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私の「3つの表現形式」

自分の頭の中で行われる思考展開について、私はこれまで主に「3つの表現形式」で可視化してきた。その「3つの表現形式」をそれぞれ「少々見聞録」・「我楽多だらけの製哲書」・「ファートンいきもの記」と名付けている。最近、それらが人文学・人文科学、社会科学、自然科学などを始めとした「〇〇科学」たちとどのように関わっているかについて整理した。

まず、「少々見聞録」は、自分が外国での生活で見聞した内容を材料にして、それをSDGsと結び付けて考察する表現形式で、様々な国の制度や現状が関わっている。そのため、主となるのは社会科学ではあるものの、その土地の人々の様子なども扱っているので、人文学・人文科学にも関係していることになる。そして、それを考察するにあたり論理を用いている以上、その土台には形式科学が当然に関係しているし、SDGsのゴールやターゲットについて説明する際にデータも用いているので、統計学も関わるため、やはり形式科学と繋がっていることが分かる。

次に「製哲書」は、日常の出来事を材料にして、それを先哲の思想と結び付けて考察する表現形式であるため、人文学・人文科学が中核に位置する。ただ日常の出来事を材料にしている以上、人間の心理や思考をテーマにすることもあれば、社会的事象として制度・ルール・時事などもテーマになるし、自然現象として風雨・寒暖・乾湿などもテーマになる。様々な場所で出会う昆虫たち・動物たち・木々たちなどもテーマなる。そのため、人文学・人文科学だけでなく、社会科学とも自然科学とも繋がるし、こちらも論理を用いて考察しているので、形式科学も関わっているのは当然である。

それから「いきもの記」は、自分がこれまで海外や日本で遭遇した「いきもの(植物を含む)」たちを材料にして、それらを「擬人化」し、その様子からエピソードを想像しつつ、もしゲーム上のキャラクターならばどんなステータスや能力を持っているかについて創作する表現形式である。そのため、材料自体は自然科学に関わりつつも、擬人化したエピソードは人文学・人文科学に関わるものであり、またステータスをレーダーチャートで示した部分は数量的なので形式科学に関わるものと考えられるのである。

これら3つの表現形式の意味するところをイメージしたものが「図3」を修正した「図6」である。

「〇〇科学」というものの配置を考えたならば、図3のように五角形になっていると全てが対等でバランスのとれた関係にも見えて、何となく落ち着く。しかしその落ち着きは、あくまでも「〇〇科学」全てが対等であるという前提に依拠したものにすぎず、対等である必然性は本来ないはずである。それにも関わらず、バランスを保とうしているのは、単に図をきれいに整えたいという自己都合でしかないのである。(その五角形に3つの表現形式を関連付けたのが図4である。)

そもそも図3として整理したきっかけは、膨大な要素を抱える自然科学(広義の自然科学)の見直しによるものである(図1→図2→図3)。そして、そのとき細分化された「形式科学」「(狭義の)自然科学」「応用科学」の違いは、形式科学が原理や法則に関わる抽象性の高さを主たる特徴としていること、応用科学が実践や活用に関わる具体性の高さを主たる特徴としていることと考えると、狭義の自然科学は両者の中間の特徴ということになるだろう。そのため、原理・法則といった高い抽象性を持つ形式科学の領域に比べると、実践・活用といった高い具体性を持つ応用科学の方が、対象とする個別の要素は増え、領域の広さと考えたとしても、内部に含まれる要素の多さと考えたとしても、細分化された3つは、「形式科学」<「(狭義の)自然科学」<「応用科学」という形で区別されることになるだろう。

さらに抽象性の高さを誇る形式科学の方が洗練された純粋なものであり、そのような姿の象徴が「正円」と私は考えている。正円は中心からの距離が等しく、完全なる調和が具現化されたものである。そのような状態から、対象とする要素が増えていき、具体性を強く帯びるとともに純粋さを失っていった狭義の自然科学は、完全なる正円の美しさを保ち続けることはできなくなる。その結果、崩れて歪んだ姿の象徴が「楕円」となる。楕円は楕円方程式によって焦点が2つ存在することは認めざるを得ないものの曲がりなりにも一定の秩序を保つことができている。そこからさらに、具体性が高まり、純粋さを見つけることが困難になっていく応用科学になると、もはや方程式のような秩序を見出すのが難しくなって、「台形」のような姿になってしまうのである。(この完全・純粋なものから、しだいに混濁したものへと変化していく構造は、古代ローマ支配下のエジプトで活動した哲学者プロティノスの「流出説」を想起するものであるが、この点の考察は脇道に逸れてしまうので、別の機会に論じようと思う。)

このように考えると、細分化された3つを対等な姿で図の中に表現するべきではないと感じられるようになり、その他の「〇〇科学」の位置づけも含めて、私は図5のイメージを作成するにいたった。しかし、形式科学が純粋なる姿で、応用科学がその逆の姿であるとしても、それら様々な「〇〇科学」をどのように理解するかは、あくまで「概念の枠組みの中での試行錯誤」であり、その思考過程は論理や数などが住んでいる純粋で完全なる世界の中にある。だから、図5のイメージ全体は、純粋で完全なる世界を表す枠組みによって秩序づけられるのである。

「われらに祝福を与え給え、神々と人間を生み出す聖なる数よ!おお、誠に聖なるテトラクテュス、永遠に流れる創造の源泉よ!聖なる数は、深遠で純粋な『1』から始まり、ついには気高き『4』に至る。そしてそれは、万物の母であり、すべてを取り込み、すべての限界を定め、最初に生まれ、決して道を踏み外さず、倦むことのない気高き『10』、万物の鍵を握るものをもうける。」

これは「万物の根源は、数である」で有名な古代ギリシアの哲学者ピタゴラスが設立されたと伝えられるピタゴラス教団において、祈りの言葉として用いられていたものである。ピタゴラスを始め、ピタゴラス教団は、全ての事象には数の性質が内在していて、その性質を研究することで、全ての事象が属している世界や宇宙といったものを理解しようとしたのである。

このピタゴラス教団がシンボルとして神聖視したものが「テトラクテュス(tetraktys、四数体、四元数)」である。これは、完全なるもので、宇宙を表わすものでもあり、それゆえ神聖な数字とされる「10」を図形として表したものである。テトラクテュスは一番上位の段が1つの点、次の段が2つの点、その次の段が3つの点、土台が4つの点で構成され、それが積み重なっている。見た目からすれば正三角形で、最も基本となる多角形でありながら、最初1点は0次元の世界を示し、2点を繋いだ線の世界は1次元、3点によって形成される平面の世界は2次元、そして4点によって形成される立体の世界は3次元というように、次元の意味も含んだものと考えられている。

そして「〇〇科学」の思考過程も、この純粋で完全なる三角形のような枠組みによって秩序づけられるのが自然な状態と考えられるので、その理解から図5のイメージを形成するにいたった。そこに3つの表現形式を関連付けたものが図6である。

これまで、これらの表現活動は異なるプラットフォームにおいて展開してきたが、このnoteという場も活用してみたいと思っている。

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