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ロボットピエロ

 世界大戦が終わって間もない頃、少年は麦畑で汗を流す父の逞しい背中を眺めていた。
 大戦中に出兵していた父は左手を失くし、この家へ帰って来た。村から出たほとんどの兵隊が死んだ。奇跡的に帰還した父はすぐに農夫となり、母と共に田畑を耕して長閑な暮らしを営んでいた。
 かなり貧しい家庭環境だったが、少年はそれが貧しいものだとは思わなかった。
 比べる家も、人も、周りになかったからだった。

 ある晴れた日の夕方、静かな風が歌のように吹き、麦畑がさわさわと揺れていた。
 汗と土の匂いがする父は、少年を肩に担ぐと、低く頼もしい声で言った。

「見てろ。もうすぐ金の海がやって来るぞ」
「金の海?」

 少年は父の言っていることが理解出来ず、ただ風に揺れる麦畑を眺めていた。
 しばらくすると太陽が地平線に引っ張られ、眩い白だった光はやがて絵の具のような橙色へと変わって行った。
 すると、突然少年の目の前に金色の大海原が姿を現した。
 麦の穂先の一つ一つが橙色の光を弾き、金色に煌めく海を作り出していた。
 風に歌われる麦は波のように、自然の鼓動を帯びたリズムを刻んでいた。

 少年が夢の中でその景色を数度垣間見た朝に、母が少年を揺り起した。

「ジョアン、喜んで。私達が畑に出ている間に、私の友達があなたを街に連れて行ってくれるわよ」
「街に行けるの?」
「ええ、だから早く支度をしなさい」
「やった!」

 ベッドから飛び起きた少年は急いで身支度を整えると、餌を待つ賢い犬のように棒立になって母の友達がやって来るのを待ち侘びた。
 つやつやに光る黒い車がやって来て、少年は優しい笑顔をした銀縁眼鏡の老人と共に車に乗り込んた。車はおもちゃ箱をひっくり返したような色鮮やかな商店街を抜け、やがて街の外れに佇む見世物小屋へとたどり着いた。
 少年はその場所がどこなのかも、一体何なのかも分からなかった。

 小屋の中の薄暗い通路を抜け、木の扉の前へ立つと老人が言った。

「今日から、ここが君の家になる」
「僕は帰れないの?」
「なぁに、心配ないさ。君のママとパパはすぐに迎えに来てくれるよ。君の働きさえ良ければね。あぁ、それから……君の名前は、ここでは「ギー」と名乗ってくれ」
「違うよ、僕はジョアンだよ」
「ギー、言う事を聞かないとママとパパは来てくれないぞ。分かったなら、早くこの部屋に入りなさい」
「分かったよ……」
「それから、この小屋を無断で飛び出したりすると君のパパとママは迎えに来れなくなってしまう。家だって、なくなってしまうかもしれない。よく覚えておくんだね、ギー」

 少年は両親に会えないこと、家に帰れないことが何よりも心細く、とても寂びしい気持ちになりながら木の扉を押し開いた。
 狭い部屋の中には五、六人の大人達が先客として輪を作っていたのだが、彼等の容姿はどれもこれも異様で、少年はたまらず恐怖心を抱いた。

 少年と同じ背丈の髭を生やした男、下半身がなく上半身を滑車に乗せた痩せっぽちの女と、蛇を咥えて少年に睨みを効かせる女、そして天井に頭がつくほどの大男に、身体がネジのように曲がった出っ歯の男。

 少年は無性に寂しくなって、泣きたくなった。 
 家に帰りたい。その一心で勇気を振り絞り、どうしたら家に帰れるのかを彼等に尋ねた。

「僕はジョアン、じゃないや……ギー! ねぇ、どうしたら僕は家に帰れるの?」

 すると、彼等は一斉に腹を抱えて笑い出した。出っ歯の男が下卑た笑い声を放ち、小さな髭の男が少年に向かってこう言った。

「ギー! さてはおまえ、二台目だな」
「二台目?」
「そうだ。一台目は壊れてとうとう動かなくなったからな」
「どういう事さ?」
「おまえさんは売られたんだよ! このサーカス団にな!」

 下品な笑い声に囲まれているうちに、少年の意識は徐々に朦朧とし始めた。
 あの優しいママとパパが、僕を売るだなんて。そんなはずがない、きっと何かの間違いに違いないんだ。きっと、きっとすぐに迎えに来てくれるはずだ。

 しかし、少年の願いも虚しく、結局両親は迎えに訪れないまま薄く乾いた毛布の中で寂しい夜が明けてしまった。

 翌日。少年は小屋の外で裸にされ、身体中に古いオイルと銀粉を塗りたくられた。
 銀粉を塗りながら蛇女は言った。

「ギー、いいかい? あんたはこの前の世界大戦で使われる予定だった感情も痛みも何も感じやしないロボット「ギー」なんだ」
「僕は、ロボットなんかじゃないやい」
「ここを出たいんだろ? なら大人しく言う事聞きな。これが終わったらすぐに訓練を始めるよ」
「訓練? 戦争はもう終わったよ」
「馬鹿だね、あんたは。ステージの訓練さ。あんたはあの大男のパンチをその身体に受けて、へっちゃらな顔をするが仕事だよ」

 大男は小屋からやや離れた木の側で、巨大なバーベルを持ち上げて立っていた。

「あんなのにパンチされたら、死んじゃうよ」
「当たるフリを練習するんだよ。真面目にやらないと一台目みたいに壊れちまうよ。はーはっはっは」

 それからひと月の間、少年は「ギー」として小屋の中で暮らした。
 パンチを受けるフリをする訓練はもちろんのこと、普段の生活もロボットを意識するように言いつけられた。
 たまに出る肉のスープを飲んでも、バターの塗られたパンを食べても、皆が笑っている時でも、ギーはひとりぼっちで無表情でいる事を強いられた。

 頑張ればここから出られるんだ、という思いが余りにも強すぎた。少年は気付いた頃にはサーカス団のロボットそのものになっていた。

「おい、ギー! 私の車輪に油を挿れてといてくれないか」
「ギー、俺の髭剃りは一体何処だ?」
「ギー、三匹目のスネークを見ててちょうだい」
「おい、相方。ダンベルについた汗を拭いといてくれ」
「身体を曲げ過ぎたようだ。マッサージを頼むよ、ギー」

 どんな要望でも、ギーは「カシコマリマシタ」と無感情に返事をした。
 団員達は「さすが、二台目の方が性能がいい」とほくそ笑んでいた。

 少年のステージは「ロボットピエロ」と名付けられ、街を埋め尽くす退屈な大人達を賑わせた。
 大男の雷のようなパンチを食らっても平然としていられるギーの姿に、皆が興奮を覚えた。
 中でも人気となったのはロボットであるギーには何を言っても大丈夫、という事から始められた罵詈雑言を浴びせるコーナーだった。
 客は硬貨を払えば好きな文句をギーに浴びせられた。
 ギーを馬鹿にする言葉、日頃の鬱憤、心の中に溜め込んだ罵詈雑言。言葉は矢となり、次々と少年に降り注いだ。
 少年はあまりにも純粋だった。完全にロボットとなった少年は何も答えず、どんな汚い言葉にも何も反応も見せない「ギー」に客達はムキになり、硬貨は次から次へと山のように積み上げられた。

 すっかり満面の笑みで現れた銀縁眼鏡が少年に告げた。

「この頑張りならもうすぐ出られる。頼りにしてるぞ、ギー」

 しかし、少年の心にはもうどんな言葉も届きはしなかった。

 次の日、いつものように大男とステージに立った。
 今やメインとなったギーの登場に場内は割れんばかりの拍手で埋め尽くされた。
 大男がいつものように大きく振りかぶる。
 一発、二発、三発。
 少年は器用にパンチを受けたフリをした。

 歯をむき出しにして笑い声をあげる観客の中に、少年は自分を売った父と母の姿を見てしまった。
 家では見た事もない華美な服装を身に纏い、腹を抱え、少年を指差して笑っていた。
 少年は忘れていた「心」が激しく動き出したのを感じ取った。

 ママ、パパ、やっと迎えに来てくれたんだね。
 ママ、パパ、僕はここにいるよ。

 ポロポロと、知らないうちに大粒の涙が零れ落ちた。

 そんな姿を見て慌てた銀縁眼鏡は、マイクに向かってこう言った。

「おやおや、どうやらオイルが漏れているようだ。しかしご安心下さい、当社のメンテナンスはどこよりも迅速で、そしてどこよりも安心です」

 ドッと笑いが巻き起こった。
 義手を嵌めた父は新しい手を叩き、笑い狂っていた。
 銀縁眼鏡が大男に行け、と目配せをする。 
 目からオイルを漏らし続け、棒立ちになっているギーの腹を目掛けて大男はいつものように拳を振り下ろした。

 腹に当てる寸前、大男は途端に違和感を感じてとっさに手を引こうとした。
 しかし、勢いをつけた拳が大男の意識に間に合うはずもなく、少年はステージの端まで軽々とスッ飛んでいった。
 観客達はひとときシンとなり、どよめいた。
 ステージの片隅に飛んだ少年は、ぴくりとも動かない。
 銀縁眼鏡が少年に駆け寄り、銀粉に塗れた小さな首筋に指を置いてその脈を確かめた。そして、軽々とマイクを手に取った。

「おっと、今回ばかりは大男の力が最新の技術に勝ったようだ! たまには大男も勝つようです、どうか彼に拍手を。なんと、ギーは……どうやら故障したようです! ギーはしばらく我が社のメンテナンスに入りますが、どうか次のステージをお楽しみに!」

 場内は大男とギーを称える拍手でいっぱいになった。
 噂には聞いていたが、すごいロボットがあったものだ、と大人達は興奮を隠しもせず口々にしている。
 その大人達の中に、少年の両親の姿もあった。

 ステージの幕が下ろされた。少年はもう動く事は無かったという。

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