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撮影者は人見知りでも不器用でも構わない。 私の考えるポートレート論。

前回に続き、ポートレートについて考えていきます。前回については下記をご参照ください。


今回はポートレート撮影時に私が心掛けていることをご紹介します。

冒頭のタイトルのように、撮影者は人見知りでも不器用でも構わないと私は思っています。むしろ大歓迎です。私自身も人見知りで不器用です。

反面、撮影者は誠実で謙虚であるべきだと私は考えています。そうであれば人見知りや不器用さをカバーできると思います。誠実に謙虚に、一生懸命に撮ろうとする人間に対しては、ちゃんとその想いに応えようとするのが人間です。被写体には必ずその想いが伝わります。それが人情です。

また撮影者も被写体も人見知りで不器用。撮影も互いに不慣れ。この組み合わせが最強だと私は思います。お互いが協力しあって撮影を成立させようとする姿はとても美しい光景です。「良く撮ってもらおう」とか「良く撮ってやろう」という、邪な「欲」が両者には存在しません。「欲」は写り込んでしまいますから、そんな余裕がない二人だからこそ素敵なポートレートになるのです。

もちろん、そんな「欲」を全面に出したポートレートも、それが狙いであればOKだと思います。自覚出来ていれば、それを鑑賞者の眼に委ねるのも表現のひとつだと私は思います。

饒舌に喋れて被写体を盛り上げられたらと、若い頃はそんなことも思いましたが、人間の本質は残念ながら変わりません。私の不器用さと人見知りは終生変わらないと開き直り、依頼仕事でも作品創りにおいても事務的なこと以外はあまり喋りません。その代わりに謙虚で誠実であろうと努めてきました。その想いが伝わっていたのか、被写体の方々にはたくさん助けて頂きました。そうやって私が撮るポートレートは成立してきました。まさに撮らせて頂いたのです。そんなこともあり、被写体の方には最大限敬意を払い、優しい気持ちを持って接したいと思っています。

以上のように捉えると、ポートレート撮影はそんなにかしこまったり難しく考える必要もありません。ポートレート撮影は、単なるコミュニケーションのひとつのかたちに過ぎません。会話したり、手紙を書いたり、メールしたり。普段いろいろなかたちで他者と意思疎通を図る手段のひとつに過ぎません。当たり前のことで、そんなに深く考える必要もないのです。

次回はそのあたりのことを、コミュニケーションについて私が考えていることをお伝えしたいと思います。引き続き、何卒宜しくお願い致します!





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