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宮城県遠刈田の遊女は巫女由来だったのだろうか?

私が現在もリサーチをしているテーマに宮城県遠刈田町にいた遊女達はもともとは巫女だったのではないか?がある。
ちょっとこれは前提をお話しなければならないかもしれない。

私は昨年遠刈田マルヨシのアーティスト・イン・レジデンスに参加した。
そこでテーマにしたのが町に残された記憶だった。
このときに制作した写真作品は今年中に発表する予定なので、また機会があれば告知しようと思う。

さて、あまり知られていないが遠刈田町にはかつて置屋があった。置屋があったということは揚屋があり、芸者さんたちがお客さんの待っている揚屋に行き、芸を披露していたのである。
また、遠刈田には山岳信仰がある。
たしかに蔵王にある御釜等は信仰の対象になってもおかしくない美しさと険しさを持っている。
遠刈田の町史によると、芸者とお客さんらが盆踊りを一緒に踊ったという記述もある。

リサーチでわかったこれらのキーワードから、私はある本が思い浮かんだ。
それは、佐伯順子著の「遊女の文化史」という本だ。
この本によると遊女はルーツを辿っていけば巫女的な存在で、単なる性の対象だけの存在ではなかったとされている。
遊女は女性としての美しさはもちろん、歌や芸に秀でており、それらは巫女的な存在として不可欠なものだった。
山岳信仰と遊女は密接な関係にあり、山の神様も女性である。遊女はその山の麓で他界と交信するために存在していたと考えられている。
遠刈田の町史に残された、遊女と共に盆踊りをしたという記述、これもまた元をたどれば他界との交信の舞だったのではないか。
私はそんな風に仮説を立てた。

だが、この仮説。リサーチを進めていくとちょっと苦しくなってくる。
遠刈田に置屋ができたのはおよそ江戸時代後期頃とされており、町史によると温泉街が観光地化したことで人が集まるようになり、そのお客をもてなすために置屋ができたそうなのだ。
いきなり遊女=巫女由来説が揺らいでしまった。
遠刈田の遊女のルーツを辿れば巫女に行き着くのかもしれないが、今の所それを裏付ける証拠はあがっていない。
遠刈田の山岳信仰もまた、巫女とはあまり関係がないように思える。
というのも、遠刈田の山岳信仰とはもとを辿れば修験道の修業の場だったことが関係している。吉野金峰山による蔵王権現が勧請されると(それまでは刈田嶺と呼ばれていたのが)蔵王山と呼ばれるようになった。
つまり仏教の影響を色濃く受けている。
これは私個人の感想だが、仏教の影響が出てくるとちょっともうルーツを調べようがない。土着の信仰と仏教が合わさった結果仏教寄りの昔話ができたなんてのはよくあることだ。
そこで私は蔵王山の歴史について調べてみたが、かつて蔵王山の一部の山が「人忘れずの山」と呼ばれた可能性があることくらいしかわからなかった。
特段ここに巫女を匂わせる神話等はなかったわけである。

遠刈田周辺には弥生時代の遺跡が見つかっている。
この遺跡から女性信仰の痕跡が見つかれば、また展開があるのかもしれないが、ちょっとこれ以上深めるのは限界があるかなと頭を抱えているところだ。

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