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【映画解釈/考察】『アフター・ヤン』「老荘思想と、意識と記憶の共有」



ヤンが動かなくなったのは、経年劣化だけではないという仮説


『アフター・ヤン』のストーリーは、ある日、突然、人間型AIロボットのヤンが、動かなくなるというところから始まります。ここで、気になるのが、故障の原因です。新品同様の再生品だと思っていたヤンが、実際は、2度目の再生品であった事実から、単純に考えれば、経年劣化であると捉えることはそれほど難しくありません。

 しかし、ここで頭をよぎるのは、もしかしたら、ヤンが何かを見つけたことによるヤンの意識的な停止である可能性です。

それは、この状況が、スパイク・ジョーンズ監督の『her』などの人工知能の自己意識を扱った他の作品と類似しているからです。

今回は、『アフター・ヤン』の特異性から、その仮説について老荘思想の観点から考えてみたいと思います。

 

『アフター・ヤン』と老荘思想と「道」


その特異性とは、ヤンが、中国の文化を伝えるための文化テクノであるという点です。特に、老子の名前が、劇中にも出てきますが、『アフター・ヤン』が老荘思想の強い影響を受けている作品であることは間違いありません。

老荘思想は、別名で、道家思想(タオイズム)とも言われます。ここで言う「道」とは、万物を生み出す根本的な道筋を表す言葉で、どこまで行っても、この世界に無限に広がっていて、言葉で言い表すことは難しいが、確実に存在するものを指しています。それは、「無」の世界とも言えます。

無為自然と『アフター・ヤン』におけるアイテム(水・鏡・写真・茶葉)


この「道」に近づくための方法の一つが、「無為自然」という考え方です。
「無為自然」とは、人為を廃して、ありのままに受け入れることを指します。

そして、『アフター・ヤン』には、多くの老荘思想を反映したアイテムが多数存在しています。いくつか、「無為自然」に関するアイテムを挙げます。

まずは、ヤンが夜中に、ミカが水を飲むのを手伝っていたというエピソードが挿入されています。

特に、老子は、万物の中で、水を最も理想的なものとして評価しています。これは、水が、形を自在に変形させることができ、あらゆるところに流れていくことができる存在であるからです。

また、ヤンが鏡を見る場面がいくつか挿入されていますが、荘子は鏡は、ありのままの姿を映し出す人為を挟むことのない理想な存在としています。

また、店でジェイクが客に文句を言われる場面で、原因となる粉末のお茶をお店に置かないというジェイクの姿勢は、できるだけ人為を廃してありのままを受容するという道家思想に合致しています。

また、ヤンが興味を持つものの一つとして写真があり、家族写真の場面は本作の中でも印象に残るシーンの一つになっています。

 そして、ラストシーンも静止画で止まっています。

 荘子は特に、未来や過去にとらわれること否定します。それは、未来や過去といった時間的な要素が、人為の介入を許す原因となるためで、現在をありのままに受け入れる姿勢を最善としています。写真は、時間的要素を排除し、人為をさける理想的な存在と言えます。


『胡蝶の夢』と物化(斉物論)


蝶の採集をするヤンとキーラが死生論を交わす場面があります。キーラが無になることは怖くないかという疑問に対して、ヤンは、最初は、老子を引用して、終わりは始まりであると言い、そして、本当は気にしていないと発言しています。

 これは、老荘思想において、有から無に戻るだけであり、有と無は一体であり、有と無が、繰り返されるという考えられているからです。つまり、私たちは、「無」=「道」から生まれた存在であり、元々、有と無は、一体であると考えられるからです。

この場面からはもう一つの思想も連想すことができます。それは、荘子の『胡蝶の夢』です。このエピソードは、荘子の「物化」(斉物論)の考え方を表した寓話です。

 「物化」とは、万物が次々に、生まれ変わりながら変化する理想の在り方を指しています。別の言葉で言いかえると、生々流転が当てはまるかと思います。

物化(斉物論)と『アフター・ヤン』のアイテム(ダンス・接ぎ木・楽曲『グライド』)


『アフター・ヤン』の中には、物化を表象するアイテムも多く組み込まれています。

まず、ヤンを含めた家族で参加していたダンスのコンテストです。重要なのが、ダンスの内容で、自然のいろいろなものに次々となりきることを要求されます。まさに、物化の擬似行為であると言えます。

また、養女であることに悩むミカに対して、接ぎ木を見せて諭す場面があります。これは、この映画もう一つの大きな主題であり、コゴナダ監督の真骨頂でもある多様性についても、この他のものの一部になるという物化を利用して表現されています。

 そして、『アフター・ヤン』のヤンのお気に入りの曲で、最後の場面でミカも口遊む、エンディング曲(主題歌)の『グライド』の物化を表象する重要なアイテムとなっています。

 この『グライド』は、岩井俊二監督の『リリィ・シュシュのすべて』のエンディング(主題歌)で、作曲・作詞は音楽プロデューサーの小林武史さんが担当しています。

 他の映画のために書かれた曲を、この映画で改めてエンディン曲(主題歌)に採用しているわけですが、むしろこの映画のために作詞されたのではないか思うくらいに、この映画の主題に合致した歌詞の内容になっています。 

 私はなりたいの決まり文句で次々に語られる歌詞の内容が、まさに物化を表しているからです。

蹄筌の故事と言葉を忘れる「無」の境地


この『アフター・ヤン』の印象的なエピソードの一つに、ジェイクがヤンにお茶に関するドキュメンタリーのことを語る場面があります。

この場面は、 「魚を得て筌を忘る」「兎を得て蹄を忘る」の故事で有名な蹄筌の故事を連想させます。『荘子』の中で最も重要な意味を持つのは、次に続く「意を手に入れれ言を忘れる」の一文です。

これは「道」を理解すれば、言葉を忘れると解釈することができます。「道」とは、言葉で言い表すことができないということと、言葉を使うと人為的なものがどうしても入ってしまうことを意味しています。つまり、「道」を究めた状態というのは、「無」の境地に達することであると言えます。

このお茶の談話の場面での、「道」を究めるとは、お茶を飲むと、自然とお茶の生息する場所の風景が見えることになります。

そして、さらに興味深いのが、ヤンが、何か理解できた素振りを見せた後に、流暢に語っていたのを停止し、忘れたとつぶやくシーンです。

これはまさに、「意を手に入れれば言を忘れる」の実践と言えます。そして、それは、ヤンが「道」を理解し、「無」の境地に達した可能性と、または、ヤンがその振りをした可能性が考えられます。


「道」や「無」の境地に誘うコゴナダ監督の手法


 物化を完璧に実践するのは、少し難しい気がしますが、「道」に感じたり近づくことは可能かもしれません。

「道」を感じるためにはどうしたらよいのかと考えると、それは万物に触れることになるかと思います。この映画を通して、様々な自然が挿入されています。特に自然(万物)の音を感じることができます。
 
 また、「無」の境地に誘う工夫がされていて、その一つが、静謐な音楽であり、焦点を外すかのような低い位置からのアングルです。また、仄暗い照明も印象的で、荘子は明るい光を好ましくないものとして考えていたようです。

コゴナダ監督が敬愛する小津安二郎監督作品における、何気ないコマの挿入や、ロー・アングル、左右対称などは、この「道」や「無」の境地に通じるものを喚起しているように感じられます。

何と言っても、映画館のそのものが、時間的に空間的にも切り離されたものであり、うってつけの装置だと言えます。

ヤンは「道」に触れることができたのか。(無為自然の「記憶」から生まれる意識)


『アフター・ヤン』は、ヤンの「記憶」をめぐる物語です。この「記憶」についても、『荘子』の中に記述があり、荘子は人間の「記憶」を否定的に捉えています。

それは、人間の「記憶」が、感覚器官から受け取ったものを知覚で統合し、それを記録したものが「記憶」であり、自ずと人為が入り込むからです。そのため、先述の通り、ありのままを映し出す鏡を理想的なものとして挙げています。

ヤンは、人間型のAIであり、どうも体に関しては、ほぼ人間であるように見えることから、感覚器官自体は、人間に近いように思わアれます。しかし、ヤンのメモリーに残されたヤンの「記憶」には人為的なものは排除されていると考えられます。ヤンのメモリーは、感覚器官というフィルター以外は、万物をありのまま記録した「記憶」と言えます。

そのようなことから考えると、AIであるヤンは、人間よりも「道」に振れやすい存在だったと言えます。しかも、ヤンは中国の思想を専門とする文化テクノであり、「道」に相当するような何らかの領域にたどり着いていた可能性があります。映画『her』のサマンサのようにです。

そして、ヤンが『グライド』の歌詞でいう「すべての一部になりたい」という心境に達する意識が芽生えたとしても不思議ではありません。

もう一つ、言及しなくてはならない要素が、叔母の遺伝子のクローンであるエイダの存在です。ヤンは、3回再起動されています。しかも、メモリーはスリープの状態でしたが、しっかり残されていました。そして、ヤンはエイダを見つけ出します。それは、「道」の中に、慈しむ「愛」の要素が含まれている可能性を想起させます。

ヤンのメモリーボックスと「道」、意識・記憶の共有、そしてお茶の記憶


そして、この作品を通して、すなわち、ヤンの記憶をめぐる旅を通して、私たち(人間)に、何を伝えようとしているのかということに、思いがめぐります。

これについて考えるヒントになるのが、この映画の製作において、最も難点であったと思われるメモリーボックスのビジュアル化です。

 このビジュアルは、これまでに関連付けながら見てきた通り、「道」のビジュアル化と一致したものであると考えられます。これは、この「道」は唯識の考え方に置き換えることも可能かと思います。

ヤンのメモリーボックスには、一つのメモリー(記憶)における時間の制約が設定されています。

私たちの意識も、刹那的なものであり、その刹那の意識(記憶)は、瞬時に「道」に送信されます。そして、「道」から生成される意識を、刹那に受信して、体感します。そして、また、体感したその刹那の意識(記憶)を、また、「道」に送信します。

つまり、私たちのすべての意識が「道」に瞬時に送信され、そして、私たちのそれぞれが「道」で発生した意識を受信することを繰り返しているということになります。

一見、非科学的な話ではありますが、量子のもつれの話を意識も適用し、意識が別の次元に存在していて、お互いが情報を共有している考える仮説があり、この説を採れば、集合的無意識などの説明がうまくつくことになります。

したがって、そのように考えると、私たちは「道」を通して、私たちすべての意識(記憶)を共有していることになります。

これは、ジェイクが見たお茶に関するドキュメンタリーの中で、お茶を飲むと、お茶をめぐる記憶を想起することができるというエピソードは、まさに、「道」を通した、意識(記憶)の共有を示唆しています。

この意識のあり方が正しいとすれば、『アフター・ヤン』には、クローン人間も、重要なテーマになっていますが、クローン人間も、そうではない人間も、そして人工知能も、本質的には変わらないことになります。


ラストの場面から読み取れること


そして、ラストの場面では、ヤンが不在でも、ヤンのメモリーボックスを覗かなくても、ヤンのことを気配として、感じるとれることを、ジェイクたちは悟っています。

そして、ミカがラストに『グライド』の「私はなりたい」と口遊む場面には、ヤンだけではなく、いろいろな万物に、転生することができるというメッセージが込められているのではないでしょうか。そして、ヤンの意識(記憶)は、恐らく「道」を漂っているはずです。



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