見出し画像

ポートレートはコミュニケーションの話。「わたし」と「あなた」の話。

前回の記事を受けて今回はコミュニケーションについて私が考えていることを述べていきます。前回の記事は下記になります。


前回の記事で、ポートレート撮影において撮影者が人見知りで不器用でも構わないと書きました。むしろ大歓迎。私も実際そうで、撮影時には口数も少なく、シャッターを切る数も少ないです。不器用な分、それを自覚して被写体に対しては謙虚な姿勢、誠実な気持ちを持って臨めばいいし、それしか出来ません。その一生懸命さに被写体が応えてくれて何とか撮影が成立する。それしかできないと開き直るしかありません。それでダメだったら仕方ありませんし、次のチャンスに活かせばいいのです。人生全てが上手くいくなんてことはありませんので気にしなくていいのです。被写体に出来うる限りの礼を尽くし、自身もベストを尽くしていればそれでいいのです。縁がある、なしは自分ではどうにも出来ません。私はそうやってポートレートを撮ってきました。

そしてポートレート撮影はコミュニケーションのひとつのかたちに過ぎないと述べました。会話する、手紙を書く、メールする。そんな普段何気なくしている意思疎通の手段のひとつで、何も臆することはありません。そう述べました。そのあたりのことを書いていきたいと思います。

私は以前から、会話が上手で他者と上手くコミュニケーションが出来ている人が、必ずしもポートレート撮影に長けているとは限らないと思っていました。社交性や明朗さとは別の次元のことだと思ってきました。むしろ口数が少なく不器用で、何かが欠けていたり、もしくは過剰だったりする人の撮るポートレートに私はハッとしたり、グッとしてきました。その謎のようなものを上手く言葉に出来ずにいましたが、ここ数年で自分なりの解釈を持つようになりました。その過程でヒントを得たり、大きく影響されたのが、映画監督の濱口竜介さんの作品と言葉であり、写真家の横山大介さんの作品と言葉でした。

濱口監督の作品を全て観ているわけではありませんが、「ハッピーアワー」という長編作品に衝撃を受け、すぐに監督に会いに行きました。瞬く間に有名になり、会えなくなると思ったからです。タイミングよく自宅近くの大学でトークショーがあり、終了後の酒席にも参加することが出来ました。直に色々な話をお聴きしました。以降、他の作品を観たり、トークショーに参加したり、著書を読んだりインタビュー記事を読んだりしました。私の旧知の小説家の方が濱口監督とトークショーをする機会があり、始まる前に3人でお話させて頂いたこともありました。作品から伝わるものも多いですが、実際にお会いするとその何倍もの情報が伝わってきます。

先に触れた「ハッピーアワー」の出演者のひとりが数年前に私の生まれ育った郷里の町に移住され、ミニシアターを立ち上げました。それが縁で濱口監督が毎年そのミニシアターでトークショーをされています。嬉しい限りです。そして濱口監督の作品や「ことば」を追っていくと、監督は「コミュニケーション」についてずっと創作されているのではないかと、自分なりに感じるようになりました。コミュニケーションは、「わたし」と「あなた」の話です。それが広がって社会とか、世界とか大きなもの、概念に繋がっていくと私は思います。

そして写真家の横山大介さん。どこかで手にしたDMに写るポートレートが素晴らしくて、横山さんの写真展を観に行きました。その時には横山さんが吃音だとは知らなかったと思います。そしてトークショーにも参加しました。とても素晴らしかったのです。私のこれまでで随一の写真家によるトークショーだったかもしれません。それくらいの衝撃でした。展示に寄せられた横山さんのステートメントと、美学者の伊藤亜紗さんのステートメントも素晴らしく、何度も読みました。そして横山さんとゆっくり話をしなければならない。そう思い、再度展示の最終日に訪れ、色々とお話を伺いました。そこにはたくさんの学びがあり、閃きとヒントがあり、合点がいくことがありました。今回を含めたポートレートに関する私の記述も横山さんからの影響が多々あります。ちょうど来週から東京の蔵前で展示が始まりますので、ぜひ足を運んでみてください。

下記、横山大介さんのサイトです。

http://daisukeyokoyama.com/


話をコミュニケーションの話に戻します。
人見知りだったり、不器用だったり、何かが過剰もしくは欠けているような、そんなコミュニケーションが苦手に映る人が撮ったポートレートになぜ私は心を奪われるのか。彼らが常に「伝える」、ということを考えてきたからだと私は考えます。「伝わる」も含めて、どうやったらこんな自分の意思を相手に理解してもらえるのか。長年、孤独を抱えながら考えてきたはずです。「コミュニケーション」について深く考えてきたのです。試行錯誤しながら、実践してきたのです。横山さんのような吃音の方もそうです。何らかの身体的な理由で話すのが困難な方もそうだと思います。普通に会話し、意思の伝達が「上手く」出来ていると思っている我々よりも、コミュニケーションについての理解はずっと深いでしょう。精通しているでしょう。人間の心理もより深いところまで理解しているでしょう。そんな彼らがカメラを持てば、たとえ言葉を介さなくても他の伝達方法で瞬時により深く意思疎通を図り、被写体と信頼関係を結び、極上のポートレートを限られた枚数で決着できるはずです。上手く会話できていれば相手に理解されているだろうという勘違いに私達は気付くべきでしょう。足元にも及ばないのです。危ういものです。もちろん、全ての人に当てはまるわけではありません。極論です。でも、私はそう感じるのです。横山さんの撮るポートレートにコミュニケーションの秘密、理、そして普遍を観た思いでした。

随分と長くなってしまったので、続きは次回に譲ります。引き続き、何卒宜しくお願いします!






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?