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▶無『意』味・感想〔121〕◀(2024年3月11日)

今年も3月11日がやってきました。2011年3月11日は、神奈川の私学で教員。午前授業が終わって、午後は講座など。地震が起きた瞬間は、職員室内のコンピュータールームにいました。最初は、地震だねとコンピュータールームにいた他の教員と話していましたが、いつまで経っても揺れが収まらず、これはただ事ではないと認識。長い揺れが収まったあと、すぐに職員室の方に行き、教員で手分けして校内にいる生徒の安全確保と被害状況の確認へ。小田急線が止まり、停電で途中の信号も機能せず。保護者への引き渡しができない生徒は学校の体育館に宿泊。深夜になり小田急線が復旧したので、一部教員は帰宅となり、私も帰宅しました。

2012年3月11日も、神奈川の私学で教員。4月からのシンガポール生活に向けた準備中でした。海外でも使える銀行のカードを準備したり、シンガポールに送る予定のない荷物を保管しておくためのレンタル倉庫の契約をしたりしていました。

2013年3月11日は、早稲渋の教員。海外にいると東日本大震災のニュースを目にする機会が少なくて、自分自身の意識も薄らいでしまっていることを反省していました。

2014年3月11日も、早稲渋の教員。3月11日を迎える数日前にマレーシア航空370便が行方不明になり、そのニュースのインパクトが上回っていました。

2015年3月11日も、早稲渋の教員。シンガポールにいるので国内の報道がどのような状況は分かりませんでしたが、前日の3月10日は東京大空襲から70年という節目の年だったことで、関心が分散してしまっていたのではないかと思っていました。

2016年3月11日も、早稲渋の教員。3月末で早稲渋を退職することを自分で決めたものの、来年度の予定は白紙で、とりあえず日本に戻ることだけがはっきりしていました。そのため次の職場が決まるまで東京辺りに滞在しようと考え、マンスリーマンションの契約を進めていました。また4年間のシンガポール生活で溜まりに溜まった荷物の処分に悪戦苦闘していて、情けないことに3月11日の出来事に思いを馳せる余裕がありませんでした。

2017年3月11日は、沖縄の私学で教員。4月からはシンガポール日本人学校中学部(ジャパ中)で勤めることが決まっていて、再びシンガポールに住むための準備に奔走していました。世間では森友学園の話題が大きく取り上げられていて、3月11日はちょうど籠池氏の記者会見があり、落ち着いて震災のことと向き合えない状況でした。

2018年3月11日は、ジャパ中の教員。SNSを振り返ると7年前の出来事についてコラムを綴っていて、タイトルは~7年前の出来事とポーター~でした。コラムの後半では、次のように震災とトレード・オフを絡めて論じていました。

(2018年3月11日のコラム抜粋)
 アメリカの経営学者であるマイケル・ポーターは、「コスト・リーダーシップ」「差別化」「集中」という3つの基本戦略を提唱している。この3つの戦略についての考察は別の機会に譲るが、彼の主張の根幹にあるのは、「企業が経営的に成功するためには、様々な分野に対して手広く働きかけるのではなく、特定の顧客や特定の地域などにターゲットを絞ったり、商品の特徴を明確にするため特定の機能に特化したりしなければならず、逆に欲張った働きかけをしたならば、どの層の顧客に対しても、どの地域に対しても中途半端なものとなり、また他社商品との違いも理解されにくくなってしまう」という考えである。
 この考えに従えば「何かを達成するためには別の何かを犠牲にしなければならない」わけで、このような関係性は「トレード・オフ」と呼ばれている。
 この関係性は、震災によって注目されるようになった「原子力発電所の再稼働の是非」の中にも表れており、それは「理想と現実の葛藤」と結びつく形で、我々を悩ませることになっているのである。
 私たちに突き付けられたのは、「原発再稼働を認めないという理想を追求しようとすれば、十分で安定した電力が得られない不便な生活という現実を受け入れなければならず、逆に電力の恩恵を受けられるような現実を求めようとすれば、原発再稼働も視野に入れなければならない」という問題であり、これは「何かを達成するために別の何かを犠牲にしなければならない関係」、つまり「トレード・オフ」なのである。
 震災から7年が経つが、このトレード・オフに対する結論が明確に出ないまま、しかし様々な思惑によって、知らず知らずのうちに事実が動き出してしまっている。
 7年という時間が、危機意識を風化させてしまい、何と何に対するトレード・オフが存在しているのかを曖昧にしてしまっているのならば、悲惨な出来事は姿を変えてくり返されるだけである。
 政府や原発関係者だけでなく、マスコミも我々も、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないことを信じたい。

2019年3月11日も、ジャパ中の教員。来年度は活動の場をシンガポールからラオスに移すことになっていたので、3月の恒例行事のようになっていた引っ越し準備に追われる日々でした。ラオスという国がよく分からず、シンガポールから荷物を直接送った方がいいのか、一度実家に送ってから様子を見てラオスに送った方がいいのか悩んでいました。

2020年3月11日は、ラオスで教員。4月からは久しぶりに日本の私学に勤務する予定で、またまた引っ越し準備。ラオスではまだ感染者が出ていなかったものの、ニュースを見ていると新型コロナウイルス感染症が世界的に広がっていました。日本でも国外から入国者を規制するような動きが近いうちにあるとのニュースが流れ始め、帰国予定を早めるかどうか迷っていました。

2021年3月11日は、東京の私学で教員。3月11日は学年末考査の時期で、午前で生徒が下校し、午後は採点。そして14時30分過ぎに、採点を中断し、勤務校の外に出ました。この日は国立劇場で追悼式が行われる予定で、勤務校から行けなくもないなと思っていました。しかし周辺の混雑に巻き込まれるのは避けたいという気持ちがあり、見晴らしの良い高台の方へと歩いて行きました。そして、14時46分にその高台で一人静かに黙祷をしたのでした。

2022年3月11日も、東京の私学で教員。この日は、震災について考えるコラムを綴っていました。タイトルは◆「物の復興」<「文化の復興」<「心の復興」◆でした。そのコラムの終盤で次のようなことを書いていました。

(2022年3月11日のコラム抜粋)
「震災復興」とか「戦後復興」という言葉があるが、それは単に道路や建物などの物質的なものが再建されることを意味するものではない。その場所で以前と同じような生活ができるようになることも必要である。しかし生活が元に戻り、文化的なものが復興したとしても、それによって「心の中の復興、精神的な復興」も同時になされていると誤解してはいけない。「心の中の復興、精神的な復興」には相当の時間を要する。それは子どもであれば尚更である。

2023年3月11日は、タイで教員。前日の3月10日が終業式で、4月から再びラオスで教員をするので、職員室の片付けを済ませ、アパートの引っ越し作業に専念していました。

2024年3月11日現在、ラオスで教員。東日本大震災の発生から13年となりました。色々な番組でどのように取り上げられるのか、他のニュースとの比重・バランスや温度差はどうなのかなど、とても気になります。ラオスに住んでいるので日本の報道を細かくチェックするのは難しいですが、調べてみたいと思っています。

13年前の今日起こった東日本大震災で犠牲となられた方々とそのご家族の皆様に心よりお悔やみ申し上げます。

#つれづれ   #コラム

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