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ドーパミン彼女 前編

若年性パーキンソン病の父が書いた小説です。
読みやすいように書き直しています。

同じ病気の人、病気じゃない人にも何か伝わるものがあるんじゃないかと思い、公開することにしました。

何か伝わったよ、という方はいいねやコメントいただけると父が喜びます。
意外と長くて微調整にてこずった私も浮かばれます。

後編でいろいろ伏線回収されます。

ドーパミン彼女


「パパ! 今日一緒に行けへん?」

「どこへや?」

「さ ん ぽ」

「散歩か〜。そやな。ひまやし、散歩でもいこか」

「けど、行くんやったら、そのちょびっと伸びたひげ、何とかしてくれる?
 なんかみすぼらしいわ」

「いつもは何にも言えへんのに、なんやそりゃ。
 けどそやなぁ。ながいこと散髪屋に行ってないもんなぁ。」

「まだ時間あるから、散髪屋さんに行ってさっぱりしてから行けへん?」
「おう そうするわ」

と言って ほぼ一日の大半を過ごすベランダにおいてある何年もかけて育てているお気に入りのミニバラの手入れやめて
私に向かってほほえんだ。

仕事を辞めて 家にいるようになってから
ここ何年間 難しい顔しか見たことなかったが
最近 散歩をするようになった。

誘う時にいつも見せる 少し邪魔くさそうに遠くを見つめる照れたような顔が 
私が小さい頃よく遊んでくれてたときに見た笑顔と同じで
それだけで 私は楽しかった子供の頃と同じ幸せな気分になれた。

恋人もいない三十代独身女性である残念な私にとって
貴重な癒しになってるなんて
こんなこと 恥ずかしくて誰にも言えない。

世間一般では かなり残念なひとチームに入っている感じですが
父といろんな話しをすると、ほんとに楽しくなれるんです。
ほんまなんです。

父はもうすぐ六十歳になりますが 私が褒めるのも変だけど
歳より若く見えるし 男前やしジジイにしてはカッコいいんですよ。

しかし残念なことに 若くしてというか四十歳の頃に
パーキンソン病を発病してしまいました。

現在この病気は国から難病指定されいろいろと研究されていますが
まだ治療法が確立されていません。

症状に合わして 薬を飲んで 動きやすくするだけしかできない対処療法しかなく
今は 悪くなっていくのを見守るしかない厄介な病気です。

しかし五年くらいまで ほんとうに病気なの?と疑ってしまうくらい
父は 次から次へといろんなことを して
母や私をハラハラさせました。

でも本人はただの時間潰しだと言って
「俺のことは放っておいてくれ
 今しかできないことをしてるだけやから」と 嘯いていて

案外 気楽に人生を歩んでいるんでは?

と思ったりもしました。

でもやはり この病気は
手の震え・動作や歩行の困難など、運動障害をもたらします。

進行性の神経変性疾患で あって進行すると自力歩行も困難となり、
車椅子や寝たきりになる場合もあると言われています。

結局のところ そうなりつつあるのを自覚してからは
あまり笑顔をみせなくなっていて
もう 俺には もう夢も希望もないねんと言うようになりました。

そんな姿を見るのは辛かったけど
その頃から父とたまにいろんなことを話すようになったのでした。

父も私も映画が好きで よく映画の話しをします。

『レナードの朝』という映画の話になった時がありました。

「この映画はパーキンソン病と診断されてから 
 どんな病気か知りたかったら
 見たらどうかと薦められた映画やねん。

 先生がゆうくらいやし
 パパの好きなゴットファーザーのロバートデニーロが出てるし、どんなんかみとかなあかんかなと思い見てんけど

 なんと最後はああなってしまうのかと落ち込んでしまうラストやったから なんか メッチャ腹立ったわ。

 あんな映画 告知されてすぐにみるのは絶対おかしいし、先生もいろんな患者は見て その病気のことは知っていても、実際になった人の気持ちがわかってないんやろう。

 考えてもみい。
 北斗の拳のケンシロウに 『もう オマエは死んでいる』と言われたザコと一緒やで。

 けどあっちは宣告されて長くて三十秒
 けどこっちはジワジワと何年もかかりよるねん。

 まあ ザコよりましやから まだ ええんかもな」

北斗の拳はわかりませんでしたが 
父なりの自虐ネタなのだろうと理解できました。

「映画のころと比べると 薬も格段に進歩しているが
 まだ治療法は見つかってない。

 薬があるから 普通の人と同じぐらい動くようになってるけど、普通に動けると病気のこと忘れるねん。

 けど効果はずっと続かず 薬が切れてくるとカラダの動きが悪くなってくるし、その度ごとに この病気のことを思い出すので 辛くなるねん。

 それだけでも耐えられへんのに
 そのうえ徐々に悪くなっていって
 寝たきりになってしまうらしいねんで。

 死ぬような病気では無いけど 普通の人が考える
 歳いったら いつかくると思うんじゃなく

 俺は確実に それも他の人より早く動くことができない状態になってしまうことが わかるという事が
 真綿で頸を絞められるそんな気持ちになってくるねん。

 もうその日へのカウントダウンが始まっているので、今日出来ることは明日に残さないでやってしまうん

 ほんで元気な時しか外に出ないので
 病気のことを知らない人から見たら
 毎日 ぷらぷらして暮してるように思われるし

 病気のこと知ってる人にも 
 意外と元気そうやねっていわれるねん。

 いっそのこと 動けなくなったほうが 諦めもついて
 毎回毎回嫌な思いもしないとちゃうんかな」

と言っていたことがありました。
本当にそんな病気の方も居られるので不謹慎な事言うなと思ったけど、父の気持ちもわかるような気がしました。

そのあと父は言いました。

「本来なら動けへん身体を薬で無理矢理動くようにしてるので
 絶対カラダのどこかに負担がかかってるはずやねん。

 だいたいパーキンソン病患者は寿命を全うできる
 といわれてるねんけどそれは今までのことで 
 絶対確実に寿命は短くなると絶対 俺はそう思う。

 ほんで俺は他のパーキンソン病患者より病気の進行が遅いと言われてるんやけど なぜ遅いのか おれは知ってんねん」

なんの確証もないが 自分の体験からそう思うと。

なぜ? と聞いたら

「俺は病気になってから好き放題しとったからや」

と言いました。
家族を犠牲にしといて なに考えてんねん このおっさんは!と腹立ちました。

その時はアホらしくなってそのことについてあまり深く考えませんでした。
そんな話をしたことさえ 忘れてました。

毎週のように 堺浜の公園に来るようになって半年になります。

近頃では いつ来ても 久し振りに来たみたいな態度です。

本人に聞いてみるとほんとうにそうだと思ってるみたい。
父が 自分の状態を判断できたなら「これも薬の弊害やで」と言うてるはずです。

このようになってしまったのは残念ですが 
この半年で父からいろんな話しを聞くことができて 
父親のことが理解できてよかったとも思います。

ちょっと前までは カラダの調子は時とともに徐々に悪くなってきていましたが
頭は冴えていたし たまに落ち込んでる日もあったけど
ずっと 続いてるわけではなかったのであまり心配もしていませんでした。

でも、あることがきっかけで すっかり変わってしまったのです。

それは母の死でした。

昔からよく夫婦で喧嘩して もう別れるといい
どっちと一緒に住むなどと酷なこと聞かれました。

母が冗談で「生まれ変わっても私と結婚するか」と父に聞きました。

父はそんなことわかれへんと言いましたが、
三日後にやっぱりできひんと真剣に答えた話を聞いたりして

長年の父の行動や話から
母から父への愛はあってもその逆は無いものだと思っていました。

母は父が仕事を辞めてから
近くの小学校で放課後に子供の面倒をみる学童保育の仕事をしています。

母は
「ここにアルバイト行ってよかった。
 腹の立つ子供もいてるけど、
 私のことを慕ってくれる子もいて 疲れた心もいやされるねん」

と言いながら
子供たちの話をほんと楽しそうにいつも話していました。

その母が仕事に行く途中に車に轢かれそうになった子ども助けて
身代わりになって死んでしまったのです。

ほんとうに呆気なく

自分では もう一人前の大人になってたつもりでしたが、
さすがに この母の突然の死には対応できずに
泣いて オロオロするだけで何もできませんでした。

後から 父の妹である叔母に聞いた話ですが
父は葬式の手配から ひとの応対まで殆ど一人でこなしたみたいです。

そして 父の態度が涙もみせずあまりにも 淡々として 普段と変わらなかったので

母の弟から

「これでやっと終わりましたね。気が楽になったんとちゃいます?」

と嫌味を言われ 一瞬その周り一帯が静かになりました。
父の性格を知る者達は固唾を飲んで その状況をみまもっていましたが、

父は叔父に
「こうなったのも全て俺のせいや
 今までのこと申し訳なかった」
と頭をさげたそうです。

叔母は
「今までのにいちゃんやったら絶対 なにおぅ?と言って怒ってるし
 ましてや謝るなんて 考えられへんし なんかへんやわ」
と言ってましたが私もそう思いました。

その時少し気になったけど 母がいなくなった穴のほうが大きく
父とは毎日 顔を合わしましたが 今日は晩ご飯いるのかとか遅いのかと伝えるだけでした。

毎日会社にいって、父と二人での夕食は 母を思い出し辛くなるので
会社の同僚や 学生時代の友人らを誘って ほとんど家で食べませんでした。

けれど四十九日が終わり
ようやく私の気持ちも落ち着き始めて周りのことを考えられるようになりました。

よくよく父を見てみると、どうも様子がおかしく、なにか変でした。

病気になってからでも
「俺はマグロやから止まったら死ぬねん」と言ってた父が
母の死以後ほとんど外出せず 自分の部屋に一日中いてるみたいです。

元々 自分の方から喋るタイプの人じゃなかったので放っておきましたが
あまりにも 様子がおかしいので、ある疑惑が芽生えました。

確かめたかったがけど勇気が出ず
また明日 また明日と先送りしていました。

でも覚悟を決めて
休日の朝、父と久しぶりに話してみると

最初は母とどこで知り合ったとか、結婚して欲しいと言ったのは父だとか
家の前に置いていた車を盗まれた話とか、昔 コーギーを飼っていたことなどを話し始めました。

覚えていることもあったけど、知らない話もいっぱいあります。

昔 家で飼っていた金魚が大きくなったら
私が食べると言っていたとか

大和川の堤防に行って 川のぬかるんだところに長靴がはまって
片方の靴が脱げてしまい子どもの私は泣いていたが
その光景が面白くて助けず 笑って暫くみていたとか。

私がまだ幼稚園のころ野沢温泉へスキーに行ったことがあります。

それなりに最初から滑れたみたいです。
転んで泣いている私はもうやりたくないだけだろうと思って
父は、私に泣くなと言ってそのまま滑らしました。

でもあまりに痛がるので 診てもらうと靭帯が伸びているかもしれないと言われて、スノーモービルで下山することになりました。

ほんとに面白そうに 私の子供の頃の失敗談を話すので少し気が悪かったですが、聞いてるうちに楽しかった子供時代を感じられていい気分になりました。

しかし 父のある一言に耳を疑いました。

「ママはいつ帰ってきよるんやろ?」

「えェ〜なに ゆーてんの。
 そんな冗談いらんわ」

「今インドに行ってるんとちゃうん?
 お一人様ツアーっていうやつやったよな」

生前母はよくひとりで旅行に行っていました。

騙してるのかな。
本気?
やっぱり
おかしなってしもたかも

と思いつつ

「パパ なにゆーてんねんな
 ママはもういないやん
 もぉ!なに寝ぼけたことゆーてんねんな」

と言いました。

ヤバい ほんきで言うてるわぁ〜
どうしょ〜
呆けてる!

そんな思いが駆け巡りました。

そんな会話が わたしからママだけでなく
パパまで居なくなってしまったような気がして
大声で

「もう 黙っといて
 もう わけわからんことゆわんといて」

と言って 泣き出してしまったのです。

すると 父はしばらく 不思議そうな顔で 私を見つめていたのですが
そのあと なんと言ったとおもいますぅ

「ごめん ごめん 冗談や
 もう 帰って来てたんやな
 お帰り

 俺も さっき 帰ってきたんや」

なんと こんどは私を母だと思ってるみたいなんです。

医者じゃないんで断定できませんが
本人も恐れていた認知症の、その上をいく段階で 取り乱してしまいました。

もうオロオロしていてはいけないと思い
一呼吸して自分自身を落ち着かせようと努力しましたが

あまりにも衝撃的な出来事だったので

「今日 帰って来たとこやから 私 早よ寝るわ」

と言うのが精一杯で

父の
「そうかぁ 早よ寝えや」
の返事が聞こえたがけど、父を見ることもできず
急いで 自分の部屋に戻って泣くことしかできませんでした。

毎月一回の病院の検査の日は来週です。
到底待てないので 次の日 会社を休んで 朝イチ病院に連絡して
神経内科の受け付けで事情を話して診察日の変更をお願いしましたが
予約がいっぱいで変更できないの一点張りです。

それでもとお願いしたら
「二、三日様子をみはったらどうですか?」
と言うので、キレてしまって

「あんた 誰やねん?先生でもないのに
 なにが “二、三日 様子をみはったら?“や
 お前 舐めてんか! お前 名前 なんていうねん?
 ええ加減にしとけよ」

と暴言を吐いてしまいました。

怒りは収まらず 先生に聞いてくれと頼んでも
「今患者を診ていて手が空いていない
 すみません。申し訳ありません」
を繰り返すばかりです。

どうしようかなと思いあぐねていると
突然

「お電話変わらせて頂きます。看護師長の原田と申します。
 先程の者が大変失礼な対応しまして申し訳ありません。
 ご立腹だと存じ上げておりますが 正確にお聞きしたいので、もう一度だけ 患者さんのお名前と今の症状を教えて頂けませんか?」

と丁寧で落ち着いた口調の人が語りかけてきました。
私も少し冷静さを取り戻し 父の名前と症状を言い終えると

「あん時の娘さん?
 わたし わ た しよぅ〜 覚えてる?
 お父さん入院したした時の〜」

そこで思い出しました!

あの時の看護婦さんです。
十年ほど前に 父は

「最近の俺ってキレやすく なにに対しても我慢ができひんねん
 もしかしたら薬が俺をおかしくさせてるんとちゃうか」

と言い出しました。

そのことを主治医と相談したら その可能性も考えられるということでした。

自宅で薬の変更はいろいろと問題が起こったら困るということで
父は入院することになりました。

そのときお世話になった看護婦さんだったのです。

入院時 その時だけ担当になった若い女の先生の杓子定規な物言いが
父は気に入らなかったようです。

最初はあの父も我慢していて
母が来た時に愚痴を言っていました。

それが ほとんど部屋に来るたびに まだ動くからましだとか
それが嫌なら 手術すればいいのにと言ったりして

父がどう思おうと 関係ない 私の意見はこうだのスタンスを変えない人でした。

薬のキレかけのイライラや入院して どこへも行けないストレスとが重なり合って
部長回診のとき 父はその先生に向かって
まるで子どものように

「お前はこの病気になってないからいえるんや!
 ちょっとは患者の気持ちも考えてみろや!
 間違ったことは言ってないけれども 少しは相手の気持ちを考えろ!」

と言ってしまいました。

見ていた母もどうなることかと心配しましたが
先生がもう少しコミュニケーションをとらないといけないと言うことでその場は収まりました。

しかし父はもうこんなとこ嫌やと言って
以前タバコを吸いに外に出て注意されたことを蒸し返して
婦長さんに文句を言って 悪態ついて
勝手に家に帰ってしまい そのまま退院となりました。

母と二人でその後始末しに 病院に来た時
看護婦さんは言いました。

「なんやかんや言うても 一番しんどいのは患者さん お父さんやから
 それだけは忘れんといたってや〜」

あんなけ言うことの聞かない患者であった父のことを怒っていても当然のはずなのに、逆に励まされてしまいました。

恥ずかしい思いをさせられたと父に腹が立っていた私が
自分のことだけしか考えていなかったと思わせる一言だったので
印象に残っています。

あのときの看護婦さんに
父がボケて訳の分からないことを言うんですと伝えると

「それは大変やね けどはよ見てほしいわねぇ〜
 もう 今日の患者さんいっぱいで枠空いてないしー

 そや そうやわ 正攻法ではなく看護婦の私が
 言うことでないねんけど
 これしかないと思うわ!

 救急車呼び !

 症状は言って 病院に連絡したことは言わず
 あまりにも突然のことで
 自分では判断つかないし

 もし 脳の血管でも切れていたら大変なので
 病院に連れて行って欲しいと頼んでみい。

 どこか疑わしいと思われたとしても
 もし本当だったら 大変なことになるので オペレーターも
 直ぐ手配してくれる筈よ

 救急隊員の人が来ても そういえば
 だれも責任持つの嫌がるから たぶん連れて行ってくれるよ」

お礼もそこそこにして電話を切って
早速 119に電話して 言われた通りにしました。

10分も経たない間に救急車のサイレンが聞こえ
インターフォンが鳴り
救急隊員の人が現れて 父と私は主治医のいる病院に搬送されたのでした。

緊急性はないが きっちり検査をして 総合的な判断が必要だということで
その日はいろいろ調べてもらい その日は大事をとって入院しました。

次の日の朝 主治医から検査結果の報告がありました。

先生によると 脳のCTスキャンの結果からやはり認知症の可能性が大きいということでした。
さらに投薬の効果も薄れてきているみたいで
ほとんどドーパミンが出てないんじゃないかということでした。

そして主治医が いうには

「医者としては様子を見てくださいとしか言えません。
 私とお父さんとは 医者と患者という関係でしたが
 結構長い付き合いで 親しみがあって
 本当は一度でも飲みに行きたかったのですが それも叶いませんでした。
 そのかわりまた 診察に来てもらって 面白い話しが聞きたいです」

あくまでも私見として聞いてほしいのですが
と前置きがあり

今回の一番の原因として考えられるのは 奥様がなくなったことによる心の痛手だろう。
それと認知症の症状やドーパミン不足とが重なって
心の均衡を保つ為に 脳が自己防衛的に現実逃避の状態に移行するように指令したのではないか

と先生は言いました。

「今日はもうちゃんと娘さんのことを認識していますが
 また同じことが起こる可能性がないとも言いきれません。

 家族もなく本人ひとりの生活なら このまま介護施設に移ることも一つの案として考えられます。
 一緒に住んでおられる娘さんがいるなら自宅で治療もできます。

 しかし今後 新薬でも開発されない限りいまは薬の効果が薄いです。

 そうなってくると自分自身でドーパミンを出すことが必要になってくるんだけども 病気が病気だけにドーパミンを増やすのは難しいんです。

 でも、ひとつだけ もしかしたらという案があります。
 私も大丈夫だという確信はもてないし 諸刃の剣に成りかねないが
 試してみる価値があるかもしれません」

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