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我楽多だらけの製哲書(72)  ~平和を取り巻く理念および実態と宮沢賢治~

20年近く教員をしているが、必ず時間をかけて授業で伝えるフレーズがある。

「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
これは日本国憲法前文の一節である。

この前文に示された内容は具体的争訟の根拠にできるような裁判規範性は持っていない。しかし、前文は日本の国がどのような国たるべきかを示したものであって、法規範性までが否定されているわけではない。だから前文は、国のあり方を示した理念として、その後で生まれてくる実態に対する上位概念であり続けると思う。

ただ歴史を見る限り、この理念と実態の関係がひっくり返っているように思える出来事がありはしないだろうか。

私はこの前文のフレーズから理念と実態に関わる問題提起をするようにしている。

「世界中で、核兵器による抑止力なくして平和は維持できないという考えが勢いを増しています。これらは、これまでの戦争体験から、核兵器のない平和な世界の実現を目指すこととした人類の決意に背くことではないでしょうか。武力によらずに平和を維持する理想を追求することを放棄し、現状やむなしとすることは、人類の存続を危うくすることにほかなりません。」
これは先日行われた広島の平和記念式典で松井一實市長が読み上げた平和宣言の一節である。

この一節は、まさに先ほど述べた問題提起に関わるものだと思う。

それから平和宣言のこの部分も印象に残っている。
「私たちは、今改めて、『戦争と平和』で知られるロシアの文豪トルストイが残した「他人の不幸の上に自分の幸福を築いてはならない。他人の幸福の中にこそ、自分の幸福もあるのだ」という言葉をかみ締めるべきです。」

この部分を聞いて、私はすぐに宮沢賢治の言葉を思い出した。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
やはりこういった相互不信が高まっている世の中だからこそ、利己ではなく利他の精神に価値を見いだしていかねばならないと私は考える。

そして今日、長崎の平和祈念式典で田上富久市長が読み上げた長崎平和宣言では次のような一節があった。

「私たちの市民社会は、戦争の温床にも、平和の礎にもなり得ます。不信感を広め、恐怖心をあおり、暴力で解決しようとする“戦争の文化”ではなく、信頼を広め、他者を尊重し、話し合いで解決しようとする“平和の文化”を、市民社会の中にたゆむことなく根づかせていきましょう。高校生平和大使たちの合言葉「微力だけど無力じゃない」を、平和を求める私たち一人ひとりの合言葉にしていきましょう。」

「平和の文化」というのは、とても素敵な表現である。まあ平和が前提にないと文化は築けないとか賛否はあると思うし、結局は理想論というような意見もあるだろう。しかし、憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という部分は、もともと大いなる理想論として、「平和の挑戦」に歩みだしたものだと思う。

青くさいとか、甘いとか言われるかもしれないが、私は自己保存の欲求では説明がつかない利他的な精神が人間には備わっていると信じたい。

#哲学   #平和
#宮沢賢治

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