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【読書】『釈尊のさとり』1979.2 増谷文雄(1902-1987) 2022.9/25

 私のこれまでの思索と学習は、ただ表層的に目録を構築するような作業だったように思う。そこで、数か月前からは、本格的に本を通読するタイプの学習形態も半ば娯楽的に取り入れようと思っていたのであるが、根っからの無精により漸くの通読となった。第1号は増谷文雄『釈尊のさとり』である。この本は、90頁と非常な短さで、読書家の後輩見て曰く「細い!」。
※増谷文雄(ますたにふみお):1902年福岡県生まれ。25年東京大学文学部宗教学科卒。各大学で教授や学長を歴任。専門は宗教学・仏教学。(本書の著者紹介より)
 さて、このタイミングで読むことになったのは、この3週間ばかり語学や数学に乗ってきており、後期の講義始まっての受講もうまくいき、これから経験プロセスを通して学習をしていくことについて自信がついてきた故に、心理的に安定してきたというのがあろう。そして、今日も昼から夜まで語学を中心として勉強をしていたのであるが、睡眠不足からか疲労を覚えたので、ふと机上に積んでいたこの薄い本で休もうかと思って読み始め、そのまま通読した次第である。読書慣れしていて、かつ素直に読む人なら数十分もあれば読み通すのであろうが、私は読書に慣れていないのと、そして何より想起や思考が働きつつ、それに伴い事典を参照したり付箋を貼ったりしながら読んだので、結果的に約2時間強の読書になった。


・内容要約と解釈・感想等

1.全体の構成と目次、および識語について。
 構成は目次の通り。

目次
識語
1 はじめに
2 「さとり」の消息
3 「さとり」は直観である
4 菩提樹下の思惟
5 縁起の法
6 縁滅の法
7 苦ということ
8 十二縁起
9 正覚者の孤独
10 梵天の勧請
11 最初の説法
12 四つの命題

 さて、識語で述べられている通り、本書は70年代後半に行われた地方での一般向け講演の書き起こしに、著者が若干の加筆をしたものである。それはそうと、識語でのツカミが上手い。まず三つのことを申し上げると提示し、第一に、さとりとは直観であると言い切る。第二に、それは受動的であるということと、しかし釈尊が「悟性」によってさとりを知性化したことが示され、第三に先述した本書成立の「因縁」が述べられている。読みやすさを明示しつつ、同時に内実を欲させるツカミである。

2.全体を通して
 本書は、仏教のタームに関してはしっかりとサンスクリットのローマナイズが併記されている。
例:

「大覚成就《だいかくじょうじゅ》」なされたとか、「無上の等正覚《しょうがく》を現成《げんじょう》」(anuttaram samma^sambodhim abhisambuddho)されたなどと申しますが、

p.11


・マニ教的二元論
 p.12において、釈尊の苦行への動機についての記述で、当時のインド人全般に”肉体の力が落ちていく→精神の力が高まっていく”という考えがあった、という記述がみられるが、これについては、私は即座に、あの西アジア-地中海世界に広く影響を与えた、とりわけマニ教に代表される物質・肉体と精神・霊魂の二元論を想起した。※この云わば古代的二元論に関しては、後に与えた影響も大きく、また人類的普遍性もみられることを関知しているので、調べてみることにする。
 ところで釈尊はこの二元論に基盤をもつ苦行に、その合理的精神から疑念を持つ。なぜなら、肉体的断食苦行を進めるにつれ、朦朧とし思考も弱ってきたから、とある。私の私見だが、仏教では苦楽の中道とはよく言うものの、大乗仏教的観念で裁断すれば結局シッダールタそれは「自利」ではないか、と思うのである。(キリスト教的な個人の倫理の真摯さ、のようなものに些少の精神的影響を受けている私は否めない。)

・鈴木大拙
 p.16- 3 「さとり」とは直観である という、読み進めてきた読者が恐らくは一番気になっているであろう箇所で、本書は導入として鈴木大拙(1870-1966)がプリンストン大学で行った「SATORI」講演から入る。なお、鈴木大拙に関しては、つい先日、私の大学の教授が、鈴木大拙は禅思想において不誠実な扇動家タイプだという趣旨のことを仰っていた。 『岩波 哲学・思想事典』の鈴木大拙の項目において、大拙が『金剛般若経』のA=¬A∴Aといったような推論式に着目したことに、私は着目した。「金剛般若経」に関しては、岩波文庫から出ている故・中村元先生らによる現代語訳が手元にあったので、確認した。すると、確かに繰り返し繰り返しその論理が展開されていた。私はこれにもまた可能性を見出している性質である。

・『正法眼蔵』と道元

 私は、そもそも釈尊(すなわちガウタマ・シッダールタ、その生涯とりわけ悟り)については、文献学的アプローチには無理があると思うので、本書に書かれていることはあくまでも宗教学を専攻なさった仏教学者の方が仏教的立場から現代的に「さとり」について語っている、という程度に見るにとどめることが妥当だと考える。

 とかなんとかまあこんな馬鹿丁寧に読後の感想文を書いていたなあと思うが、上までの文章を書いてから一か月以上が経過した。結局ろくに本が読めていない、俺は何をしているんだ、活動量が少なすぎる。そんなところだ。
2022年11月17日(木)晩に記す。

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