サザンロックの定義とは何か? ③
前回、前々回に続いて、今回は3回目となるが、下準備もできたので、まとめていきたいと思う。過去記事を未読の方は、以下のリンクからどうぞ。
①の内容は以下の通り。
・アメリカ南部とは?
・サザンロックの始まり
・レーナード・スキナードの登場
②の内容は以下の通り。
・ジョージア州のレーベル
・オールマンズに続くアーティストたち
ジミー・カーターと大統領選
オールマンズの成功は、そのままキャプリコーンの成功だった。さらにオールマンズに続いたアーティストも含めて、世間の目は「南部」へと向けられることとなった。キャプリコーンが新しいアーティストを探したのか、アーティストがキャプリコーンを目指してやってきたのかは定かではない。しかし、キャプリコーンに所属しているアーティストの紹介で繋がったアーティストもいたとのことである。
‘76年の大統領選に、ジョージア州出身のジミー・カーターがいた。キャプリコーンは彼の支援コンサートを、レーベルのアーティスト総出でおこなった。結果的に彼は大統領に当選するのだが、キャプリコーンの勢いは、もはや地元のレコード会社という枠には収まらなかった。そうした「音楽以外」の活動が、アーティストたちにどう映ったのか?
サザンロックの翳り
そして’76年をピークとして、サザンロックは徐々に失速していく。オールマンズは分裂し、グレッグもディッキーも自分たちのソロ活動を優先し、かつての荒々しい噴き出すようなブルースロックは消えてしまった。
さらに’77年10月、スキナードの乗った飛行機が墜落し、メンバー3人とロードマネージャー1人が亡くなり、残ったメンバーも程度の差こそあれ、完全復帰には気の遠くなるような時間が必要だった。
時代の変化
田舎風味でありながら、スリリングなギターやツインドラムによる多彩なリズムなど、さらにライブにあってこそ、本来の魅力を発揮するようなバンドよりも、都会的でお洒落な音楽がメインストリームとなり、そのアンチテーゼとして、パンクの台頭など、サザンロックは完全に過去の遺物と化してしまった。そしてキャプリコーンの倒産によって終止符が打たれた。
以上がサザンロックの総括的な流れであるが、ここからは個人の見解である。「サザンロック」とは、レコード会社と時代によって作られた一つのカテゴリーである。誤解を恐れずに言えば、キャプリコーン・レコード=「サザンロック」という解釈で間違いはない。
では、キャプリコーンと契約しなかったアーティストは「サザンロック」ではないのか?と聞かれれば、答えは「ノー」である。「サザンロック」にカテゴライズされたアーティスト(バンド)は、メンバーに血縁者や幼馴染、近隣住民などが多く、キャプリコーンのアーティストと親密な交友関係があったアーティストも、サザンロックにカテゴライズされている。
例えば、アウトロウズは、フロリダ州タンパ出身のバンドであり、契約はアリスタであるが、スキナードと交友関係にあり、アウトロウズと命名したのは、スキナードの故ロニー・ヴァン・ザントである。
また、グラインダースウィッチは、オールマンズのローディのジョー・ダン・ペティ(ベース)が中心となって結成された。彼らはキャプリコーンのバンドである。
さらに、初期のスキナードで、ドラムのボブ・バーンズが抜けた時の代わりのドラマーは、ブラックフットのリッキー・メドロックであり、レオン・ウィルクソンの前任のベース、ラリー・ジャンストラムはスキナードを脱退後、38スペシャルのベースとして再登場した。
オールマンズとスキナード以外の交友関係として、チャーリー・ダニエルズを見ると、彼はキャピトル〜カーマ・スートラ〜エピックと移籍しているが、’74年からボランティアー・ジャムのイベントを継続しておこなっており、これに参加しているアーティストがそのまま「サザンロック」のアーティストと重複する部分が大きい。
「南部」という地元に特化したアーティストと、その部分に着目し、商業的な成功を生み出したレコード会社のムーブメントが「サザンロック」だったのではないだろうか。
次は地域という視点から分析をする予定。次が最終回。
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