陰陽の渾然

陰陽の渾然


はじめに
 二日酔いで頭が痛いのに、それでもなお朝っぱらからぶどう酒を飲みながらの執筆となった。酸いぶどう酒を差し出されて死んでいきながらも復活したらしい奴の伝説は右耳に入ってくるが、それは天子のみに許された傲慢。おわかりだろうか。それではご賞味を。


 
 
陰陽の渾然

 
闇路の先に光あり。母なる大地、父祖の足跡。

 
 私の生まれは九州は唐津である。古くは末盧国として俗に言う魏志倭人伝に記載されている。松浦川の流れは始原の潮と溶け合い、或いは山上の園庭を発した河が青の氾濫する虚ろに混沌と漂い碧波の線分に溶融している三重奏。三韓征伐にまつわる伝説、元寇は掠める程度だったが、朝鮮出兵の拠点となり半島の陶工たちにより窯業が開かれ、幕政下においては佐幕の地であった。そのような呪われた隘路に私は生まれた。そして、一向に進まない隊列を抜け出てこの街に出てきた。東の街にさすらって、柔らかな日差しが近くなった。その光は転がる小石を照らしている。魂の悦楽は常にわからなさと宙吊りのただ中にある。肉的な欲に方向を付与すると、すなわちそれは欲望となる。その欲望は或る発達段階において決定的に重要である。上昇は主として顕示された在るものとともに在った。欲望は上昇である。隠喩的に示される在るものは、常に地上の存在者の自己顕示欲の産出する異物の総体でしかなかったのではないか。否定は不可能性で可能性を限定する。自己の存立から外へ出ることは主に上昇の観念を伴うが、逆に没落の観念と習合している事例―しかし決定的に重要―がある。
 一方で知は常に宇宙的虚無のアイロニーに陥りうる。私が宇宙的虚無のアイロニーと言うのは、すなわち自己の存立から外へ出ることによって自身を見たと思ったところ、実はそれが湖面の自分でさえなく全くの別人だった、というような事態を表す。統合感と帰属意識はときに猛然たる虚無を齎す。ミコは巫女であるが、同時に御子であり、弥呼、でもあろう。或いはアポロンが女だったらこんな羽目に陥ることはなかっただろう。HydrogenがHeliumになるようなことはとうに地上でも行われており、それは明日の生命の樹を枯らしてしまうのか。花の色の衰えをそれとして享ける心を、かつての日本人は持っていた。

かれるまで 色は違えど 空のもと
それ人間の いのちなるかな


 私は全休の木曜日の昼にこの文章を書いている。部屋で一人、書いている。目の前には画面の文字列、そしてその横に水、私を取り囲む本。すりガラスからは太陽の光。狭いドアと広い本棚。ああ、なんと心地のいい、気持ちのいい、少し酒の入った、情けのある桃源郷なのだろう。盃を灰皿にして、少し燻る煙の中での物書き。冷蔵庫には練乳のアイスがあるなあ。日本中が秋晴れらしい。今頃は、北海道の湖では、青空の下白色の鳥が湖面に顔を映しながらうっとりして水を飲んでいるのだろう。奥州では低木の山並みの中、学校で子供たちが暖かなお昼休みに裏山を駆け回っている。信濃の盆地ではあの白い山脈から吹き下ろす寒風が一面の草をさらう。西国の空は濃密すぎる、あまりに濃密すぎるのだ。私の故郷では、きっと、商工会議所の役員が、他所様の子女がどうだという話をして盛り上がっている頃だろう。東京の空に神は似合わない。神話は地上に降ろされた。夢は大地にこそある。世界の明日を知るのは夢を見る私だけである。或いは、明日を見る私だけが狂人の夢を見る。いや、しかし、未来に光芒を投影してみても、この現在の大飢饉での空腹は満たされないではないか。種もない。救われない私たちは、どこへ行くのか、どこへ行くのか。
 世界はどこもとどまっていない。風は吹き回り続ける。秋の稲穂刈られた後の晴れ間にこだまする。私は何をするか?私は何をするか?私は何をするか?
 
あとがき
 この通りの出来です。満足いくものではありませんが、自足したらそれまでなので常に人間として不満でありたいと思っている次第です。今後もポイエーテースとしての活動は継続して参りたい所存でありますので、頑張ります。
                     2022年11月10日(木)記す


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