教えてくれた。
真夜中である。あと、数分で四日になる。
 雪が、激しく降りしきる。風はない。下船準備完了。各人自分の身のまわりの品々を持って、タラッブを踏む。
 大きい陸揚げ物資は、港の沖仲仕達の仕事である。私達は港駅に通じる鉄道路線の上に五列横隊に整列したあと、十人一組で大きい輪を作り、鉄道線路の上に座る(サジース)よう命令された。
大きい輪が五十個と三人一組の小さな輪が、ヒマワリの花のように見えた。ソ連では、ヒマワリの花が国花だとか、警備兵の一人が、私達の作り出した大きな輪を見て、
「雪の上に咲いたヒマワリ」と、さも得意そうに言った。
「冗談じゃないよ。雪の上に座らせやがって。くそったれ」
 誰ともなく、そんな悪たれを言い出した。あまりの日本兵がブツブツ言うので、たまりかねたように警備兵が「だまれっ」と、どなった。
 それでも、日本兵の不満は絶えない。
 雪は積もる。雪だるまが五百余もできたようだ。ガタガタと歯が鳴る。
「歌でも歌おう」
 誰かが、大声で叫んだ。
「オー」
 それに応えるように、大きな返事が雪をつんざいた。イワンが、
「ハラショ、ヤボンスキー、歌を歌えよ」
 と、身振り手振りを交えながら、片言の日本語を連発した。
 じっとしていれば、凍え死んでしまいそうな寒さが、ひしひしと迫る。
「眠っては駄目だぞ」
 警備兵達が声をはりあげて、あっちこっちと歩きまわっていた。
 鼻の頭を凍傷でやられた者もいた。老兵の脇坂実だ。彼は、満州斐徳時代、私と営庭の歩哨にたったことがある。
 ある寒い冬のことだった。鼻はすっこけて鼻骨が見えるくらいだった。斐徳陸軍病院に入院した。二か月くらいかかって退院した彼は、他中隊に配置換えされた。
 どうしたことか、彼の所属していた中隊のほとんどがイルクーック大隊に編入されたのに、彼を含めた三、四人だけがアルチョム大隊に含まれていたのだった。彼が凍傷になったことで、所在が分かったようなものである。満州の頃のことを教訓にしていたら、こうはならなかったと思う。
「滝川さん、また迷惑をかけます」
脇坂実は、はにかんだ顔をした。年齢は、私の倍近かった。凍傷になったので、ただちに
アルチョム行きを変更して、ナホトカの病院に入院することになった。

14 生理現象


一番夜の長い十二月のこと、夜の明けるのが待ち遠しい。
 立っているのであれば、体を上下左右に揺すって寒さをしのぐこともできる。しかし、尻を雪の上に下ろし、肩を組んでの行動は運動もままならない。
 なぜ、こんなことをさせるのか。座っているほうが楽だとも言うのだろうか。警備兵達が日本兵を見張るのに都合がいいとか逃亡を防ぐためだなど、もっともらしい説が流れた。
厳しい寒さも困ったものだが、それにともなって頻繁に襲ってくる生理現象に、皆苦しめ
られた。
 ソ連では立ち小便はご法度とのことであるが、ヤポンスキー(日本人)に限り許された。   
 立ち小便は、すぐ前にある少し腐りかかった板塀に向かって行なうこととのこと。一人が立てば、連鎖反応で次から次へと小用に立つ。大のほうはがまんしている者もいたかもしれないが、たいした食事をとっていなかったこともあり、さすがに少なかった。
 そんな中で、独歩出身の友野九郎が大便に行ってきた様子をユーモラスに話した。
 ーー大きいほうの便所は埠頭の脇に十個くらい並んでいるが、あまり立派なものではない。しかも、便の落ちる口は海の上に突き出ていて、ポトンと音がする(よほど大きいのではないと、こんな音はしない)。落ちた便は日本海に流れだし、魚達のエサになるんだーー
 友野九郎の話は、笑いに変わる。久し振りの笑いであった。
「俺も行ってみよう」
 私はさっそく大便を申し出た。
出そうもなかったが、退屈しのぎになる。
「なるほど」
 友野の言った通りだ。
 見るだけだったので、ズボンは下げない。いつまで入っていても臭くない。日本にも水洗便所があったかもしれないが、私の故郷にはなかった。この便所は汲み取りもいらない。
(帰ったら、こんな便所を作ってみよう。俺もなかなか物好きなものだ)
自分で自分をせせら笑って、名残惜しそうに便所を出た。
 警備兵のイワンと目があった。
「タキガーワ、スラージ、ムノウガ(滝川、くそ、たくさん)」
イワンが言う。
「ニェト(ない)」
私は笑いがこみあげてきた。楽天性が本領を発揮してきたらしい。
「寒くなかったか?」
心配そうに聞くイワンに、
「チャポンチャポン音がした」
と答えた。
「うそつけ。音なんかしないぞ」
イワンは怒ったように言った。私のチャメッケが出た。
「イワン、あのような便所は日本にもあるよ。チャポンチャポンと音がする。音だけじゃない。水がはねかえってお尻が汚れるんだ。でも、川の上に作ってあるから川下に流れて行く。田んぼなどに入れば、最高の肥料になるのさ。はねた水だって川の水だ。汚れてないからきれいなもんさ」
 私は、こんな便所も実際に日本のどこかにあるような気がしたし、自分自身、日本に帰ったら、こんなものを作ってみようと思った。
 雪は、まだ降り続いていた。
(この寒空夜空に、よくもこんな呑気なことを考えるものだ)
 私は自分がおかしかった。

15 朝焼け


 十二月の夜は長い。夜明けが待ち遠しい。
 ちょうど、私達のグループに、イワンが近寄ってきた。私は、「スーセイ(あんた)スコリコウレーメン(今、何時?)」
と、覚えたてのロシア語で聞いた。
 イワンは外套の袖を上の方にまくし上げるようにして、チイスイ(時計)を見た。やがて、手話のように右手の指を全部広げて、
「ピャーチ(五)」
と言った。五時ということである。午前五時。
 寒さがいよいよつのる。丸い輪になって、雪の上にサジース(座って)しているのが、と
ても耐えられない。できるだけ体を動かさなければ、凍えて死んでしまいそうだ。眠ると凍死すると言われ、一睡もしない。しかし、中には「いっそ、死んだ方がいい」と、やけくそになる者もいた。
 しばらくして、二人の日本兵が倒れた。誰かは知らない。独歩か、工兵隊の者らしいとの噂だった。二人とも四十七、八の老兵とのこと。食事もろくなものでないことや、厳しい寒さに耐えられなかったのであろう。彼等は、ソ連兵の手で、市内の病院に運ばれたとのこと。詳しいことは分からない。
 大隊の人数は五百人になった。
 降り続いていた雪がやんだ。
東の空が、かすかに白んできた。朝焼けが、水平線と空の間に横たわる雲を紫色に染めて
いた。
「うわっ、朝だ」
誰ともなく叫んだ。
十二月四日の朝を、異国の街の港の埠頭で迎える。なんとも言えない感情が私の脳裏を走った。皆の気持ちも同じことだろうと、私は近くにいる者達の顔を見つめた。気のせいか、どの顔も涙ぐんでいるように見えた。
 これから、どうなるのか。
 自分自身でも判断できない運命の糸にたぐりよせられて行く、魂の抜けた死骸のような集団であった。何のための戦争だったのか。日本帝国の存亡、天皇陛下のためだ。いろいろな口実のもとに、私違若者が戦場にかりだされ、ある者は死に、ある者は特攻隊として敵機に向かい、あるところでは、全員玉砕した守備隊もある。戦場で死ねなかった者達は、捕虜として敵国に抑留される運命を迎えている。
 もちろん、銃後の国民だって苦労しただろう。私の両親や兄弟達も大変だったにちがいな
一億総決起等の言葉によって、ひきずりこまれていった戦争。
(いったい、何のためだったのか?)
 私は、くりかえし心の中でつぶやいた。
 異国の街、ナホトカに朝がきた。太陽がまぶしい。積もった雪を赤く染めている。
 全員整列の声が、響きわたった。労働大隊長の声である。凍えた空気が震える。
 私達は、警備兵達の指示にしたがって、五列横隊に並んだ。警備兵のイワンが、私達日本兵に軍歌を歌うよう指示した。落ち込んでいる日本兵の士気を鼓舞する目的だった。
 しかし、私達は、軍歌のかわりに流行歌を歌った。知っている流行歌といえば、入隊前に覚えた「愛染かつら」「男の純情」「あなたと呼べば」「伊那の勘太郎月夜」「長崎物語」だが、それらの歌が誰かの音頭によって、沸きあがってくる。
 雪道を踏みしめるように、歩武堂々と歩く。旧軍隊の威風を目の辺りに再現したような光景だった。沿道には、物珍しいものを見るために立ち並んだルスキーの老若男女子供達が、
「ヤポンスキー、ヤポンスキー」と声をあげて歓迎(?)した。
 青い目のかわいい娘達、ネッカチーフをかむった中年のおばさん、目のくるっと大きい子供、こちらから見ても彼等は珍しい存在であった。彼等から見る私達も、きっと珍しい存在だったのだろう。
 私達は、声援に応えて手を振った。捕虜だということも忘れて、声をあげてはしゃいだ。

16 野営


 だんだん街から遠ざかり、小高い丘のある山地に入っていた。夜中に降った雪であろう。
枯れ葉を踏みつぶすように積もり、背の低い落葉樹の枝が複雑にからみあっていた。こんな山の中に入って、どこへ行くのだろう?納得がいかない。
 やがて、空腹が襲ってきた。雪をつまんで口に入れた。のどがスーッとした。
 外套のポケットに手を入れた。指先に何か固い物が当たった。黒パンの耳だ。もうかなり固い。スターリングラード号で食事当番のときに「駄賃」としてもらったパンの耳だった。
 かじると、カリカリとくだけた。何回もかんでいるうちに、口の中で唾液を含んでやわらかくなってきた。ゴクンと飲み込んでから、また雪を口に入れた。
どのくらい歩いただろう。歩数等、もちろん数えてなどいないし、知らない土地である。
かも分からない。推測で、午後三時頃かと考えた。いつの間にか、太陽は雲の中いたが、その位置から察してみたのだった。
 そんなことを考えていたときである。隊列の後方に貨物自動車が五車輛が走ってきた。戦車隊で使っていた六輪車だった。国防色に塗られた旧日本軍の貨物自動車である。運転者はソ連兵だった。自動車には、食糧や資材が積みこまれていた。
「休憩」
大隊長の号令である。
隊列は止まった。
「その場でサズース(座れ)」
号令は続いた。
「ここで、三十分休憩してから、野営の準備をする。資材は後続の貨物車に積んである。各備上の指示に従って、設営にかかってください。終わりっ!」
 大隊長はそう言うと、自ら雪の上に腰を下ろした。
 体憩の後、設営の作業にとりかかった。自動車から荷物を下ろす者、天幕を運び設営にかかる者など、いろいろな作業分担に分かれて、作業は手早く終わった。
 薪集めに出かけた連中は、大きな荷物を背負って帰ってきた。立ち枯れの古木や枝を折ったり拾ったりして集めたものである。落葉していたので、何の木かは分からないが、ナラかクヌギのようだった。
 雪の上に建てた天幕は、どう寒さを防いでくれるだろうか。こんな経験は、満州や千島で体験済みであるが、ここでは床に何も敷いていない。これが前者と異なるのである。
 雪をどけただけの場所に鉄製の小型ストーブ(旧日本製のもの)を移動する。横文字の新
聞紙(ソ連紙)を丸めてストープにくべ、マッチで火をつける。あらかじめ用意した細い枯
枝をくべる。枯枝は凍っている。火が当たるとジュジュッと水分がわきでる。何度も何度も新聞紙を追加する。
 かなりの火力になってメラメぅと燃え出した。細い枯枝を次々と補給する。太い枝や幹
は、ピラー(のこぎり)やタポール(おの)で小さく切り砕いてストーブの横や上に置く。干
すためだ。
 幕舎の中は、かなり温度が上がった。固く凍った雪がとけ、枯草がピンとはね返った。枯草は、そのままムシロの代用である。大きいャカンがストーブの上にのせられ、外から集めてきた雪を口までつめこむ。雪はとけて水になる。次々と雪を足す。できた水で食事の準備をする。
 私も食事当番に当たった。ひさしぶりの飯盒炊飯である。
 ストーブのまわり五十か所位にY型の枝で作った柱を二本ずつかけて、下から火を燃す。一度に二十五個の飯盒飯ができる。
 一棟の幕舎は、だいたい二十五名が定員である。五百人の頭数だから、幕舎の数も大変なものである。枯れた広野に白い花が咲いたようだ。煙突から出る煙で、凍りついた冬の空もとけてくるようだ。
 何があっても、ストーブの火だけは消されない。二名ずつ、不寝番に当たった。一時間交替で、火を守るとともに狼の襲撃にも気をつけなければならない。狼は火を見ると近づかないと言う。幕舎の外にも、何か所か焚き火がされた。薪は大勢で集めただけあって、一日や二日では絶えないほど、山積みされている。
 さいわい、風がなかった。天幕が吹き飛ばされる心配もない。風もなく雪も降っていない夜は、星もきれいだ。遅くなって、片破れの月が、研いだ刃のような冷たい光を放った。
(こんな所に、いつまでいるんだろう?)
 楽天的な私も、一抹の不安を感じていた。そんな生活が、一週間ほど続いた。

17 馬糧の干し草


 私達は、再び当てのない旅に出ることになった。幕舎や飯盒はそのままにして、出発である。後始末はソ連の輸送隊と称する人達がやってくれるのである。
朝から歩き通して、夕方小さな駅に着いた。大勢のソ連人女性が、ガヤガヤと忙しそうに駅の内外を歩いていた。
 何をしているのだろう。女性達は、水筒のような物をたくさんぶらさげていた。
 駅の前に貨物列車が止まっていた。私は胸騒ぎを感じた。
 その時である。労働大隊長の声のあと、伊藤通訳がこう告げた。
「これから、アルチョームに向かう。その前に各人、水筒を受け取ってから、前にある貨車に乗って下さい」
 臨時の受付場らしい場所には古びた机が一つ置いてあって、その机のそばに二人のソ連人女性が立っていた。駅舎の方から次々と水筒が運ばれてくる。
「一人に一個」
 机のそばの女性の一人がそう言いながら、水筒を日本人捕虜達の手に渡す。
 水筒は、もちろん旧日本軍のものである。アルミやアルマイト、それに終戦間際にできた竹製(日本竹や孟宗竹)のものもあった。
 私に渡された水筒は、布をかぶせた将校用のものだった。「山田少尉」と名前が入っていた。墨のあとも新しい。
 山田少尉という名前の人物は、何十人何百人といると思う。戦車隊にも山田勘二という少尉がいた。彼もいろいろ問題のあった少尉だった。私はふと、そんなことを思い出した。
 次から次へと水筒が渡され、そして、水筒をもらった者から貨車に乗り込むのだった。
プラットホームもなく、一、二段のステップを上って車内に入る。
 車内には、馬糧の干し章が厚く敷き詰められていた。
「わっ、まるで馬だ」
 誰かが、叫ぶように言った。
「馬でもいいさ。寒くさえなければ」
 別の誰かが言う。
 貨車の屋根裏からランブが等間隔に三か所つるされていた。淡い光がゆらゆらと揺れている。一車輔に七十名の定員ということであった。
 警備兵が二人がかりで、「アジン(一)、ドア(二)、テリー(三)、チテリー(四)、ピャー
4(五)」と一人一人ていねいに数えて、「セム・ジェベチ(七十)」になると打ち切る。七輛編成である。
十人の端数は、五人ずつ第一輛と第七輛目に分散された。警備兵達も、三名ないし四名ず
つ各車輛に配置された。車内には、南京袋を開いて天井からぶら下げただけの便所があった。しかし、小便はともかく大便となると、かなり抵抗を感じる。
 同郷の原政男が「しょうしい(恥ずかしい)」と言ったとおり、恥ずかしくて入れるシロモ
ノではなかった。男ばかりだからといえば、それまでのことだが⋯⋯。
 全員乗車完了までには、かなり時間がかかったようだ。貨車のドアを閉じると、まるで、箱に閉じこめられた馬か豚のようなものだった。
 着の身着のまま、貨車の床に敷きつめられた馬糧の干し草の上に横たわる。干し草特有の強い匂いが鼻孔をつく。それも時間がたつにつれて馴れて、高い香料の一つのようにも感じてきた。
 シベリア鉄道は広軌だから貨物も容積があり、かなりスペースがあった。
 乗車の際に支給された水筒の湯の暖かさは、ちょうどいい湯たんぽとなった。竹筒の連中は、かわいそうに、そういうわけにはいかない。私は自分の幸運を喜ぶとともに、竹筒をもらった彼等のことを心配していた。それにしても、干し草の敷物は、思ったよりも保温力があった。
 貨車の中では、昼も夜もない。列車がポイントを通るのか、かなりグルグルと回る。揺れが激しい。私はそんな時、一駅通過と思っていた。時間が全然分からない。
(イワンがいれば、時間が分かるのにな)
 と思いながら、ふと、車内の片隅を見た。
 見知らぬ警備兵がウォッカを呑んでいた。彼はアル中かもしれない、私はくだらない想像をした。息に彼から目をそらし、寝たふりをした。ところが、いつの間にか睡魔に襲われ、本当に眠ってしまった。
「スパシーバ」
私は、もう一本抜き取った。
「タキガーワ(滝川)だね」
いきなり、彼は言った。
(なんで、俺の名前を?そうか、隊員名簿で覚えたのか)
私は、内心合点がいった。ところが、彼はこう続けた。
「テー(君)、イワンをズナーイ(知ってるだろう)」
「ダ(知ってます)」
 私は小声で返事をした。彼とイワンは、同期で故郷も一緒だと言う。ちょうど、私と原政男のような関係だ。同じような境遇を思い、親しみが増した。
 ランプが左右に大きく揺れた。列車が走り出したようである。かなりスピードが出ているようだ。ランプの揺れが激しい。私は自分の場所に戻った。

18 ウォッカ男


 干し草の中でタバコを吸うことは禁じられている。
(俺はテストされているのか?まさか⋯⋯)
 横になっていろいろと思いをめぐらせていると、足元の方で音がした。見ると、さきほどタバコをくれた警備兵だった。

 彼は昇降口のドアの錠をはずすと、ほんの少し開けた。冷たい空気が入り込んで、車内をグルグル回り始めた。車内の空気の汚れをこうして防いでいるらしい。
 やがてドアが閉められ、車内は、静けさを取り戻した。
 彼は大きく音を立てないように気をつけながら戻っていった。交替の時間なのか、ウォッカ男を揺り起こしている。
 ウォッカ男は立ち上がると、よろけるように歩き、小用に向かった。まだ酔っているらしく、足元がおぽつかない。勤務中に酒を呑んだことが分かれば、即、罰せられるであろう。小用からの帰り、私の足をけとばしていった。私だけではなく、他の人の体をまたいだり踏んづけたりしている。しかし、相手が警備兵であると思えば、文句も言えない。泣き寝入りと
いうわけである。
 しばらくして、ウォッカ男が、貨車のドアを細めに開けた。外は吹雪のようだ。隙間から雪まじりの風が勢いよく舞いこむ。
(せっかく、部屋が暖まったというのに)
 私は、心の中でつぶやいた。
 ウォッカ男は、酔い覚ましのつもりらしい。ハンカチで汗ばんだ顔をふいている。
「おお、寒い」
 ドアの近くにいた誰かが言った。
「なんだと?なにがザミヨール(寒い)だと?」
 ウォッカ男は声の主をジロリと見ると、
「ああ、いい風だ」
 と、わざとらしく雪まじりの風を胸いっぱいに吸い込んだ。
 あまりの寒さに、ドア付近に寝ていた者たちが、次々に起き出した。
 ウォッカ男と交替で仮眠をとっていた、もう一人の警備兵も目を覚ました。私にタバコをくれた警備兵である。
 彼はドアに近づくと、うずくまっていたウォッカ男を動かし、ドアを閉めた。
 ウォッカ男は、いい気持ちになっているところをじゃまされ腹がたったのか、または、酒気による気勢のためか、仲間の警備兵をなぐりとばした。大げんかになった。
 私達は、その争いをただ見ているわけにはいかなかった。二人をひきはなすと、何人かでウォッカ男を別のところへ移した。ウォッカ男は大声をあげて暴れまわった。
「なにをするヤポン(日本人)。おまえらはワイナプレーイン(捕虜)じゃないか。やめろっ」
 わめきちらすゥォッカ男を、誰かがなぐった。どさくさにまぎれてのことである。後で分かったのだが、牧野正夫だった。彼は豆戦車(少年戦車学校)の隊員だ。年齢は二十歳。
「誰だ、俺をなぐったのは。名前を名のれっ」
 なぐられたウォッカ男は、なお、わめいた。鬼のような形相だ。
 すると、彼を引きずっていった者たちが、かわるがわるなぐった。ウォッカ男はヘトヘトになっていた。
「ざまみろ。日本人をばかにすると、とんだ目にあうぞ」
 日本人としての小さな反乱だった。
 もう一人の警備兵は、この光景をずっと見ていたが、知らぬふりを決め込むようだ。もともと二人は仲がよくなかったのだろう。
 上部に知れれば、当然、ウォッカ男はもちろん、相棒の警備兵も、そして、暴力をはたらいた日本兵達も、全て軍法会議にかけられることは免れない。この事件は、小さな箱の中のできごととして葬れば、それだけの話で終わるはずだった。
 ところが、そうはならなかった。

19 りん検

 ある小さな駅に着いたとき、ソ連軍のりん検があった。ゲーペーウとか何とかいう秘密警察か警察隊の上をいく組織のようだった。数名の官憲が各車輛の点検を始めた。
 小耳にはさんだところでは、中国大陸で転戦中の日本軍将兵が戦犯として中国から指名手配されている旧日本軍数名がナホトカ方面に潜入したらしいとの情報があり、各駅に警備が配置されたのである。
 車内の人員点呼では、五百名という数に異常はなかった。名簿の氏名と顔を同一人物かを調べるのは、至難の技である。戦犯者探しでは、成果がなかった。
 しかし、この検査によって、車内の小さな反乱が暴露されたのである。
 ウォッカ男が、まず第一番に槍玉にあがった。続いて、相棒の警備兵が、そして、牧野をはじめ数名の者達が取り調べを受けることになった。そのために、私達の乗ったアルチョム行き労働大隊の輸送列車は、小さな駅の引き込み線にストップさせられた。事件のあった車輌にいた者は、全員、取り調べの対象になったのである。調査が済むのに二日位かかるらしい、との情報だった。寒さと空腹でやりきれない。事件に関係のない連中がぼやいた。
 駅では、日本人向けにコーヒーのサービスやらカンパンの差し入れがあった。駅付近に住むソ連の婦人達の協力だった。コーヒーは、上等品だ。婦人達の話だと、ゲルマン(ドイツ)製だということである。
 私は、日本でも満州でも千島でも、コーヒーなど飲んだことがなかった。終戦当時、カムチャッカに戦車を運んだ時に、一度だけ、飲んだ。それ以外には覚えがない。
 コーヒーのせいだろうか、気持ちがスッキリしてくる。
 熱いコーヒーが大きなヤカンで配られた。それを、各人で水筒に詰めることにした。私は、しばらく飲まないで湯タンポ代わりにしようと考えていた。
 私達は、軽い取り調べで済んだ。日本人側の暴力は、無実としておとがめなしと決まった。あのウォッカ男だけが、勤務中の飲酒ということで「一年の禁固刑」となり、ただちに職を解かれウラジオストクに護送されることになった。
 私達の警備兵は、一名欠員のままだった。
 貨物列車が動き出した。日時が分からない。
 コーヒーのサービスを受けた時は、風もなく、やや晴れた日だった。雪がまぶしく光っていた。車内のほの暗さの生活が、外の明るさを異様に感じさせるのかも知れない。天井につるされたランプが、ゆらゆらと円を描くように揺れていた。
 あお向けになったが、なかなか眠れない。レールにひずみがあるのか、車輛の揺れが激しい。
アルチョムとは、どんな街だろう。あと、どのくらいで着くのだろう。
 まだ見たこともない異国の街なのに、くりかえし聞いているうちに、なぜか、ずっと前から知っている街のような気がしたり、親しみが湧き、懐かしささえ覚えたりすることもある。なぜだろう、 それは、これからいつまで続くか分からない自分の人生の地、第二の故郷になるのではないか、そんな感傷が先立つからかも知れない。
 いつの間にか、私はうとうとし始め、やがて深い眠りへと落ちていった。

20 アルチョム駅


 どの位たったのだろう。原政男に起こされた。あたりが、なんとなく騒々しい。
 アルチョム駅に着いたらしい。
 車輛のドアが開いて、もう降りかけている者もあった。
(よっぽど、眠ったんだ。どんな寒さの中でも順応できそうだ)
と、私はふくみ笑いをした。
 アルチョム駅は、さすがに大きい駅だった。プラットホームもあった。
 全員下車終了、五列縦隊に並ぶ。警備兵達は、何回も何回も人数を調べる。中には頭の悪い者もいるようだ。途中まで行って数を忘れたり、まちがったりする。ちょっとでも雑音が入ると、もう忘れてしまう者もいた。
「ばか」
 日本人達は、ヤジを飛ばす。
私の最高の友達(?)イワンも例にもれない。
 私がイワンに、「ガラワホイニヤ(頭悪い?)」と冷やかすと、あまり冷やかすなよ、と返
事が戻ってくる。
 五百人という数が一致したのは、整列が始まってから三十分もかかった。
 労働大隊長は、イライラしているようだった。もっと迅速にやるようにと、彼はきびすを返した。駅舎の中から、若いソ連の将校らしい人と二人の兵士がこちらを向いているのが見える。労働大隊長は将校らしい人に、
「ヤポンスキーサルダーテ、フショ五百名異状なし。
(日本軍兵士全員五百名異状なし)」
と、報告した。
報告を受けた将校らしい若い男は、一段高い台の上に立った。
「日本軍兵士の皆さん、大変遠いところ、寒さにも耐えてがんばって来てくれました。私は、今日から皆さんが生活する第十二収容所長の陸軍少佐、マルチェンコである。皆さんが戦争責任を果たし祖国日本に帰る、そこまで、この私が責任をもってお守りします。健康を第一に我がソ連の経済復興のためにがんばってください」
 この若い少佐の話は、水の流れるように、ある時は緩やかにある時は急に私達の耳に快
く響いた。
「まるちんこ、だってさ」
独歩出身の加地時夫が言った。加地の言葉には意味深長なものがあり、それを私に言わせ
る魂胆が丸見えだった。私は持ち前のジョークで応えた。
「丸いおちんちさっ」
 変な名前だ。私も加地も笑った。
「お前達は呑気でいいな」
 すぐ近くに並んでいた大川三郎が、私達を笑った。
「これから、収容所に向かって出発」
 労働大隊長の号令が鳴り渡り、警備兵長の指揮のもと、大隊は積もった白雪を踏みしめてアルチョム駅をあとにした。
 進むにつれて、いろいろな物が目に入ってきた。
 通りの方に三角型の山。福岡県田川出身であるという牧野が、「あれはボタ山だ」と言った。ボタとは、炭坑から出る石炭の中に混じっている不純物、つまりカスのことである。カスとは言っても、いくらかは石炭がついているので、それらが風化したり自然発火したりして燃えることがあるらしい。
牧野の話を裏づけるかのように、山の斜面の裾野から頂上に向かって、白煙が上がってい
る。
 いやな予感がした。
(この労働大隊は、炭坑作業に使われる?)
 私だけではなく、多くの者がそう思ったに違いない。

21 アルチョム第十二収容所

 大きなロシア文字が見える。目的の収容所に着いたのだ。
 高さ二メートル位の板塀の中央に、大きく開く門があった。その門の上にアーチがあった。
 大きな地球の模型に太い鎖を巻き、その鎖を断ち切る裸体の男性像のついた飾りがついている。
 門屋がギギーと音をたてて左右に開いた。
 すると、門の向こうにも大勢の日本兵士達がいて、私達を出迎えてくれたではないか。私達より一週間程前に、満州や朝鮮の方から、このアルチョムに連行されてきたばかりとのことだった。もちろん、これは、あとから分かったことだが。
 先客の日本兵が約千人、私達が五百人。大世帯である。
 収容所は、元ソ連軍の持科部隊が駐屯していたカサールマ(兵舎)であり、一年位前まで
は、ドイツ軍捕虜が入所していたと、後でマルチェンコ(マイヨル・マルチェンコ)が説明
した。
 私達千島からの要員は、二棟の兵舎に二百五十名ずつ分かれて入居した。第一棟、第二棟、第三棟⋯⋯と番号が書かれていた。私は第一棟に入った。
 しかし、しばらくの間、誰がどこにいるのかも分からない生活が続いた。寒さのために、
皆、同じような防寒帽をかぶっている。まるで、覆面をしているようなものだ。すぐ隣りにいたって気づかない。
 輸送されてくる貨物列車の中でも、牧野が暴力事件にかかわっていたので、初め
と気がついたし、「そうだすけ」というなつかしい故郷のなまりを聞いて、原政男を探し当てた。
そんな具合だから、棟が違うと、知り合いに会うことさえ、なかなか面倒なのだった。
 兵舎に入って防寒具を脱ぎ、軽い気分になった。
 室内は、ベチカの熱気で室温が保たれていた。かなり広い。左右両側に二段ベッドがあり、その間に、二間(注・約三メートル六十センチメートル)位の広さの通路があった。
 ベッドと言っても、床を高くして、その上に南京袋(?)のような物で作ったワラ布団が
置かれているだけの万年床である。
 上の段も同じように作られていて、板のすきまは目張りがしてあった。ゴミなどが落ちないようにであろう。
 収容所に着いた日は、長旅の疲れか、皆、死んだように眠りこけた。食事も忘れて眠ったのである。
 しかし、いくら疲れていても、眠くても、収容所にはルールがあった。
 兵舎の壁に貼られた一メートル四方程の大きさの紙に、所内の時間割りが示されていた。
朝六時起床、七時三十分作業整列、夕方六時帰所、夜十時消灯、と日本語で書かれているが、不思議なことに、食事時間がないのである。その日によって食事のメニューが変わるために時間を書かないのかと思ったら、そうではない。
 朝食と夕食は必ずあるけれど、起床から作業整列の間ということであり、夕食は、帰所から消灯までの時間を利用するというのである。
 食事メニューは、ほとんど黒パンだ。こうりゃん(トウモロコシの一種)で作ったパンだ
が、パサバサしてまずい。日本でも米の粉で焼き餅を作って食べたことがあったが、それよりずっとまずい。ちょっと酸味があり、喜んで食べられるシロモノではない。今まで、輸送船の中などでも黒パンを食べたが、同じ黒パンといってもランクがいろいろあるようだ。収容所のは、けたはずれにまずかった。
 収容所での第一夜が明けた。一回目の朝食が済んだ。
 しかし、作業には出なかった。作業所がまだ決まっていないのである。所長の話だと、仕事が決まるまで何日かアデハイ(休み)だと言う。喜んでいいのか悪いのか、判断に苦しんだ。
「仕事がないなら、日本に帰せばいいのに」
 私達は、久々に、好きなことを言い合った、愚痴ったあとは気分が落ち着く。いいストレス解消だった、
 誰彼の区別なく、一人一人訪問(?)し合う。全然名乗り合ったことのない人達が多いの
で、この際、お互いの身分を知っておこうと思い立ったからである。
 私のところへも、 何人かやってきた。
 満州に渡ってから、その職をかわれて連隊本部つきになり、顔を会わすことがなくなっていた。彼は、連隊のおェラさま、つまり、連隊長や中隊長等の散髪に明け暮れていたのである。
 何年かぶりかの奇遇に懐かしさはいっぱいなのだが、いざとなると、何を話していいのか、さっぱり分からない。結局、津田沼時代の話にさかのぼってしまう。
 彼は、口角泡を噛む雄弁家であり、また、いろいろな知識の持ち主でもあった。関川とは三十分程話をしたが、やがて、彼は忙しそうに立ち去った。
 その後も、何十人か分からぬ程、いろいろな人たちが私を訪ねてきた。

22 身体検査、そして道路工事へ


 一夜明けた次の朝は、冬には珍しい晴天だった。
 年増の看護婦が一人、カザールマ(兵舎)にやってきた。
「朝九時から医務室で身体検査があるから、遅れないように集合してください」
と、男のようなしゃがれた声でアナウンスしていった。
軍医が、
「チべ(お前)、何がおかしい?」
と言った。
 私は真顔になった。なぜか顔がほてって仕方なかった。そばで書類にメモをとっていた若い看護婦が、「スーウセイ(あんた)、ホゥーイマーリンキ(〇〇小さい)」と、笑いながら言った。せっかく自信をもったばかりなのに。私はすっかり自信を失ってしまった。顔がいっそう赤くなってしまった。
検査が終わって衣服をまとった時、ホッと安堵感につつまれた。
 身体検査が済んで、二日後、私達は地上作業員としてアルチョムの街の道路工事に従事することに決まった。満州方面からの大隊は、炭坑作業に従事しているとのことだった。三交代制なので就寝をさまたげないために、兵舎を別にしてあるのだった。
 炭坑作業も楽ではないと思うが、地上作業も大変だった。
 私達の作業は、道路の両側の溝を掘ることであった。地表から二メートル近く凍りついていて、ツルハシもスコップも思うように使うことができない。ある日、作業主任のソ連人技師に、
「暖かくなってからやった方が、作業がはかどると思うな」
と、話しかけたことがあった。技師は、
「ニエニェ(そうじゃない)」
と、ゼスチャーたっぷりに、私の言葉を否定した。
「ずべ(お前)はそう言うけど、暖かくなる、地下水が湧いて作業が面倒になる。冬場が
一番作業しやすいんだよ」
 技師は得意そうに言ってから、(お前ら捕虜に指図される筋合じゃない)とでもいうよう
に、私の畑を指先でこづいた。
「ボニマイ(分かった)。さすが、ルスキーカマンジル・ガラワ・ハラショ(技師、頭がいい)」
私は彼にあてこすりのつもりで、ほめごろしをやった。技師は、ブツブツ言いながら休憩所業事務所の方に歩いて行った。私は皆と大笑いをした。
 来る日も来る日も、側溝掘りである。技師は意地でも寒い冬のうちに作業を完成させたいと思っているようだった。そのためか、
「ヤポンスキーダワイ(日本人やれっ)」
 と、やたら気合いをかけてくる。虫の好かないやつだ。私達は、彼のことを好きになれなかっ
この護工事も、四月には完成した。話によると、県道だとか、ソルホーズからアルチョム
の中心街に通じる道だとか言っていた。もっと悪くとると、軍用道路かも知れない。普通の道路にしてはあまりにも広いし、側溝も通常の深さよりも深い。いざというときには、塹壕(ざんごう)に早変わりできるようだ。
 私は、そんなことを考えていた。考えすぎだろうか。

23 農場から炭坑へ


 五月初、私達地上作業大隊は、コルホーズ(共同)やソホーズ(国営)等の農場に作業に出ることになった。仕事は農場の草取りやカルトウシカ(じゃがいも)の種蒔きの手伝い、
トラクターの助手、牛や革の飼育の手伝い等、いろいろな雑用が主だった。その日その
仕事が変わった、万屋(よるずや)である。しかし、考えようによっては、万屋もいいものだ。仕事が変わるので飽きがこない。
 大勢でワイワイ言いながらやる作業も楽しかったが、それ以上の楽しみがあった。農場のソ連人婦人が作ってくれるニシンイワシとじゃがいものスーブである。大きな丼になみなみと盛られたスーブは、思わずおかわりをしてしまう。
 トウロコシもかない伸びてきたし、西瓜の芽も出た。シベリアに、遅い春がやってきたのだった。
 そして、あっという間に六月に入った。シベリアでは、一年中で一番日の長い季節である。
 農場の作物はぐんぐん伸び、自然の恵みを満喫できる日も遠くはない。そう思っていた矢先のことだった。
「千島大隊が、今度は炭坑作業に出る」
 こんな噂が、収容所でも農場でも流れた。
 現在、炭坑作業に出ている日本兵(捕虜)達は、終戦間際に招集されたり、現地満州開拓
団の中高年の人達なので、炭坑作業には体力的に劣るとの理由らしい。いくら中高年が多いとはいっても、若者も少数はいると思う。それらの人達は炭坑に残るとしても、入れ替えとなると、千島大隊は、丸々炭坑作業に就く勘定になる。
 噂が噂でなくなったのは、ものの一週間もたたないうちだった。
 俳優さんこと藤井貢が大川三郎を訪ねたのは、夕食が終わってまもなくだった。民主運動の話を勧めにやってきたのだと思ったら、そうではない。近日中に千島大隊が炭坑作業に就労する話だった。
 藤井貢は、大川三郎と炭坑作業の話や雑談をまじえて、小一時間話した。私は二人の話を聞いていた。聞こえた、という方が正確だろう。

24二十九坑道


 いよいよ、入坑の日がきた。
 入坑する坑道が、先任者達と全面的に変わった。今までドイッ人達が働いていた
る。彼等が祖国ドイツへ帰ったあと、しばらく閉鎖されていた。そこへ私達が入ることになったのだ。
 しばらく作業を休んでいた坑内は、かなり荒れていた。坑木の欠損箇所も多かった。私は、二十九坑道に配属された。
 組長は、山形県出身の友野九郎だ。友野は自称、千島占守島独歩の軍曹であった。態度が、どこかきびきびしている。私は、彼を補佐する副組長の立場になった。
 作業は四十五名で行なう。二十九坑道は、一番方二番方三番方と、三つの組で組織されていた。各組に一名のルスキーの監督と二名のクリッピッチ(坑木組立工)がついた。この二人はポーランド人である。
 監督は、グルージア人で赤茶けた黒髪に茶目をしている。日本人に似ていて、違和感を感じさせなかった。彼は、ドイツの捕虜としてドイツ国内の炭坑で働かされたらしい。
終戦で祖国に帰ったものの、ドイツで捕虜生活中にドイツの思想を洗脳されたとして七年間の刑罰を受けたという。それが寄しくも、彼はドイッ兵達の監督として、この二十九坑道で働いていたのである。
 ドイツ兵達がダモイ(帰還)したあとは、日本人坑道・三十七坑道の監督していたので
あるが、この度の変遷を機会に二十九坑道の監督になったのであった。
 ところで、ミシャーは物分かりのいい人物だった。しかし、どうしたことか、組長の友野とは気が合わなかった。友野のあまりにもきびきびした態度が、穏やかなミシャーにとっては、虫ずが走るほど嫌なのだった。
 二十九坑道の作業開始から、わずか十日もたたない内に、友野とミシャーが口論を起こし、あげくの果て、殴り合いとなった。日頃おとなしいミシャーが、友野を殴り飛ばしてしまった。友野も負けないでミシャーに食いかかり、互いに怪我をした。友野は右手の小指を骨折
して入院となり、その後の噂では、日本へ帰ったとのことだった。
なくなった後、私が二十九坑道の組長に昇格し、副組長には満州から来た。坑残留組の阿比留武が昇格した。
 しかし、二十九坑道は、ほとんど廃坑に近かった。炭層も薄く、落盤もしばしばあった。そこで、推定で約一か月後、二十九坑道は廃坑になり、二十九坑道作業員は全員、まだ閉鎖されたままの三十七杭道に移ることになった。
 夏である七月末か八月頃の気候である地上は、大陸気候で暑さが厳しい。坑道は温度差がない。坑道の天井から水滴がボタポタと落ちて、坑内は水分に満ちていた。そのせいか、心地よい位体にやさしい。喉の渇きも天井から落ちる水滴を集めた水飲み場で、うるおすことができた。
 水を飲めば、当然生理現象が起こる。トイレはあるのだが、皆、歩くのを省いて廃坑や切羽の中で間に合わせてしまう。かなりの臭気はあると思われるが、石炭の独特な匂いに消されてしまうのか、そう気にはならなかった。

25 真理子


 炭鉱作業に出るようになって、何日か過ぎた頃のことである。
 どこかの収容所から、十数名の旧日本兵が私達のアルチョム第十二収容所にやってきた。
その中に、同郷の滝沢力三さんがいた。
 滝沢力三さんは昭和十八年九月頃赤紙をもらい、満州東安市の輪重隊に入隊した。終戦を迎えてから、シベリアの収容所を何回か転々として、このアルチョム第十二収容所で五回目の移動だという。
 滝沢力三さんから、意外な話を聞くことができた。その話は、私を悲しませた。
 滝沢真理子のことだった。私は、滝沢力三さんが、私と真理子が親しかったことを知っていたので驚いたが、三ツ屋浜の部落では、大ニュースだったということである。
 私は昭和十七年一月、津田沼に入隊するため家を出た。柿崎の駅広場で見送ってくれた人達の中にて滝沢真理子もいた。私が彼女から千人針の腹巻きを受け取ったのを、誰かが見ていて、変な噂をばらまいたらしい。
 その彼女に、両親の勧める結婚話があった。結婚の相手というのは、三ツ屋浜部落でも有数の資産家であり、漁師の網元でもある、通称「荒屋敷」の三十五歳になる長男・清一であるという。
 清一は、生まれつき体に障害をもっていた。左右の足の長さがあまりにも違うために、歩くのに不自由していた。あだ名が「チンカタ」であった。
 しかし、部落の人達は、陰で彼の悪口を言っても、面と向かっては絶対に言えなかった。そんなことを言おうものなら、網元であり町会議員でもある彼の父親・清五郎ににらまれたあげく、村八分にされかねない。
 清一は、そんな父親の権力を笠に着て、真理子を半強制的に犯したのである。
 真理子は、悔しさと悲しみにくれ、夢遊病者のようになり、昼といわず夜といわず巷をさまよい歩くようになり、あげくの果てに海に身を投げたのである。
 滝沢力三さんの話は、そこで一度切れた。そして、「たばこが欲しい」と言った。私は、とっておきのマホールヵを滝沢力三さんに渡した。白い煙が部屋を埋めた。
 むせぶような匂いが鼻孔をつく。
 マホールカを吸いながら、滝沢力三さんはさらに話を続けた。
 一人の女性が自殺したというのに、清一は、まるで冷血漢のように「俺に逆らうと、あんなふうになる」とでもいった風だったらしい。真理子の死体も見つからないうちに、もう、別
の女性に声をかけていたということだ。
 彼の二度目の相手は、私と同級生の滝沢キョノだった。
 滝沢キヨノには、将来を約束した彼がいた。その彼が、中支の小さな町の攻防戦で戦死した。その報を受けてから自暴自棄な気分でいたので、いやな清一との結婚を承諾したのだという。
 滝沢カ三さんの話を、私はただフンフンと聞いていたが、心の中は怒りでグラグラ煮えくり返っていた。
 同級生の滝沢キヨノの顔が目の前を走り去っていった。
 真理子だって、清一のいけにえになったのだと思うと、たまらなく淋しかった。真理子は、さぞ、冷たかっただろう。涙が、知らず知らず頬を濡らす。
「天然バーマ」で軽くウェーブのかかった髪の真理子。そのフランス人形のようなつぶらな瞳が、海の水の色を受けてキラッと光ったようだ。まぼろしだった。私は、思わず心の中で念仏を唱えた。
 滝沢力三さんは話し終えると、自分の部屋へ戻っていった。
(真理子は、もう、この世にいないのだ⋯⋯)
ウソのように思えた。それと同時に、忘れかけていた、小樽の神田和子のことがふと脳裏に浮かんだ。どうしているだろう?元気かな。もう、お嫁に行っただろうか。そんな彼女の身の上を案じながら、眠りについた。

あとがき

――父へ、そして、父と同世代
方々への応援歌――
        田中すみ子

 一九九四年八月、父の手記『抗道に咲いた赤い花』と父から聞いたことをもとにして私が創作した『凍る大地の底にて』の二作を、『父と娘のシベリア鎮魂歌(レクイエム)』という一冊の木にまとめ、自豊出版いたしました。
 あれから四年あまりの年月がたちましたが、あのときに私が勝手に削ってしまった手記の部分が、が、と気がかりでした、手記には多くの人の名前が出てきます。まだ、お元気な方もいらっしゃるだろうし⋯と思うと譲躇する気持ちがあって削ってしまったのです。で、父が伝えたいものは「人」抜きでは語れないものですし、だからこそ価値があると言えるのかもしれない、と思い直しました。
 そこで、今回少し書き直してもらったのですが、主人公名は「滝川」になっています。本当は作者名もペンネームを使いたかったようです。でも、主人公名以外の人たちの名前は全て実名ですし、創作ではなく手記にまちがいありません。『父と娘のシベリア鎮魂歌』との関連も考え、実名で出すことを勧めました。父が主人公名を変えているのは、自己の体験を突き放し作家的な目でとらえなおしているからでしょう。悲惨な事実を書くためには、何らか
の「仮面」が必要であったとも言えます。この点は、どうかご理解いただきたく思います。
父の両親や兄弟のことで、私はこの手記で初めて知ったことがありました。「豆腐屋のおばちゃん」と親しんでいた父の姉の秘密や、戦争で引き裂かれた幼な友達のことなど⋯⋯。娘としては驚き、そしてショックを受けました。
 でも、父にとってこれは大きなハードルを一つクリアーしたことになるのではないかと考えました。書く怖さを覚え、それでも書いたのですから。
 油絵・水彩画・ちぎり絵など絵画の好きな父は、展覧会に作品を出すときに「滝沢茜」の名前を使っています。一方、密かに小説の創作もしていて、そのときは「吹雪吹太郎」のペンネームを使用するようです。

 さて、実名による「手記」はこれで終わりにして、これからは念願のペンネームを使った創作物を期待しています。実名で書くことをためらったことがまだ多くあるようですが、「創作」としてなら書けるかもしれません。
 戦争とは何なのか? 一九九九年一月二十六日で七十八歳になる父、そして、父と同世代
の方き、うんざりされても語り続けていってください。ずっとずっと⋯⋯。

     一九九八年十一月

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シベリアの空に響いた五百人の歌声

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