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暗室は楽しい〜ポートレートのことも少しだけ

昨夜、暗室作業に勤しんだ。モノクロ暗室。ギャラリストと画家の肖像をプリントした。

暗室は楽しい。仕事や作品制作のときは力が入るけど、基本、楽しい。昨夜は贈呈用だったので気合を入れた。喜んでもらえたら嬉しい。

暗室の楽しさを知って四半世紀になる。始まりは大阪で会社員をしていた頃だ。これまでカラーを含めて随分プリントしてきたけど、いまだ飽きない。「継続は力なり」とか「好きこそものの上手なれ」とはよく言うが、そんなたいそうなものではない。少年の頃、日暮れまで延々と壁に向かってボールを投げ続けたような、そんな感じだ。ただ好きなだけ。楽しいだけ。初恋がいまだ続いているようなものだろう。

これまでたくさんのポートレートを撮ってきたが、全てに私が写っている。被写体を通した私の姿が。私の気配、双方のコミュニケーションの軌跡がそこには写っている。

さらに互いのこれまでの関係の蓄積も写っているだろうし、私の来し方、私の記憶も写っている。記憶を喚起するもの。私の記憶も、それを観た他者の記憶も、人類の全ての記憶も。

「あなたに撮られるのが、とても不快なの」
そう言われたことがある。まだ写真を始めて間もない、自分の撮り方が定まっていない頃。とても厳しい言葉だ。でも、とても素敵な言葉でもある。人生そのものだ。一生忘れることはないだろう。

彼女はとても美しいひとだった。異国で出会い、夢を語り合った。若い頃の話だ。遺されたいくつかのポートレートには、そんなふたりのささやかな時間も内包されているだろう。

カメラは淡々と破綻した関係性、時間をも記録する。冷徹に。それは他人事だ。写真を撮ることは、ポートレートを撮ることは、いいことばかりではない。人生がそうであるように、本人の意図次第でそれは反映される。残酷なことだ。それら全てを含めて、受け容れて強度のある、鑑賞に耐えうる作品に昇華させることは骨の折れることだし、腕力も要る。ときには常識を軽く超える軽妙さや浮薄な様も必要だろう。それらを含めて「楽しい」と、私は思っている。

そんな姿は、かつて常識にどっぷり浸かっていた会社員の頃の私の目には相当奇異に映るだろう。郷里の仲間は私のことを、「常識のある変人」とよく言っている。まあ、どうでもいいことではあるが。

昨夜も素敵なポートレートが私の手から誕生した。私以外、そう思わないかもしれないが、その勘違いが私の歩をひとつずつ前に進めてきた。次は誰がそんな私の勘違いのターゲットになるのか。その時はどうか、ご容赦願いたい。



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