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★我楽多だらけの製哲書(8)★~久しぶりの遭遇とベーコン~

在宅勤務が続くようになってから習慣となり、緊急事態宣言が解除された後でも、自分にとって大きな地位を占めているのは、夜の散歩である。しかし、日本での散歩はかつてラオスに住んでいた時に比べると物足りなさを感じてしまう。このような物足りなさについて、ラオスから離れたことによる空虚な気持ちということで、私は勝手に「ラオ・ロス」と呼んでいる。そして、このロスの主要な部分には「あいつら」との関係も影響を与えている。

ラオスに住んでいた1年間は年中暖かいこともあり、毎日夜に散歩をしていたが、必ずと言っていいほど、光に照らされた場所には「あいつら」がいた。「あいつら」は目が良くないようで、何かが近づいて、光がさえぎられることで生まれる影を感じ取ると、一目散にその安全な場所へ逃げて行った。

私は卓球を長く続けており、動体視力は悪い方ではないので、「あいつら」がそうして動き出すと、それに毎回私は反応していた。そして、私は「あいつら」と毎回のように戦っていた。その動きはラグビー選手が相手のタックルをかわすかのように、途中まで直線だったにも関わらず、私の手が今まさに捉えようとすると、弧を描くように動きを変化させ、手の横をすり抜けていく。初めは、この動きに惑わされ、それを左右に追いかけようとすると、反応が遅れて逃げられてしまっていた。

しかし、しばらく戦いを重ねていると、「あいつら」がなぜ引き返さないのか不思議に思うようになった。手の横をすり抜けるように進むのは、ある意味、敵がいる方に向かっているわけで、危険は危険である。安全策をとろうと思えば、よっぽど引き返した方がよいわけである。だが、「あいつら」は引き返すことが少なかった。しかも、「あいつら」のサイドステップに上手く反応できたときも、「あいつら」は引き返さず大きく迂回してでも、当初の進行方向を目指していたのである。

私の頭に一つの仮説が浮かんだ。
「『あいつら』は、その時点で安全な方向に逃げることよりも、もともと出てきた場所に戻ろうとしているのではないか」と。

その仮説を検証するため、私は戦いながらも「あいつら」の動きを観察してデータをとることにした。「あいつら」が壁にはりついているとき、上を向いているならば、進行方向はそのまま上なのだが、「あいつら」のもともと出てきた場所はその反対の下になる。私が下から近づいたとき、「あいつら」はそのまま上方向に逃げていくことは少なく、私の作り出す影を感知すると、頭の位置を反対にして、下へ一気に突っ走ろうとする。これは「あいつら」が出てきた場所を安全なものと考え、そこに戻ろうとしていることを示しているのだろう。

逆に、下を向いている「あいつら」に対して、下から近づいたとき、「あいつら」はそのまま下方向へ逃げるのではなく、こちらも頭の位置を反対にして上へ逃げていく。これは「あいつら」が上から出てきて、そのまま進行方向として下に向かっていたということを示しているだろう。

そのような習性を理解してからは、戦いの結果が一変した。「あいつら」の捕獲率は高まり、それまで1回の散歩・ジョギングで2・3匹捕まえられれば上出来というところから、多い日は10匹を超えることも珍しくなくなった。そのため、それだけ多くの「あいつら」をキープしておけない私は、キャッチ&リリースをすることが多くなった。

そんな「あいつら」との戦いは、私の知的好奇心を大いにくすぐってくれる貴重な探究活動でもあった。しかし、ラオスを離れた今、毎夜多くの「あいつら」と出会い、そのような探究活動ができないことが、ラオ・ロスの主要な部分を占めている。

それでも、夏になると多少は「あいつら」と出会うことができたが、やはり秋に近づいていく中で、「あいつら」の姿をめっきり見かけなくなってしまった。秋という季節の寂しさと相まって虚脱感・虚無感が私を包むようになっていた。だが先日、ここ数日の暖かさのせいだろうか、久しぶりに「あいつ」に遭遇したのである。「あいつ」は私の住んでいるマンションのゴミ捨て場にいた。そのゴミ捨て場は、突き出した2階のバルコニーの下のスペースに設置されており、雨が降ってもそれをしのぐことができ、また夜、そこに近づくと自動的に電気がつくようになっていて、その電球の周りは暖かいのである。このような快適な場所を「あいつ」は本拠地としていた。

先日、夜にゴミ捨て場にゴミを捨てに行ったとき、私の動体視力が反応した。私は最初、ここがゴミ捨て場であることから、どうせゴキブリだろうと思っていたのだが、その動きにゴキブリとは違う、ある種の懐かしさのようなものを感じ、目を凝らしてみると「あいつ」だったのである。

しばらく「あいつ」を見かけていなかったし、日本での戦いはラオスのそれと比べると穏やかなものだったので、ブランクから私は捕獲できないのではないかと自信はなかった。ただ1年間のラオスでの修行で身に着けた技術は伊達ではなく、「あいつ」の動きを予測して、私は捕獲に成功した。

「何にせよ最上の証明とは経験である。」
イギリス経験論の祖であるフランシス・ベーコンのこの言葉が示しているように、経験を重ねれば重ねるほどに、私たちは確実な場所へと向かっていくわけである。今回、日本での緩い戦いや最近のブランクなどの不安要素がありながらも、私が「あいつ」を確保できたことは、まさにラオスでの試行錯誤の積み重ねという大きな経験によって生み出された結果である。

結果が出なければ、努力を積み重ねた経験は報われないと言われることがあるが、どれくらいの努力の積み重ねによって結果が約束されるという定式はない。しかし結果が出る場合、そのほとんどにおいて、努力を積み重ねたという経験の裏づけがあるものだろう。

先日の戦いは、努力・積み重ねの大切さを改めて感じることができた。久しぶりに「あいつ」と出会い、晴れやかな気持ちである。ただ、季節は秋に向かっていく、次に「あいつら」と出会うのは、来年になるのだろうか。

#ヤモリ #フランシスベーコン #ラオス

(以下は「あいつら」の姿を紹介)

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