雑考・哲学 哲学は何をするか、こんにちの哲学の役割とは。そして…

 哲学はphilosophiaとして知への愛であるとはよく言われることであるが、こんにちにおける哲学はもうphilosophiaとは言えないし、それは社会的に規定された既成事実となっている。だから、私はphilosophiaとしての「なんでも屋」の哲学ではなく、今回はむしろこんにちの「哲学」について考えてみる。

 哲学は何をするか、或いはその意味での哲学の役割とは何か。一つ回答を出すとすれば、科学的方法で掴み得ないものを掴もうとする試みであろう。科学はこんにちの社会において圧倒的な信頼性と実効性を獲得している。そしてそのことは、日常で「科学的」という言葉が専ら、というより完全にとまで言えるほど良い意味でのみ使われている事実に着目すれば、明瞭にわかる。しかしこれは、社会が科学的になったことは意味しない。社会が科学的というのは、おそらくカテゴリーミステイクであろうし、重要なのは、社会で科学的とされるらしいものが大いに受容されるようになっている事実の方である。
 当然のこととして、ここで言う、或いは世間で無自覚的に使用されるところの「科学」とは、専ら自然科学のことである。すなわち、人は自然科学的な方法論を唯一真なるものとして受容する態度を取っている、と言っても過言ではないかもしれない。遍く名付けられない宗教的なる事象に触れる時、人はどこか反省的に冷めた自分を持っている。その者はどこか科学的なるものの真正さを信じていて、その他の営為を世界の中心ではない取るに足らないものと感じていないだろうか。ひとまず断っておくが、私は科学的知見の実効性が好きであり、また、一般に考えられているよりも科学的方法の妥当する領域は広いと思っている。しかしそのうえでなお未決に終わる領域がある。そこでの問題として、人はそこで宙吊りに甘んじることは、ほとんどの場合できない。そもそも超越的視点で考えると、科学的方法を戴くか否かということも、脱中心化した成年(青年)においては、一つの選択である。しかし、基本的に人間が社会的存在者であることからすると、現に社会で科学が行われているところからして、こんにちにおける人は選択なしに科学的でもあるのだろうとは思う。或いは、彼にとって科学は圧倒的な自然である。だから、余談だが、彼は科学の行われていることにも、科学的営為にも、崇高さを感じるかもしれない。
 このように書き起してきたが、問題はそのような社会における哲学の役割であった。さて、科学的方法では掴み得ないものとはどのようなものだろうか?恐らくそれは膨大にありすぎるので、逡巡したが、そもそも科学的方法で掴み得るものの方から確定させたい。科学的方法論にも様々な立場があって論争というものがあるのだが(忌まわしい)、科学でわかることというのは、
 
ー数日経過ー 

 さて、こんな文章を書いていたが、改めて読み返して思う。なぜ、なぜこの一回きりの私の人生が括弧付きの「哲学」如きに縛られなければならないのだろうか?それは、社会的現実性を超えた過剰な自己規定なのではないだろうか?だから、そんなに自分を縛る必要はないように思える。私は「哲学」が好きなのではなく、あくまでも哲学という語に自分の生き方や傾向性をただ仮託していただけだったはずだ。いつから逆の価値顛倒を来しているのか。そうした次第で、私は好きにすると宣言させていただいたところで、この文章を〆る。


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